知恵を求める人のためのブログです。
エホバの証人は、
世の人々と違うことを、
世の人々に知られることを、
恐れたり恥ずかしいと思ったり引け目に感じたりするのはなぜでしょうか?、
エホバの証人の多くは、
自分の意思、考えで活動しているのではなく、
ものみの塔に誘導されて行っているのであって、
自分が考えて行動や活動をしている訳ではありません。
例えば、
ものみの塔は誕生日を祝わないように、
それを守ることは、
聖書の教えに従うことだとエホバの証人たちに話します。
勿論、聖書の根拠を示され当人も納得していると思います。
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実際は、
「そうなんだ」という思うだけなのです。
はっきりと明確に、
「禁止されている」という意識も根拠も「持っていない」のです。
持っているのは「ものみの塔の受け売り」だけなのです。
その根拠とは、
聖書の中で、
神に是認された人々が誕生日を祝っていないこと、
ファラオの誕生日にパン焼き人が処刑されたこと、
ヘロデの誕生日に、ヘロデアの娘の褒美としてバプテストのヨハネ首を与えたこ
と、
イスラエル国民の中で誕生日を祝った記録がないこと、
イエスも弟子たちも誕生日を祝っていないこと、
などを挙げています。
他にも、
死ぬ日は生まれる日に勝るという格言もあります。-伝道の書7:1
イエスの誕生日として、
世では12月25日としていますが、
ものみの塔は「これは間違い」としていることもあります。
イエスが生まれた時、羊飼いが屋外で羊の番をしていたのです。-ルカ2:8
この季節(12月25日ごろ)は雨季であり、
羊飼いが屋外で羊の番をしていないことも挙げています。
この日は「太陽の誕生日」とする「異教徒の祝い」でもあります。
このように説明されると、
聖書を学び始めた人は、
「そうなんだ」として「受け入れる」しかないのです。
そして、
なぜ誕生日を祝わないのかと聞かれると、
ものみの塔に「教えられた通り」に返答するのです。
誕生日を祝わないことに「確信」を抱くのは、
信者になって「ずっと後」のことです。
それは、
実際に、世の人々が行う誕生日の祝いを見たり聞いたりしてからなのです。
その時、改めて再確認するのです。
聖書を学ぶ前は、
誕生日の祝いのことなど「気にもかけて」いなかったのです。
つまり、
聖書の中で、神の民が誕生日を祝った記録がないことを挙げている訳です。
聖書の中で、
明確に誕生日を祝ってはならないとは、「記されて」はいないのです。
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つまり、
誕生日は祝ってはならないのだと思わされている訳です。
(必ずしも、信じている訳ではありません。
誕生日位良いではないかと思っているエホバの証人もいると思います)
ところが、
自分が誕生日を祝わないことを、
世の周囲の人に知られることを「恐れ」るのです。
これは、
偶像崇拝でも同様です。
国歌や国旗に対しても同様です。
また、
輸血などの「世間の評判、批判」なども、
エホバの証人であることを「隠そうとする原因」となっています。
こうした点で、
世の人々から「質問」されると、
返答は「ものみの塔の受け売り」なのです。
多くの場合、自分自身の確信で「答えている」訳ではないのです。
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1 周囲と違うことに対する恐れ
2 エホバの証人であることを知られることの恐れ
こうした「恐れ」の感情は、
自分の考え、自分の意思で行っていない証拠であり、
(ものみの塔の「誘導」に従っているだけ)
自分が信じ行っていることを「知識としては理解」していますが
「確信」がないために起こる現象です。
ものみの塔に「誘導され」「そうしなければならないと思い込んでいるだけ」なので、
エホバの証人であることや周囲と違っていることを「恐れたり」「恥ずかしい」と思うのです。
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逆に、
良い評判を得ることに関しても、
ものみの塔の教えに従うという態度を示します。
1 他人に親切にすること
2 正直であること
3 嘘をつかないこと
4 他人に悪さをしないこと
5 法律や規則を守ること
(この点に関しては、
世間の普通の人と同じ程度に犯しています。
例えば、交通違反など)
こうしたことは、
必ずしも、すべての状況で行う訳ではありません。
家族内や「人に見られていない時」などは、
やらない場合も少なくありません。
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要点は、
ものみの塔が「聖書を根拠」に説明する事柄を「納得させられ」それを「信じ」て、「守っていた」としても、
それは、
自発的なこと、つまり、自分の意思ではない場合があるということです。
信仰は、
個人的なことで、自発的なものです。
相手の言うことを信じることも「自由」であり「自発的なもの」ですが、
「永遠の命」「平和で安全な世での暮らし」「病気や死からの解放」などという報い
を得たいために、
「確信」がなくても、
ものみの塔に従っている点に問題があるのです。
ものみの塔に「誘導」されているのです。
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実際、
聖書の「希望」は、
現実には「誰も目にしたことのない事柄」なので、
世の人々に「反論されても」
確かな証拠を提示出来ません。
聖書の記述とものみの塔による説明だけなのです。
そのため、
「堂々として」いられないのです。
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これは、丁度
「今持っているものよりも、新しく良い製品」を
PRや説明だけで「買ってしまう」ようなものです。
殆どの場合は、
その製品を購入し使っても仕組みや性能などは「詳しくは知りません」
ただ、
使い方だけを知っているだけです。
実際、これだけで「十分」だからです。
エホバの証人も、
「新しい製品を買ってしまう人」のようなものなのです。
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確信のない信仰について、
イエス・キリストは「盲目の信仰」と言っています。
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エホバの証人であることを知られることを「恥ずかしい」と思ったり、あたかも「悪いことをしている」
かのような、感情を抱き、
エホバの証人であることを「隠そうとする人」は多いものです。
また、
エホバの証人であることが周囲に知られると、
差別やいじめを受けると「思い込んでいる」場合も少なくありません。
生活が脅かされるほどの差別やいじめを受けることは「珍しい」ことです。
こうしたことは、
主に家庭内や学校などで大半が起きることだからです。
職場では、
ちゃんと仕事をすれば問題にはされないものです。
仕事の「しずらさ」は、
自分がそうしているのです。
会社や職場の人がしている訳ではないのです。
買い物もどこかへ出かけることも何の支障も生じません。
差別やいじめや嫌がらせなどを気にして、
あるいは、
世の慣習に従わないことを「悪いことをしている」ような気持ちになったりすることは、
いわば、
隠れキリスタンのような「振る舞い」のようなもので、
真の信仰ではありません。
1世紀のクリスチャンたちは、
「命を懸けて」「イエス・キリストの証人」となり、
実際に、処刑された人も多いのです。
真の信仰を実践する人は、
世を恐れることはありません。
エホバの不興を買うことを「畏れる」のです。
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日本だけではなく外国でも、
差別やいじめや嫌がらせなどは生じています。
しかし、日本人には、
周囲と違うことや差別やいじめや嫌がらせを「極端に恐れ過ぎる」ところがありす。
周囲と同じことをし、
周囲と同じ考えでいることで、
周囲と平和で仲良く暮らす、
と言った精神は「日本人には根強いもの」があります。
まず、家庭で祖父母や父母などから「皆と同じことをし穏やかに平和に暮らす」ことを求められて育つからです。
加えて、
社会も同じことを人々に「求めて」います。
平和で穏やかに暮らそうとすることは「良い」ことですが、
それが、
自分の信念や宗教などと異なる場合に「問題」となるのです。
他と違うことを求める外国人とは異なるのです。
日本人は「一人で自立する」ことが苦手な国民です。
このような日本人が、
周囲から批判されている「エホバの証人」であることを「隠そうとする」ことは自然なことです。
「信仰」の点では「間違っています」
しかし、
「弱さ」という点では「許容」されることもあります。
エホバの証人は、
仲間内では「楽しく振る舞って」も、
一端「世に出る」と硬くなって身構えてしまいます。
それは世に対する「恐れ」の感情から来るものです。
自信のなさ、信仰の欠如から来るものです。
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ものみの塔の「教え」を信じ「理解」してエホバの証人になっているはずなのに、
なぜ恥ずかしいとか恐れという感情が生じるのでしょうか?
それは、
知識や理解があっても「確信」がないからです。
この「確信」がないので、
周囲と違うことに対して「堂々」としていられないのです。
自発的な意思でエホバの証人になったはずなのに「確信」がないのはなぜなのでしょうか?
それは、
自らが実感したり調べ納得していないからです。
(実際、これを行い、
ものみの塔と同じレベルで考えられるようになるには、
時間が掛かります)
ものみの塔の
誘導や教え
をそのまま「鵜呑み」にして従っているからです。
つまり、
エホバの証人であることに
「誇り」を持っていない
からでもあります。
そのため、「自分の言葉」で、
世の人々に「説明」や「自分の確信」を話すことが出来ないのです。
話すことは、
ものみの塔の「受け売り」だけなのです。
これは、
洗脳された人の態度です。
オーム真理教の信者と同じ態度です。
こうした「恐れ」などの感情や「恥ずかしい」という態度などは、
信仰を実践していると公言する人にとっては、
不名誉であり、恥ずかしいことです。
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加えて、
スマホなどの普及や
様々な新製品の登場で、
「旧態依然とした信仰生活」に「大きな影響」を与えていることも原因となっていま
す。
エホバの証人でも、
世で生活していますから、
自動車は必要ですし、当然電気自動車などにも関心は高いですし、
次々と出る新製品に対する関心も小さくはありません。
つまり、
世の中の変化に付いて行く必要を強く感じているのです。
「世のものとならない」ことを目指しているエホバの証人も
世の変化に付いて行こうとしているのです。
こうしたことに加えて、
学校の問題、
アパートや自宅などの住居の問題、
パートを含め収入の問題、
こうしたことが、
信仰生活を「困難」なものとしています。
こうしたことを自覚しているエホバの証人は、
恥ずかしくて、
「私はエホバの証人です」なんて「周囲の人に言えるはずはないのです」
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イエスは終わりの日に関して次のように語っています。
「というのは,国民は国民に,王国は王国に敵対して立ち上がり,またそこからここへと
食糧不足や地震があるからです。
これらすべては苦しみの劇痛の始まりです。
「その時,人々はあなた方を患難に渡し,あなた方を殺すでしょう。
またあなた方は,わたしの名のゆえにあらゆる国民の憎しみの的となるでしょう。
またその時,多くの者がつまずき,互いに裏切り,互いに憎み合うでしょう。
そして多くの偽預言者が起こって,多くの者を惑わすでしょう。
また不法が増すために,大半の者の愛が冷えるでしょう。
(参考:こうしたことは、
自分や仲間に生じた「患難」のために起こるのです)
しかし,終わりまで耐え忍んだ人が救われる者です。
そして,王国のこの良いたよりは,あらゆる国民に対する証しのために,人の住む全地
で宣べ伝えられるでしょう。
それから終わりが来るのです」
-マタイ24:7-14
真のクリスチャンたちには、
あらゆる「困難」が最後まで「付き纏う」のです。
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恥や恐れを抱くエホバの証人たちは、
真のクリスチャンではないことは「明白」です。
確信や誇りのない「信仰」は、
盲目的な信仰であり、
聖書の中では、
「恐れ」は
多くの場合「信仰の欠如」と結びつけられています。