「歎異抄」第5条っす~

 

 

 

「歎異抄」は、その性格上

 

親鸞の言っていることが大正解!

 

です

 

 

参照:

 

 

 

 

 

この視点はめちゃんこ大事でして

 

親鸞が自分自身のことを

 

悪人

愚禿

煩悩具足のわれら

 

とかなんとか言っても

 

 

 

唯円は

 

親鸞のこの発言、スタンスが大正解!

(=お前らは間違っているんだぞ!)

 

と、堂々と紹介しているのです

 

 

 

この視点で読まないと「歎異抄をミス・リード」してしまう

 

とは、何度も指摘していますが

 

 

 

自分のことを「悪人」「愚禿」「煩悩具足のわれら」と言っている親鸞は

わが身を嘆いているのではなく

めちゃくちゃ明るく、カラッと述べている

 

のです

 

 

 

 

ところが、「現代語訳」のほとんどは

 

「歎異抄」を湿っぽく厳しく解釈していますw

 

 

 

なぜ親鸞の言葉は「湿っぽく」「厳しく」解釈されるのか?

 

と言えば

 

 

 

翻訳者、解釈者が「湿っぽく」「厳しい」

 

からですw

 

 

 

これも、指摘されておられる方がいらっしゃらないのが不思議なのですが

 

当時、まだ「口語体」が発明されておらず

 

「口語体」の完成以前の明治まで

現場で実際に話された「はなしことば」は

文章にするときには「文語体」で書かれる

 

という理由が濃厚にあります

 

 

参照:

 

 

 

 

 

「文語体」で書かれた文章を「現代語」に翻訳するとき

 

「湿っぽく」翻訳してもいいし

「カラッと」翻訳してもいい

 

「厳しく」翻訳してもいいし

「ほがらかに」翻訳してもいい

 

のですw

 

 

 

つまり

 

翻訳の「雰囲気」は

翻訳者の体験や性格がストレートにあらわれるw

 

ということです

 

 

 

 

 

ただし、これまた誰も言っていないのがとても不思議なのですが

 

親鸞の存命中は浄土真宗の寺はない

 

ってこともその大きな理由の1つなのですw
(お寺はもちろんあったが、親鸞のそれと、世間一般のそれはまったく違う)

 

 

 

 

 

そもそも親鸞は

 

親鸞は弟子一人ももたずそうろう

 

と言っています

 

 

 

これは言い換えれば

 

ヒエラルキーは要らない

 

ということで

 

 

 

さらに言い換えれば

 

修行を指導、管理する「お寺」は要らない

 

ということですw

 

 

 

歎異抄の解釈における「お寺での修行の弊害」が、まさに

 

翻訳者、解釈者が「湿っぽく、厳しくなる」

 

という点なのですが、それはまた次回w

(「お寺での修行」を否定する意図はなく、「歎異抄の解釈」の際、「お寺での修行」の体験が「その人のフィルター」となって解釈にあらわれやすい、という意味です)

 

 

 

 

 

ちなみに、ですが

 

親鸞は弟子一人ももたずそうろう

 

というのは何度か指摘していますように

 

 

 

悟りとは「師弟関係」で得られるのではない

 

ということが分かった人がいう言葉です

(「悟り=フォーカス27」についてはまた改めて述べます)

 

 

 

後日提示しますように

 

初期仏教(上座部仏教)系統のグループでは

 

「師弟関係を重視」しています

 

 

 

これは「正しい師につく」という面も表向きにはあるのですが

 

「ニセモノのグル(指導者)」の出現を防止するためw

 

という理由が濃厚なのです

 

 

 

つまり、ヘミシンク以外の通常の瞑想でも

 

瞑想のコツをつかんで、ある段階まで行くと

 

フォーカス27以上を体験する人

 

が出てくるのですが

 

 

 

その人の体験が本当にフォーカス27以上かどうか?

を「判定」「判断」する人が必要

 

という理由なのですねw

 

 

 

 

 

ヘミシンクでは「フォーカス27以上の情報を報告、共有」していますが

 

初期仏教系統のグループでは

 

 

 

フォーカス27以上の体験者を「判定者」として「継承」

 

し、ニセモノさんの出現によって

 

ヘンな方向へ行かないようにしていたわけですねw