(論語13)楽長と孔子の目

魯では音楽を奏でる楽長という者がいました。

この者は、孔子が司空という職についてから、奏楽のときに、三度も失敗をし、惨めな思いをしていました。

彼は、なぜ失敗をするのかいろいろ考えてみた結果、孔子の目を意識するようになってからだと気付きました。

どうも、孔子の目にぶつかると、喉も手も急にこわばり、手元が狂いだすのです。

孔子は音楽の理論にも長じていたので、奏楽の時には特に孔子の目が気になったのでしょう。

そんなことを考えているときに、孔子から呼び出されました。

孔子は楽長に

「 どうじゃ、よく反省してみたかの 」

「 それだけの腕があり、しかも懸命に努めていながら、三たび失敗を繰り返すからには、なにか大きな根本的欠陥が、君の心の中にあるに相違ない。 

自分で思い当たることはないのか 」

「 ありますが、それがどうも、あまりにばかげたことでございまして・・・ 」

「 いえないのか。じゃが、わしはわかっている。 

無遠慮にいうと、君にはまだ邪心があるようじゃ 」

「 詩でも音楽でも、究極は無邪の一語に帰する。無邪にさえなれば、下手は下手なりで、まことの詩ができ、まことの音楽が奏でられるものじゃ。

この自明の理が、君にはまだ体得できていない。

腕は達者だが、惜しいものじゃ 」

それに対して、楽長は

「 しかし、奏楽の時に、邪心があったとは、どうしても思えません 」

「 それでは、どうしてしくじったのじゃ 」

「 それが実に妙なきっかけからでございまして、

先生のお目にぶつかると、すぐに手もとが狂い出してくるのでございます 」

「 楽長、もっと思い切って、自分の心を掘り下げて見なさい。

君は、奏楽の時になると、いつもわしの顔色を窺わずにはおれないのではないかな。 

もしそうだとすれば、それが君の邪心というものじゃ。

君の奏楽にとって、わしの存在は一つの大きな障害なのじゃ。

君の心はそのために分裂する。

したがって、君は完全に君の音楽に浸りきることができない。

君の失敗の原因はそこにある 」

単純明快な答えです。

続けて、孔子は、

「 音楽の世界は一如(一つになる)の世界じゃ。

まず一人一人の楽手の心と手と楽器とが一如になり、楽手と楽手とが一如になり、さらに楽手と聴衆とが一如になって、翕如(きゅうじょ)として一つの機(おり)をねらう。

( 「翕如(きゅうじょ)」とは、勢いよく盛大に鐘のような打楽器が鳴り響く様子のこと )

この翕如(きゅうじょ)たる一如の世界が、機(おり)至っておのずから振動をはじめると、純如(じゅんじょ)として濁りのない音波が人々の耳朶(じだ)を打つ。

( 「純如(じゅんじょ)」とは、管弦楽の色々な楽器が、静かに調和を保って鳴り響く様子のこと )

その音はただ一つである。ただ一つであるが、その中には金音もあり、石音もあり、それらは厳に独自の音色を保って、決してお互いに殺しあうことがない。

激如(きょうじょ)として独自を守りつつ、しかもただ一つの流れに合するのじゃ。

( 「激如(きょうじょ)」とは、管弦楽のそれぞれの楽器が独奏のようにはっきり聞こえる様子のこと )

こうして、時間の経過につれて、高低、強弱、緩急、さまざまの変化をみせるが、その間、厘毫(りんごう)の隙もなく、繹如(えきじょ)として続いていく。

( 「繹如(えきじょ)」とは、長い余韻を残しながら音楽が流れている情緒的な状況のこと )

そこに時間的な一如の世界があり、永遠と一瞬との一致が見出される 」

「 まことに音楽というものは、こうしたものじゃ。

聞くとか聞かせるとかの世界ではない。

まして、自分の腕と他人の腕を比べたり、音楽のわかる者わからぬ者とを差別したりするような世界とは、似ても似つかぬ世界なのじゃ 」

孔子はいわば釈迦に説法のようなことを言ったのです。なぜでしょうか。

これに対して、楽長は

「 ご教訓は身にしみてこたえました。これからは、技術を磨くとともに、心を治めることに、いっそう精進いたす決心でございます 」

と真心からそういって、孔子の部屋を出たのでした。

その後、孔子は、

「 楽長は、最高の技術は手や喉から生まれるのではなくて、心から生まれるものだ、と言うことだけは、分かったらしい。

が、私の音楽論は、すなわち、人生論でもあるということには気がついていないようだ。

彼は、究極の目標を音楽の技術においているので、やむを得ないことかもしれない。

しかし、急ぐことはない。

いずれ目が覚めるときがくるであろう。彼は元来まじめな人間なのだから 」

と思った。

つまり、楽長は音楽を奏でる技術ばかり気にして、音楽を奏でるときの精神についてはあまり考えていなかったのを、孔子は見抜いていたからです。

孔子は自分の音楽論は、すなわち人生論だと言っているように、音楽全体のあるべき状態は、人の人生そのものと同じだとの考えです。

孔子の理屈からすれば、「道は一つ」で、その思考論理はただ一つなのだと。

( 良く芸術やスポーツの道を人生に喩えることがありますが、同じことです )

これはちょうど、「 一人の人間が、各々の個性を発揮しつつ、それでいて周囲の人と十分調和を保ちつつ人生を送っていくことが、人のあるべき姿を示している 」ようなもので、

個性を発揮するが他の人の個性を殺したりしないで調和を保ちつつ周囲や周囲の動きと気持ちも一つになり、

さらに、時間の経過とともに、強弱、高低、緩急さまざまな変化を見せるが、その間少しの隙間もなく、しかも、過去の記憶という余韻を残しながら流れていく。

それらの一つ一つは一瞬の出来事であるが、それらがつながって一つの人生を形成していく。

理想的な奏楽も理想的な生き方も同じであると。

したがって、自分の個性を他人と比較したり、人を能力で差別することは、自分の人生とはまったく関係なく意味のないことであるとも。

孔子の精神は、他と比べるのではなく、自分の行いと心の精進を積み重ねることです。

楽長は孔子の目、つまり、人の目を気にして何度も失敗をしました。

孔子は非常に回りくどい言い方をしましたが、楽長の「 人の目を気にする心持が良くない 」と言っていたのです。

(13) 楽長と孔子の目 終わり。