知恵を求める人のためのブログです。

思いつくままに。
前回は6月2日に投稿しました。

初めに、近況から。
落花生、サツマイモ、14本の果樹、南天・シャクヤク・クチナシ・バラすべてが順調です。
この先も油断なく世話をしたいと思っています。

ビワが沢山なり、袋を掛けたビワは奇麗で甘みが強いです。
今年は獣の被害には全く遭いませんでした。
不思議なことに、昨年、柿の食べ残しを置いておくと翌日にはすっかりなくなっていたのに、
ビワの実が沢山落ちているのに鳥も獣も食べに来ません。
ビワが嫌いなのでしょうか?
ビワは、昨年は袋を掛けていても全部食べられてしまったのに、不思議です、分かりません。

ただ、ムクドリのような小鳥が樹になっている熟した実を食べているところは見かけました。
それ以外は、今年流行りの「カメムシ」が沢山います。
傷んでいる実に寄ってたかっています。
見つけ次第「踏みつぶしています」
臭いますが、屋外ですから問題はありません。
殆どがまだ小さく緑色をしていました。
成虫は黒っぽいですがビワについているカメムシは小さく緑色をした、おそらく生まれたばかりのカメムシだと考えられます。
畑の周りに松の木の大木が9本ほどあります。
カメムシは松の木にも卵を産み、落ち葉で越冬し6月ごろに果実の樹に飛来してくるようです。
ビワの葉に卵を産み付けた訳ではなさそうです。
来年は殺虫剤などを散布する必要があるようです。

皮と種を取りミキサーに掛けジュースにし、それを一度煮沸し灰汁を取って冷ましたものを果肉入りジュースのようにして飲んでもいます、美味しいです。
砂糖もしくはレモン汁を入れると変色しませんのでいつまでも美味しく飲めます。
多分、早く飲んでしまわないと常温では直ぐにカビが生えそうな気がします。
我が家では冷蔵庫に入れていますが2-3日で無くなります。

すべて私が飲んでいます。
一度に50個位ですからそれ程の量にはなりません。
それ以上になると皮をむくのが大変なのです。

柿の実も順調に育っています、秋が楽しみです。
昨年は沢山食べ、兄姉にも送ることが出来ましたが今年も出来そうです。
柿の樹は「頭が良い」と思いました。
なぜなら、自分で育てきれない実は自分から落とすからです。

普通は人間が摘果して実を大きくするものですが、
柿はそれを樹が自ら行うのです。
ですから、柿の実に大きさの違いは余りありません。
殆どは同じ大きさです。
今までは、何気なく見ていました。

不思議な樹です。

ビワは人間が摘果しないと実が小さくなってしまいます。
摘果しないと一つの房に沢山実を付けますが小さいですし美味しくないです。

今年の秋ごろから本格的に沢山の作物を作りたいと考えています。

野菜が高騰している昨今自分で育てることは食生活の安定に繋がります。

今年はジャガイモを作りませんでしたが、
畑を貸してくれている人が、お裾分けしてくれると言ってくれました。
私自身は、今は余り食べませんが(好きなので食べ過ぎてしまいお腹が出てしまうので)家族は喜びます。

実は、ビワの実を獣に食べられる「危機一髪」でした。
6月6日朝畑に行くと私が通る道筋に「これ見よがし」に獣がビワを食べ種をそのまま出した糞をしていました。
以前は、
ため池として掘った穴にしていたのですが、奇麗に草を刈った後は見かけていませんでした。
それがこの日に突然現れたのです。
おそらく、イタチだと思います。
以前、うろついているの見かけたことがあります。

キジやカラスは食べるといっても僅かです。
ただ、キジは新芽を食べるの厄介です。
特に、大豆などの新芽が好物です。
キジもカラスも虫などを食べているものと思っていましたが、違いました。
カラスは落花生が好物です。
柔らかいものは、おそらく、食べにくいのだと思いますが、熟した柿をわざと畑に捨てたら目の前で食わえて持って行ってしまいました。

何年かして他の果実の実がなった時のことを考えると今から対策を練っておく必要があると感じています。

柿は樹に生っている状態では殆ど食べません。
獣は私が食べ残したものしか食べません。
カラスもそうです。
獣はビワなどの甘い匂いを出すものを食べますが、柿のように余程熟れないと甘い臭いを出さないものは食べません。

ですから、ミカンなどは殆ど獣の被害はなく、モモやイチジクなどは必ず被害に遭います。

関東も遅い梅雨入りしましたが、晴れ間を縫って、昨日、やっと落花生の黒マルチを取り除き、土寄せ、追肥と石灰を混ぜ中耕しました。
雨が続きすこしぬかるんでいましたが落花生に花が咲き始めたので悠長にはできないからです。

 

サツマイモは手が掛からず順調に育っています。

良い作物です。

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さて、本題ですが、
誰しもが思うことですが、
物事を成功させる秘訣はなんでしょうか?

物事を成功させたいというのは、
簡単に言えば、自分の思うような結果を出したい、残したいということです。

しかし、反面、誰しもが物事は自分の思うようには成らないということを知っています。

それだけ社会が複雑で簡単には行かないということです。
欲しいものをスーパーやデパートなどで買うという訳には行かないからです。

人の望みは千差万別ですから、その望みを叶える方法や手段も人により異なります。
お金持ちの家庭もあればそうでない家庭もあります。
自分の収入が多い人もいれば少ない人もいます。
家族を養うために自分が使えるお金が少ない人もいます。
ローンを抱えている人もいます。

お金だけではなく、個人の能力や技術によるものもあります。

中学、高校、大学などの進学と国家試験などはそれぞれの範囲の中でどれだけ覚えているかで決まるものです。
数学のように工夫が必要な科目や作文など自分の考えや表現の仕方などは出来るだけ沢山練習し経験を積むことで上達するものです。
面接も沢山練習することで、実際の面接の時にそれ程緊張しないものです。
緊張するのは何を聞かれるのか、どう答えようかなどと不安になるからで、何を質問されても良いように準備して置けば、好印象を与える余裕も生まれるというものです。

運転免許など資格試験は簡単に言えば「慣れること」です。
するべき動作のすべてを頭と体で覚え、状況に応じて適切に操作出来れば良いのです。
取得するための時間が限られてはいますが焦る必要はありません。
一つひとつ確実に覚えて行けば殆どの人は取得出来ます。

この他に人間関係や恋愛、結婚した後の夫婦関係の在り方、子供を設けるか否か、子育ての仕方、マイホームをどうするか、スポーツで上手くなりたい、スポーツ選手になりたい、プロ選手になりたい、大学院で研究したい、研究者になりたい、外国語に堪能になりたい、楽器を上手に弾きたい、
アナウンサーになりたい、DJになりたい、歌手になりたい、
まだまだ他に沢山あります。

しかし、
すべてにおいて成功するための法則は、つまり、考えや行うことに関する方程式、つまり、理念や理屈は皆同じなのです。

従って、何事に於いても成功したい人は、原因と結果という理論を理解している必要があります。
簡単に言えば、○○すれば××になるということを理解しそれを実行するだけなのです。

おそらく、こうしたことは、誰でも深く考えなくても直感的に分かっています。
人生経験が少ない若者でも頭では分かっているのです。

いろんな人生を経験している人は、こうしたことに対する意識は常に持っているものです。
逆に、それが強すぎると、新しいことや変化が出来なくなってしまいます。

単に「そういうことは当たり前」だと知っているだけでは不十分なのです。

物事は原因と結果で成り立っていることは誰でもが知っています。
仏教用語で「因果応報」という言葉がありますが、正にその通りなのです。
聖書でも、人間の活動に関しては基本的に同じ考えです。

何かを成し遂げたければ、「その行い」が重要な要素となることは誰でも分かります。
しかし、
何にせよ「ある事柄が生じる=結果」には必ず原因があるのです。

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私は20歳ごろに「人生には方程式がある」と考えたものです。
つまり、
こうすれば○○になるという法則が存在することに既に気が付いていました。

善いことでも悪いことでもこの「法則」が成り立つことを理解していました。
その法則に基づいて生きて来て今があります。

物事の成功とは
出世したり有名人になったり大金持ちになったり有名大学を卒業したり社長になったり政治家になったり、
ということだけではありません。

人には分相応というものがあります。
人と比べてではなく、自分に適した人生を送ることが「成功」なのです。

それがすべて善いことだけとは限りません。
中には、人を騙すことに天才的な人もいるからです。

こういう人でも、成功の秘訣、法則というものを持っているのです。
普通の人と違うのは、遵法精神があるか否かだけだと思います。

ギフテッド、サイコパス、カメラアイ、サバン症候群と言った特殊能力の持ち主もいます。
サイコパス以外は犯罪には関わりません。

しかし、サイコパスの人は「人を見分ける能力に長けている」のです。
サイコパスは精神病質者と言われ、悪く見られがちですが、
その人を見ただけで「性的異常者か否か」を即座に判断できる人もいるのです。
これには当人しか分からない「理屈」を持っているのです。
実は、犯人捜しにサイコパスの人を用いている国もあるのです。
ただし、捜査官はその裏付けとなる証拠を見つけなければなりませんが。

現実には、
すべての人は何らかのサイコパス性を持っているとさえ言われていますから、あながち他人事ではないのです。

人は、その人を見ただけで直感的に分かることがあるものです。
その直観が良い印象であれば、その人に好意を持つのです。
ただし、普通の人は「見かけに騙されやすい」ので、自分の印象が「思い込み」であることの方が多いものですが。

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法律は人の行動を規制したり制限するものです。
しかし、これを「無視すると、可能性は格段に広がる」ことも事実です。

今の若者は、自分のやりたいこと、可能性を見出すために「法を無視する」ということが横行しています。
つまり、善悪を余り考えずに、自分のしたいことをするという気持ちが強く、他人のことを配慮するという道徳観念が薄れているのです。

この逆、つまり、誰かに嫌なことをされると、いわゆる「逆ギレ」をするという態度を取る傾向にあります。
これは暴力的な「漫画やドラマや映画」の影響だと考えています。

普通は嫌なことは他人にもしないものです。

したがって、犯罪者にならず人間らしく自分の思うように生きるには
道徳心を身に付け人生の方程式を理解しそれを実行する必要があります。
悪を決して行わないことです。
法律違反は勿論のこと人間関係に於いても自分自身に対してもです。

一例として、
我の強い人、短気な人、怒りっぽい人などは、絶えず問題を抱えます。
一方、柔軟な思考の人は人間関係における問題を抱えることは少ないものです。
更に、人間関係を避け自分の殻に閉じこもっても問題を抱えることになります。

善悪をわきまえ柔軟な思考を持ちオープンマインドであれば、問題の少ない人生を送ることが出来るのです。

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かつて野村克也は、「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし
つまり、不思議な勝ち(よく分からない勝ち方をする場合)はあるが負けるには必ず理由、原因があると言ったことがあります。
偶然上手く行くことはあっても失敗には必ず原因があるということです。

勝負事はすべてどちらかが勝ち、どちらかが負ける訳で(ルール上の引き分けはありますが)、
負けた方に必ず何らかの原因があるという理屈でもあります。

勝つ方は運にせよ偶然にせよ「やろうとしていることが上手く行く」ものです。
勝つ方は「上手く行き」負ける方は「失敗」が表裏としてある訳です。

少し考えれば分かる当然の理屈です。

イレギュラーや突然の突風や雨や太陽や照明といった要素もあり、それらが偶然に作用し勝つことも負けることもあるものです。

野村克也が言ったことは、自然や偶然のことではなく「選手のプレー」に関して述べたものです。
ピッチャーが投げたボールがたまたま良いコースに行って三振に取れたとか、
その逆に、打たれるべくして投げたということもあるのです。
更には、エラーを引き起こす要因について述べたのです。

野村はこれを言っているのです。
打たれるべくして投げないように十分「頭を働かせろ」という間接的な発言だったのです。
ミスをしないような姿勢で捕球する備えをするとか。
相手のちょっとしたしぐさから、相手の次の攻撃を予想し備えるとか。
データを活用しシフトを敷くとか。

この点に関して、ある人が次のように解説しています。
孫子は言う。
「先ず敵に負けない態勢をつくれ。次に敵に勝てるチャンスを待て」
負けない態勢を作るのは自分の問題だ。こちらが勝てる隙をつくるのは敵の問題だ

負ける原因は、自分の中にある。
だから、負けないということは努力すれば作れる。
だから先ず負けない態勢をつくるべきだ。

「攻め」ではなく「守り」から入るべきだ。
勝つためには、その上で、「不思議のタイミング」を待って、捉えなければならない。

とその人は解説しています。
「不思議のタイミング」とは「好機=チャンス」のことです。

戦いに勝てる人は、この好機を見極めることが出来るのです。
そして、そのタイミング、チャンスを逃さないのです。

事に臨む姿勢としては、私も同感です。

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頭が良かったり技術が優れていたり運が良かったりガムシャラに突き進んだりしただけでは物事の成功は望めません
勿論道徳心も関係しています。

現実を見ると明らかです。
東大を卒業した人が皆人生で成功しているとは限りません。
中には政治家になったのに失敗した人も沢山います。
最も、政治家は「美人投票と同じだ」と言った人がいる位、能力以上に人格が物を言う世界なのです。
宮澤喜一は東大出身のエリート議員でしたが、実際政策も良かったのですが同僚の議員にも国民にも余り人気がありませんでした。
河野洋平(早稲田大卒)は人格者ですが残念ながら首相にはなれませんでした。
中曽根康弘は元海軍少佐(戦地には行っていない)で策略家でありましたが国民の人気がありました。
国民に一番人気があったのは田中角栄です。
しかし、同僚議員をいわばお金で買ったことが大問題となり金権政治と言われました。
ロッキード事件が無ければ、日本はもっと良い国になっていたかも知れません。
田中角栄の学歴は尋常小学校卒業です(後に現代で言う専門学校で土木を学んでいますが当時は学歴にはならなかったと言われています)
他にも村山富市(明治大学専門部)もいます。
政治家ではありませんが、正岡子規は東大予科、現教養学部中退となっています。
村山富市も同じような経歴だと思われますが卒業はしています。

人は、学歴が絶対条件ではないということが分かります。

ちなみに、大谷翔平は高卒です。
大相撲の大の里は日体大卒です、相撲界では珍しいですが最近は大卒入門が増えています。
長嶋茂雄は立教大学卒、王貞治は早稲田実業高卒です。
こうしたことは、そのスポーツがどのレベルで盛んかということと関係があります。
こうした一方で、中学生で相撲界に入った北の湖のような人も少なくない世界もあるのです。

あの三島由紀夫は東大卒ですが、軍隊に入隊出来なかったことを(入隊直前高熱を出し結核と診断された。後に誤診だったと言われている)生涯心に傷として残って、
戦死を覚悟していたつもりが、医師の問診に同調し誇張した病状報告で答えた自身のこの時のアンビバレンスな感情が以後、三島の中で自問自答を繰り返しましたが、実際は、首席で高校を卒業し東大に推薦で入学する程の秀才で体も決して虚弱という訳ではなかったのです。
実際、徴兵検査では第二乙種で合格しています。
いわゆる甲種合格ではなかったのです。
しかし、両親は三島が兵隊に行くことを強く反対していました。
それでも、本人は戦争に行って死ぬ覚悟で入隊するところまでは行ったのです。
しかし、なぜかしら、
身体の虚弱から来る気弱さや、行動から〈拒まれている〉という意識を持ち三島にとって生涯コンプレックスとなり、以降の彼に複雑な思い(常に死の観念を意識する死生観や、戦後は〈余生〉という感覚)を抱かせることになったと言われています。

 

アンビバレンス(ambivalence)とは、ある対象に対して、相反する感情を同時に持ったり、相反する態度を同時に示すこととされています。
 

ついに、市ヶ谷駐屯地で事件を起こし割腹自殺をしてしまいました。
もし、三島由紀夫が軍隊に入隊出来ていたら別の人生を送ったと思います。
三島由紀夫は頭の良さとプライドから戦争に行って死ねなかったことを悔やんでいたと思われます。
同じ学徒の大勢が戦死していたからです。
三島由紀夫と同じ感情を持つ当時の学徒などは少なからずいたことは事実です。

 

僅か45歳の人生でした。

ノーベル賞を受賞出来なかった悔しさも加わったことでしょう。

ノーベル賞を受賞するには若すぎたのです。

頭脳明晰でありながらの不遇な人生でした。

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あるいは、才能があるのにケガや病気で能力を発揮出来ないということもあります。

綿密な計画、つまり、負けないための備え、守りを十分に固めてから、勝つための努力、成功するための努力は必須なのです。

こうした備えをしないとどんなに良い計画でも失敗することはあるものです。

遠大な計画、俯瞰した観点での計画と段階的な、あるいは、部分的な点での計画が思考の中心になりますが、
もし、それが思い通りに行かない時には○○するという腹案を備えて置くことは、
成功のための秘訣となります。
これは、挫折しないための方策でもあります。

後戻り出来ない、抜き差しならない状況に自分を追い込まないことです。
その上での成功の道を探ることです。

何事も一生懸命になることはリスクを伴うものです。
しかし、ハイリスクハイリターンも又真実であり、多くの人は身の程を考えずにリスクを犯すのです。
それは、欲望のためです。

私から見ればハイリスクは「愚かなこと」です。
大抵、それは「急ぎ過ぎ」である場合が多いものです。
時間を掛け少しずつ進めればリスクを無くせることが多いからです。

更には、
リスクを犯した結果が良くても、それにどんな価値があるというのでしょうか

イエス・キリストは「全世界を手に入れても、それによって自分の魂を失うなら、その人にとって何の益になるでしょうか」と言われたことがあります。

つまり、自分が手に入れたいものの「価値観」の是非を言っています。

自分がしたいことに、人生や命を賭ける「価値」があるかということです。
この「価値」は人によって様々です。

ですが、客観的に見た場合の「真の価値観」というものは普遍なものです。

例えば、
信仰心です。
ある意味、これは「命を超越」したものです。

信仰のために「命」を失っても良いと考える場合です。

こういう人は物やお金などにはそれ程の価値観を抱いていないものです。

自分の精神状態を高めてくれる宗教的立場には関心があるかも知れません。

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成功のために必要な人間の特質は、
我を張らないこと、怒らないこと、上手く行かなくても冷静でいられること、目標に於いて○○したい○○になれば良いなという欲を持たないこと、やるべきことを着実に実行すること、時にはリラックスする必要があっても怠けないこと、休息や睡眠などを含めた日々の計画を守ること、暴飲暴食をしないこと、お酒を飲まないこと、たばこを吸わないこと、異性に関心を持たないこと、動物や他のものに癒しを求めないこと、無理をしないこと、急がないこと、何かに躓いたら解決するアイデアが出るまで待つこと、
などが必要になります。
これらを確実に実行出来る人は、多くのことで成功します。

後は、これらに能力、技術、知識などが加われば盤石です。

物事を成功するには、心身ともに健康で心配がないことが基本で、次いで、十分な備えと計画と目標を立て、
最後に自分の能力を最大限活用して日夜努力することです。

こうした経過の途上、知識や技術などの不足に気が付き、計画途上それらを補おうとすることがあります。
物事が上手く行かない最大の原因の一つはこれが上手く行かないか、あるいは、これにエネルギーを使い過ぎることです。
こうした人は、これから行おうとすることに対する「能力」がないか「適していない」と考えなければなりません。

つまり、その計画はその人には無理があるということです。

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物事を上手くやって行きたいために、
何かの宗教に入る、その宗教の教えを信じてその教えに従うということがあります。
これは、いわば他力本願で、ある意味「楽な生き方」です。
日常生活や自由にして良い事柄を除き、自分で考えて行うということがないからです。
人に言われたこと指示されたことを行うだけだからです。
しかし、
教えに従うことで、社会との関わりや自分のしたいことを制限されるということがあるので、「楽な生き方」ではないと言う人もいます。

それでも、自分で考えて行動していないことは、自分でボートを漕がず誰かのボートか、あるいは、大きな船に乗せて貰っているようなものなのです。

人間である以上、本来は人の言うことに従うことを嫌うものです。
自分の思うようにしたいからです。

宗教はこれを規制するのです。
その教えに従う理由は「幸せ」になりたい「満足の行く人生を送りたい」からです。
煩悩、つまり、悩みなどから解放されたいのです。
自分で出来ないので宗教や誰かを頼るのです。

宗教そのものは個人的なことですが、
その組織の「言うことに従い」勧誘などをすることは、個人的な事柄ではありません。
この場合、他人との関係の構築が必要になり「新たな問題」が生じることになります。

ものみの塔の伝道活動で「精神的なストレス」を感じるのはこのためです。
他人との関係を上手く構築出来る人もいればそうでない人もいるからです。
誰でも、見知らぬ人といきなり会話をするには「勇気がいる」ものです。

最も、この点で相手構わず一方的に話し相手を強引に話に引き込む才能のある人もいます。
あるいは、言葉巧みに話すことが出来る人もいます。
こうした人は「頭の回転が速い人」で、才能と言っても過言ではありません。

伝道は宗教活動であり、自分の信仰の表明でもあります。
しかし、伝道活動で自分の信仰が強化されることは殆どないのです。
自分の信仰を強化出来るのは、教えられたことを熟考し深く考えることと知識と理解です

伝道活動で誰かに自分が信じていることを話すことで「自分の理解が深まる」ということもあります。
これは、誰かがその人の言うことを良く聞いてくれる場合です。
つまり、自分の話すこと、伝えることに「正しさ、正確さ」を求めることは本能だからです。
その追求が調べるという形になって現れ、それが自分の信仰を成長させてくれるのです。
また、
理解が深まると信仰も深まるものです。

 

伝道活動でそういう人を見出せない人は、ストレスを増大させるだけです。
つまり、他人との関係を上手く構築出来ない人はストレスを抱えることになるのです。
特に、伝道活動を強要されている場合は。

伝道活動で不活発になる人が多いのはこのためです。

加えて、宗教活動に熱心になると、生活が苦しくなったり貧しくなったりすることもあるのです。
寄付を強要されたり行事に参加させられたり組織の中で責任を負わされたり、およそ信仰とは関わりのない所でエネルギーを使わなければならなくなるものです。

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参考:
ものみの塔は今でも伝道活動を強要しています。
そのようにして、信者を増やそうとしているのです。

なぜなら、信者が増えることにより、自分たちの組織が「神とイエスの導きや是認を得ている」と考えているからです。

聖書にはそのようなことは一言も書いてはいません
ものみの塔の「巧みな誘導」なのです。

他の宗教でも「何かのことに乗じて、神や仏によるもの」などと言うものです。

こうしたことは「偽り」そのものです。

また、
伝活動に熱心でない人を「霊性が低い人」と見下す傾向にあり、熱心な人は他のエホバの証人に対して優越感を抱いているものです。
勿論、口に出しては言わなくとも、言葉の端々には出ているものです。

例えば、ものみの塔の注解などで伝道活動を熱心に行うべきなどと発言し「暗に不活発な人を批判したり」それがあたかも信仰において優れているかのような発言をするものです。

こうした「見せかけ」はものみの塔の会衆内では日常茶飯事なのです。
嫌な思いや「気分が悪くなった」人も少なくないと思います。
昔から、こういうことは行われていたのです。

しかし、そういう発言した人の熱心な伝道活動が長続きした例がありません
このような人の発言は、単に自分を誇示したり、自分の発言に「偽り」があったという証拠となるのです。

心にもないことを言うものでもないし、例え、心にあったとしても発言は「慎重」を期すべきで、なぜそういう発言をするのかという「自分の動機」「他の人の感情」も正直に確かめるべきなのです。

大勢の人や誰かの前で、○○すべきだと「強調」や「誇示」することは「心に悪い動機が潜んでいる」ことが多いのです。

指導的な立場にある人が、誰かにこういう発言をする時には、何かをさせようとする場合であり、
極端な場合、信仰の「主人」になることもあるのです。

これは「背教」です。

誰も、信仰や行いを「強制されない」からです。
誰かが何かを他の人に「強いる」ことは「背教」なのです。

単に、自分の思い、考えを発言するのとは異なるのです。
最も、ものみの塔では、自分の思いや考えを発言することは「批判の的」に、あるいは、指導を受ける対象になるだけですが・・・。

あなたはこうしたことを知らずに「従っていたのではありませんか?」

ものみの塔や長老たちの言うことに「従わなくても背教などにはならない」のです。
その一方で、彼らは○○しなさい××すべきですと言って「背教」をしているのです。
しかも、それを正しいと思い込んで。
全く「始末に負えない」とはこのことでしょう。

何事も自分で決めることが出来るのです。

神やイエスとの関係に於いて、
クリスチャンに「命令」出来るのは唯一人イエス・キリストだけなのです。

エホバは、神は、「おきて」そのものなのです。

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物事を成功させるにはどうすれば良いかが分かっていただけたでしょうか?


次回をお楽しみに。
つぶやきは今現在36程溜まっています。
これは日々増えて行きます。
しかし、
投稿はそれより遅いので、もしかすると、取捨選択をしなければならなくなるかも知れません。
読者の皆さんはそれがどのようなものかを知りませんから、全く問題はありませんが・・・。