初めに、
神は、ご自分の目的以外の「世界の出来事」には全く関与されな
いことを知らねばなりません。
したがって、ロシアによるウクライナへの軍事侵攻で悲惨な目に遭
っている人に対する祈りに対しても耳を傾けることはないのです。
そこに、神の崇拝者がいてもです。
無慈悲のようにさえ思ってしまうでしょう。
理由があるのです。
神は人間の個人的な事柄には、それを導く形では一切係わらないのです。
神による原則は、
自分の行動は自分で責任を取るということなのです。
したがって、
神に助けを求めても、助けてもらえないことが起こるのです。
しかし、
偶然が重なり物事が上手く行くこともあります。
それは、神が祈りを聞いて下さり、助けて下さったと思いがちではありますが、
そうであるというよりは、
もし、神が係わっているならば、
その出来事に関して、その人に憐れみを示され、助けたということです。
神に憐れみを示されるには、
神との関係を明確に表明していなければならないことは言うまでもないことです。
勿論、これには、祈りが関係している場合とそうでない場合があります。
また、神が共に居て下さっても、問題が起こらないという訳でもないことも知っておくべきです。
ただ、神が共に居て下されば、その問題を上手く解決して下さるということであり、
また、人が義なる者だからそうして下さるのではなく、憐れみを示された時だけなのです。
神が共におられたヨセフに関する出来事で、
ヨセフがエジプトに売られ獄に入れられた時に、
ヨセフ自身は、創世記41:51で難儀に合い、獄の中では足かせを掛けられ惨めさを味わったと述べています。詩編105:17、18
イエス・キリストの使徒たちはAD70年のユダヤ人の滅びまでに、ヨハネを除き皆殺されたことも知っている人は多いと思います。
又、イエスも杭の上で苦しみから逃れる祈りをしましたが、神のご意志が優先されることを願って死にました。
このことは、
人間の祈りにより、すべてのことが祈りの通りにならないことを示しています。
すべては、神のご意志が優先されるのです。
更に、神が直接係わらなくても、
地上の事柄にはすべて、神による法則が働いており、その法則に基づいた結果が生じるのです。
どんな切なる願いも、
自分や誰かの苦難や世の平和に関する祈りでも、定められた時があり、その時にならなければ願いは届かないのです。
祈っても自分の思い通りにならないのであれば、なぜ祈るのかという疑問が生じるかもしれません。
人に出来ることは、
日々の感謝と憐れみ求めることと神への賛美を祈ることだけなので
す。
神のご意志に叶うものであり、祈りの内に行動すれば、
神の憐れみにより、物事は上手く運ぶことになるかも知れないので
す。
物事が上手く運ぶとは、
必ずしも、人が考えている通りになるということではありません。
神は完全な方なので、常に、最善の仕方でしか物事を行わないのです。
利己的な考え、身勝手な考え、独善的な考えなどは決して神には届かないのです。
人は日々罪を犯し続けていることを忘れて、自分を欺いて自分を義なる者として祈ってはならないのです。
祈りは、自分の心に言い聞かせることでもあります。
祈りは思考なので自分の本性と一致するとは限らないことも知っておくべきです。
人は各々自分の思いで行動するものです。
思いは、自分の本心の表れでもありそうでない場合もあります。
つまり、人は自分自身でも自分の本心を分かっていなかったり、自分を欺いている場合もあるのです。
従って、
祈りという思考により、
無意識に自分の本性に、つまり、神への祈りという形を取りながら、自分の本性に語りかけていることでもあるのです。
つまり、
祈りは、神に対するものであると同時に自分自身に対するものでもあるということです。
軽い気持ちで祈るとそれが自分自身に跳ね返ってくることさえあります。
自分に正直である祈り、自分の本性と合致する祈りは、
重力の法則と同じように、神の法則に基づいた結果になるのです。
思いや思考による欲の産物である、利己的な考え、独善的な考え、身勝手な考えは、祈りであろうがなかろうが必ず悪い結果となる法則が働くのです。
従って、
心を訓練し、自分の本性、心の奥底にある自分の本当の気持ちを神の考えと一致させる必要があります。
そうすれば、すべてのことは上手く行くのです。
しかしそれでも、
今の世界では、「世の霊」、つまり、社会一般の考えや風潮などの働きにより、上手く行かないこともあります。
従って、
社会とは、必要なものを買うこと以上に余り係わらないことが大事になってきます。
必要なものを備えるために、働く場合でも、
正当な労働の対価を得るためであり、それ以上のことには一切係わらないことです。
自分の心、本性の中から、社会の悪い事柄の風潮を一切排除すれば、
思い(祈り)と本性は一致し、
今の世界の必然(病気、死など)を除けばすべて上手く行くのです。
しかし、何時しても良い祈りがあります。
それは、
神の事柄に関する祈りです。
神を賛美すること、神に栄光を帰すこと、神に誉を帰すこと、
神のご意志がなされること、
などに関する祈りです。
神は助けなど必要がないので、
神に対する祈りなど必要がないと思うかも知れません。
これは、間違いです。
神に対して、
神の事柄を支持している気持ちを表明することは大事なことなのです。
神に対する祈りは、
自分の事柄に関する信仰の祈りだけではなく、
神の事柄に関する信仰の祈りも必要なのです。
従って、
自分のことだけを祈るのではなく、
神のご意志がなされることを祈ることは重要なことなのです。
イエス・キリストが、弟子たち教えた祈りを、
クリスチャンなら毎日実行すべきなのです。
いわゆる、
困った時の「神頼み」は、神には通用しないのです。
神は、思い付きの祈りなどに耳を傾けることもありません。
何度も、何か月も、何年も祈り続けてやっと聴かれる祈りもあるのです。
これが、現代における祈りの仕方です。