メリークリス松村!

「拝見」中ですが、QKQK。


幼いころ、電柱によく

「悔い改めよ。天の国は近づいた」

なーんて言葉が貼ってあったもんです。

小学生の私は意味が分からず、黒地に白の筆で書かれたその雰囲気がちょっと怖くて、冗談にしてもいけないのではにゃいか?と避けておりました。


あれ、マタイによる福音書なんですね。

今のはヨハネたんの言葉でした。


(上へまいりまあす!)


マタイ伝には、けっこう有名な言葉が載っておりまして、たとえばイエスさまの言葉ですと

「だれかがあなたの右の頬(ほお)を打つなら、左の頬も向けなさい」

「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」


など、なかなかニティなお言葉がたくさんあります。


今日は気分転換にマタイ伝から次の言葉を。

「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。

だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」
(マタイ6-33,34/翻訳:日本国際ギデオン協会)


後半は「いまを生きようぜ!」ということで分かりやすいのですが、難しいのは前半です。

神の国=ワンネス、普遍意識

神の義=この宇宙の仕組みを知った上での使い方

これらのものはみな加えて与えられる=すべてのものは自分自身のものとなる


あたりでどーでしょう?


すると、現代語の翻訳はこうなります。

「何よりもまずワンネス・普遍意識と、この宇宙の仕組みを知った上での使い方を求めなさい。そうすれば、すべてのものは自分自身のものとなる」

となります。


これはけっこう大事な指摘ではにゃいかと思うのです。

以下はわたし自身への戒めのための妄想であり、なにものをも批判する意図はありません。また、日本語の限界を考慮して読んでいただければと思います。


何が言いたいのかというと、

(いわゆるサイキックな)能力

(いわゆる霊性の)意識の拡大・進化

別物である、ということです。


自身の波動が上がると、エーテル、アストラル、メンタルの各水準と同調することになり、物質世界にたたみ込まれている、いわゆる「目に見えない世界」を知覚するようになります。

それは、まだその水準に至っていない人々にとっては「(サイキックな)能力」と呼ばれます。(優劣なし)


そうした「能力」が生じたことが「意識の拡大・進化」によることだと勘違いしない方がいいかもねってことです。

ヘタをすると、分離感いっぱいの自我意識で「能力」を使いかねないのですね。

それでは結局「遠回り」になっちゃいます。


チャクラについても同じで、まれーに「チャクラを開かせる」ことを目的にした行法のことを耳にしますが、あれももしかしたら順番が逆なのかもしれません。

なぜなら、「意識の拡大・進化」にともなってエーテル水準などの各波動の抵抗が少なくなり、その結果自然にチャクラの流れがスムーズになるからです。

クンダリーニ・エネルギーを動かすことが「意識の拡大・進化」であると無茶なことを行って、きつく辛い体験をした例も耳にします。


エーテル水準などの各波動領域で知覚したものは、このC1と同じく「思念によってつくられた現象」なので、「能力」のほうにあまり重点を置かなくても全然かまわない、ということです。

ヘミシンクブログでなんですがw、ヘミシンクで知覚が開けないことを嘆くことはまったくないのですね。

知覚は「グリコのおまけ」みたいなものです。

おまけは楽しいですが、おまけに重点を置きすぎるのも迷いにつながるかもしれません。