さあ、先に進みましょうw
(↑遅いぞ!)
(↑まあまあw)
第5条冒頭で、親鸞は
親鸞は父母の孝養のためとて念仏、一返にても申したることいまだ候わず。
(親鸞は亡き父母の追善供養のために念仏したことは、 かつて一度もありません。)
(【ジーナ訳】おいら親鸞は、死んだ両親の供養のために念仏を唱えたことは、一度たりともないよ。
そんなものはムダムダw
意味がないんだよw)
と述べており
「その理由」として
そのゆえは、一切の有情は皆もって世々生々の父母兄弟なり。
いずれもいずれも、この順次生に仏に成りて助け候べきなり。
(というのは、 命のあるものはすべてみな、 これまで何度となく生れ変り死に変りしてきた中で、 父母であり兄弟・姉妹であったのです。
この世の命を終え、 浄土に往生してただちに仏となり、 どの人をもみな救わなければならないのです)
(【ジーナ訳】その理由は、フォーカス27の「生まれ変わりシステム」で分かる通り、死んだ両親とは何度も父母きょうだい等の関係を、この世で何度も繰り返しているからだ。
いわば、「同じクラスの中で何度も席替えをしている」ようなものさ)
と言っています
さて、ここでまた「重大な事実」を指摘しましょう~
それは
親鸞は輪廻転生を「悪」ととらえていないw
ということです
このことは、前回紹介した親鸞のいくつかの言葉でも分かるのですが
上の第5条のロジックだけでも分かります
つまり
供養のために念仏したことはない
↓
理由は、亡き父母たちとも、これまで何度も父母きょうだいとなって生まれ変わっているから
供養のことは仏になってから(フォーカス27へ還ってから)考えればよく、今は供養のことはどうでもいい
もし、輪廻転生が「悪」ならば、このような表現をせず
はやく亡き父母の供養をしよう!
と言っているはずです
しつこくて恐縮ですが、「逆」に言えば
はやく亡き父母の供養をしよう
と主張する指導者、団体が存在した
から、親鸞のこの言葉を、筆者唯円は紹介したのです
ざっくり言えば
「念仏だけで十分なんだよ!」という「専修念仏」を唱えた親鸞に対し
「いやあ、実はもっと必要な修行があるんだよ…うへへ」という「専修賢善」を言い出した指導者、団体があらわれた
ので
大正解の「親鸞の悟り」
大正解の「親鸞のスタンス」
を、唯円は歎異抄に載せたのですね
参照:
親鸞は輪廻転生を「悪」ととらえていない
ですが
親鸞研究の最重要事項にもかかわらず
この点を指摘されている方を私は知りません
(「厳しさ」「湿っぽさ」にかたよると、この点を軽視、無視してしまうのかもしれません)
ちなみに
輪廻転生は「悪」って、なしてだっぺ?
っていうエバラギ県民の声はもっともです
前回
煩悩は消せるわけねえし
むしろ煩悩を味わいにこの世に来た
という親鸞のスタンスを紹介しましたが
ヒンドゥー教や初期仏教で、修行者は
とにかく解脱!
を目指していました
(ウッカリ!)
釈迦の四苦八苦「生老病死」の
生
がまさにそれで
ざっと言えば
この世に生まれたのは
ウッカリ輪廻転生しちゃったからだ
この世の苦しみから逃れるには
輪廻から脱して解脱するしかない
解脱こそ人間が目指すべきもので
解脱者は尊敬にあたいするお方だ
解脱には煩悩を消さなくてはならないが
肉体があるから煩悩も生じる
だから煩悩は「悪」で
煩悩を生む肉体も「悪」なのだ
肉体を痛めつければ煩悩も消えるかも南蛮
ならば厳しい修行こそ「悟り」への道だ…
ってな感じですw
親鸞はフォーカス27(以上)を体験したことで
この思想から解放されたのですね