『歎異抄』の「第9条」をやろうとしつつも

 

これは「第2条」とかかわりあるがごとく

 

ゆえに「第9条」は「第2条」を受けているとみなし

 

先ず「第2条」を語りけり

 

 

 

はい、なんとなはーく読みにくいですねw

 

それは「文語体」を使って書いたからです

 

 

 

冒頭の文章を「口語体」で書けば

 

 

 

『歎異抄』の「第9条」をやろうとしながらも

 

これは「第2条」と関係あるようで

 

そういうわけで「第9条」は「第2条」を受けているとみて

 

先に「第2条」を語りました

 

 

とこんな感じですw

 

 

 

 

「第9条」に入る前に

 

この話はしておこうかな〜ん♡

 

というのが

 

「文語体」の弊害

 

についてです

 

 

 

 

文語体は平安時代に成立した書き方で

 

第2次大戦まで公文書などで使われていました

 

 

 

明治になって「言文一致運動」が起こり

 

尾崎紅葉、二葉亭四迷さんらーのおかげで

 

 

現在のような

 

「です、ます調」

「だ、である調」

 

の文章を「書く」ようになりました

 

 

 

明治時代の彼らも

 

書く言葉も「普段しゃべっている言葉」にしようよ!

 

って「不便」に感じたわけです

 

 

 

 

 

ここから分かる「文語体の弊害その1」

 

文語体の文章のまま

その人はしゃべっていない!

 

ということです

 

 

 

たとえば『歎異抄』第9条の冒頭は、このように始まります

 

念仏申し候へども、踊躍歓喜(ゆやくかんぎ)のこころおろそかに候ふこと、またいそぎ浄土へまゐりたきこころに候はぬは、いかにと候ふべきことにて候ふやらんと、申しいれて候ひしかば、親鸞もこの不審(ふしん)ありつるに、唯円房(ゆいえんぼう)おなじこころにてありけり

 

あるとき、わたしはこんなふうに親鸞さまにおたずねしたことがあった。

「お恥ずかしいことですが、じつは念仏しておりましても、心が躍りあがるような嬉しさをおぼえないときがございます。また一日でもはやく浄土へ行きたいという切なる気持ちになれなかったりいたします。これはいったいどういうわけでございましょう」

すると親鸞さまは、こう言われた。

「そうか。唯円、そなたもそうであったか。この親鸞もおなじことを感じて、ふしぎに思うことがあったのだよ。

(五木寛之さん訳)

 

 

 

当然これも文語体ですが

 

これ実際には、この文章の通りしゃべっていない!(発音していない)

 

のです

 

 

 

いや、もしかしたら筆者唯円は「祖師と会う」ということで

 

かしこまって「そうろう調」で話したかもしれませんがねw

 

 

 

 

 

「漢文」もまた同じで

 

ジーナ願往

(ジーナ往カンコトヲ願フ)

 

というのは「書き言葉」であり

 

 

 

実際は

 

「アテクシに行かせてちょ!」

 

と言ったのかもしれず

 

 

 

実際の発音は違う(分からない)

 

のですね

 

 

 

 

どちらにしましても

 

しゃべり言葉は「時代とともに変わる」

 

のですが

 

 

しゃべり言葉を文章にする際は

 

「いつも文語体に直して書いた」

 

のです

 

 

 

 

 

すると「文語体の弊害その2」が生じるのです

 

 

 

 

それは

 

「現場の雰囲気は読者にゆだねられる」

 

という点です

 

 

 

たとえば、一般的な第9条のとらえ方をご紹介します

 

 

 

もう「文字ばかりブログ」になって恐縮ですが

 

興味ない方は「ここまで」までスクロールされてくださいw

 

 

 

 

武蔵野大学教授の山崎龍明さんの対談からです

 

 

山崎:  そうですね。ただ「素朴なこと」と言いますか、基本的なことであるだけに、唯円さんは相当覚悟をもって―梅原猛という人が、『歎異抄』の本を書かれましてね、こう書いていますね。この第九条ですけど、「唯円は言ってはならないことを言ったのである」という。だって親鸞さんのもとで教えを聞いていながら、当然教えの喜びがあるはずなのに、一向にそういう心が起こらない。こんな私で救われるんでしょうか、というのは、相当まぁ力がある、勇気がある質問ですよね。だから梅原さんは、「言ってはならないことを言ったのである」と。「でもそこに唯円という人の正直さがある」と書いたのは、梅原猛さんですけどもね。

 

草柳:  でもたいていそれは誰でもそういうふうに感じるものじゃありません?

 

山崎:  そうですね。ただどうでしょうか、一般的に仏教とか信仰の世界ですと、師と弟子というものがありますと、そんなこと師匠に聞いてどやされるんではないかと。

 

草柳:  そういう心配がありますね。

 

山崎:  本来親鸞聖人は、そういうことは一切心配ないんだよ、という教えを説きながら、唯円さんにしましては、真面目な人であるだけに、そういう思いがあって、私は悶々していたんではないかと思うんですよ。今日は思い切ってこのことを聞いてみようという心が、第九条というものになってきたのではないかと。

 

草柳:  もしこの通りだとすれば、親鸞が答えてくれたという、そのことに対して唯円はものすごくほっとしたんでしょうね、きっとね。

 

山崎:  そうですね。それはホッとするというよりも、むしろ深い驚きだったと思いますね。「親鸞もこの不審ありつるに」なんていう言葉は、誰が想像したでしょうね。おそらく一般的に言いますと、よく私は日常的にも、よくあるじゃないですか。どうしても教えがわからない、喜べない、日常のものにならない、どうしたらいいでしょうか、という問いがあったときに、大多数の方は、「あなたは信仰が未熟です」とか、「信心が足りないんですよ」という姿勢が多いんじゃないですかね。私はそういう時に、そういう深刻な問いに対して、「あなたはまだ未熟だ」とか、「信心が足りない」という信仰は恐ろしく危ないと。実はそこから共々に学んでいくのが信仰の営みではないかなと、私は考えているんですね。だから勇気あるというか、思い切った唯円さんの質問、ひょっとしたら親鸞さんにとっては、それは一つの喜びだったかもしれませんね。よく問うことがやっぱり本当のことを学ぶということにつながっていくんじゃないでしょうかね。

 

草柳:  そうすると、ある意味ではこの唯円の最初の疑問というのは、唯円にしてみれば、相当必死の問いだったというふうにも言えますよね。

(引用元)

 

 

 

 

 

次に、浄土真宗本願寺派無量山光明寺さんのとらえ方です

 

 

『歎異抄』の作者、唯円さまが親子ほどの、或(ある)いはそれ以上も年の離れた師匠である親鸞さまにご質問なさったときのことを 記されています。そのシーンが目に浮かぶようです。
 

師とは厳しいものです。師とは怖ろしいものです。うかつなことを質問できないものです。下手をすると「今まで何を聞いてきたんや」 と一喝(いっかつ)される気がします。

 

 

唯円さまは「お念仏を申しておりますが、躍(おど)り上がるほどの喜びの心が湧(わ)きません。浄土往生を願う心も起こりません、 一体どうしたらよいのでしょうか」と、恐る恐るお尋(たず)ねになられたのでしょう。
「私自身も、どうしたものかと感じています。あなたもそうであったのですか」と思いもかけない言葉がお師匠さまから返ってきました。
きっと、唯円さまは暖かい親の懐(ふところ)に抱き取られたような思いをなさったことだろうと察します。 涙が出るほど嬉しく感じられたに違いありません。
唯円さまから見ると師・親鸞さまは自分とは違う偉大な人に見えていたのかもしれません。
「あなたもそうか」というお言葉が〝師〟という特別なものではなく、同じ地平に立つ一人の人間であることに 目覚(めざ)めさせられ、「弥陀の慈悲とはこういうことだ、なんまんだぶつ」ときっと気づかれ、 師弟の心が通じ合った瞬間であったのでしょう。

(引用元)

 

 

ハイ、ここまで~w

 

 

 

 

 

「アテクシに行かせてちょ!」

「おいゴラ俺に行かせろや!」

「私に行かせてください!」

 

 

 

といった「実際の発音」や「現場の雰囲気」がどうであれ

 

 

 

「ジーナ往カンコトヲ願フ」

 

で「表記される」

 

 

 

すなわち

 

「現場の雰囲気は読者にゆだねられる」

 

ので

 

 

現場の雰囲気は

 

「察する」

 

しかないのですw

 

 

 

 

 

上の先生方は

 

「一喝されるかも」

「恐る恐る尋ねた」

「唯円、必死の問い」

 

など「厳しめ」の解釈をされておられますw

 

 

 

それも「もちろんアリ」でして

 

「解釈の違い」があらわれるのは

 

私なんかは面白がって眺めていますw

 

 

 

 

ちなみに「私の翻訳」はこうでした

 

 

唯円「師匠!念仏言っても今は躍り上がる喜びが湧いてこなくなりましたし、浄土っていう非物質の世界もどうでもよくなってきましたわ。これってどうなの?」

 

と訊ねてみたところ

 

親鸞「俺もそうだなあと感じていたけど、唯円お前もかw

 

 

 

ついでに「ラーメン・バージョン」も♡

(↑いらんわ!w)

(↑好きなのよw)

 

 

 

唯円「師匠!ラーメン食べても躍り上がる喜びが湧いてこなくなりました。それに、ステーキやキャビア、ふかひれっていう非庶民の食べものもどうでもよくなってきましたわ。これってどうなの?」

 

と訊ねてみたところ

 

親鸞「俺もそうだなあと感じていたけど、唯円お前もかーいw

 

 

 

 

【以下雑談】

 

「文語体の弊害」で話しましたが、もちろん「有効な面」もありまして、それは「方言をしゃべっても文語体や漢文に直せば全国の共通語になる」という点です。

信長が秀吉に「毛利をめちゃんこ攻めりゃ~!」と言っても、公式文書には「毛利ヲ攻メルヘシ」と書かれ、知識人なら誰にでも読める文章に変換できるわけです。

幕末に薩摩と会津の人が京都で会った際、会話が通じませんでした。(←だろうなw)

そこで、両者は「漢文で筆談した」という話があります。

 

 

 

今日は

 

○『歎異抄』は会話文も文語体で書かれている。そのために現場の雰囲気は読者にゆだねられている

 

ということを確認しました

 

 

 

 

 

ここまでの【まとめ】

○『歎異抄』は理解できなくてよい、という空気がある
○『歎異抄』には「等身大の親鸞」の姿が描写され、後世の人々にはそれが驚きであった
○『歎異抄』の筆者唯円は「読者に分かってもらえる」と確信して筆をとったので、後に発禁処分になったり、『歎異抄』は理解できなくてもいいという雰囲気は、筆者唯円にとってかなり想定外であるはず

○「覚者の姿」の一般的なイメージは「聖人君子」である
○神格化された「覚者のイメージ」は後年つくられた思い込みであり、覚者たちは「普通の人間」であった
○「人気のある人」の条件は現代と鎌倉時代とでは大きく異なるが、「面白い人」という点は共通している
○「覚者」のイメージは「陰キャ」よりも「陽キャ」のほうが、人前で説法する外面的なイメージとしては正確である。すなわちユーモアがあり、エロスを理解し、カラッとしている

○『歎異抄』が成立した鎌倉時代の平均寿命は24歳。なぜ現代と比べてかなり低いのかといえば、新生児医療が未発達で赤ちゃんが亡くなりやすい環境だったから

○「女性はたくさん子どもを産む」ことを求められていた時代が長く続いた

○鎌倉時代の庶民は「ワンシーズン経つと、知り合いが死んでいるのが当たり前」の時代に生きていた

○鎌倉時代の庶民の人生観は「楽しいことしたい!」という「享楽的なスタンス」「享楽を求めるスタンス」であり

人々は笑い合い、祭りや収穫を心待ちにし、生きるエネルギーに満ち溢れていた

○子をしつけ、叩く慣習などそもそも日本に無く、少なくとも戦後に生まれた思想

○子をしつけ、叩く慣習は「朱子学」「軍国主義的雰囲気」「戦後の左翼教育の台頭」と関りがあり、それは戦後の日本人の長寿化によるものである

○第2次大戦以前の子どもは「親からのコントロール」が現在と比べるとかなり少なく、それは親(大人)自身が享楽的だったからである

○鎌倉時代は「若者ばかり」で賑やかで活気があった。そして、若者は流行が好きで、ブームをつくり、新しいものに目がないという一面がある

○「あの世に地獄極楽がある」と信じられていた時代、「念仏や題目を唱えるだけで極楽浄土へ行ける」という情報は、享楽的なスタンスの民衆に広く受け入れられた

 

○親鸞が去った関東で、親鸞の教えがゆがめられた。その1つは「専修賢善」と呼ばれ、特別の宗教儀礼によって人為的に感動をあたえ、恍惚状態に導くものであった

○親鸞は「念仏だけ唱えればOK」と説き、「専修賢善」は説かなかった。「第9条」は「それは違うのだよ」という親鸞のスタンスを筆者唯円が取り上げたものである