初めに、今回は文字数が多くなり「投稿に制限」が加わりましたので、いつも掲載しているある部分は削除しました。
ものみの塔の信者たちへ。
このブログを読んでも[聖書]に対する背教にはなりません。
ものみの塔の教えに偏るのではなく、聖書の正しい理解に努めましょう。
前文です。
このブログは、政治を含め「人間のすべて」に関する内容となっています。
このブログは、聖書の真理を多くの人に知って貰うことを目的としています。
それゆえ、ものみの塔を含めキリスト教や他の宗教をなるべく客観的に批判をすることが含まれています。
そして、人間のあらゆる事柄についても「気が付いた点」も多く述べています。
もし、気になる言葉などがありましたら、わたしのサイト内検索をしてみて下さい。
その根拠は「聖書」です。
ヨハネによる啓示11章
14 第二の災いが過ぎた。見よ,第三の災いが速やかに来る。
15 また,第七のみ使いがラッパを吹いた。すると,大きな声が天で起きてこう言った。「世の王国はわたしたちの主とそのキリストの王国となった。彼は限りなく永久に王として支配するであろう」。
16 すると,神の前で自分の座に座っている二十四人の長老がひれ伏し,神を崇拝して
17 こう言った。「今おられ,かつておられた方,全能者なるエホバ神,わたしたちはあなたに感謝します。あなたはご自分の大いなる力を執り,王として支配を始められたからです。
18 しかし,諸国民は憤り,あなたご自身の憤りも到来しました。また,死んだ者たちを裁き,預言者なるあなたの奴隷たちと聖なる者たちに,そして,あなたのみ名を恐れる者たち,小なる者にも大なる者にも[その]報いを与え,地を破滅させている者たちを破滅に至らせる定められた時が[到来しました]」。
19 また,天にある神の神殿[の聖なる所]が開かれ,[神]の契約の箱がその神殿[の聖なる所]の中に見えた。そして,稲妻と声と雷と地震と大きな雹が生じた。-啓示11:14-19
(参考:大小様々な災いが生じることになっていますが、それは、主に地上の人々に対する災いの
ことです。今生きている人々に様々な試練となる出来事が次々と生じることを教えています。
七番目のラッパが最後のラッパですが、その最後に七つの神の怒りの鉢が順番に注ぎ込まれるこ
とになっています。
その七番目の鉢が地上に注ぎ込まれることが、神が[今の地上]に対して行われる最後の部分の
最後の災いとなります。
参考:最後の行の「稲妻と声と雷と地震と大きな雹」は神の臨在のしるしです)
テモテ(二)3章
しかし,このことを知っておきなさい。すなわち,終わりの日には,対処しにくい危機の時代が来ます。2 というのは,人々は自分を愛する者,金を愛する者,うぬぼれる者,ごう慢な者,冒とくする者,親に不従順な者,感謝しない者,忠節でない者,
3 自然の情愛を持たない者,容易に合意しない者,中傷する者,自制心のない者,粗暴な者,善良さを愛さない者,
4 裏切る者,片意地な者,[誇りのために]思い上がる者,神を愛するより快楽を愛する者,
5 敬虔な専心という形を取りながらその力において実質のない者となるからです。こうした人々からは離れなさい。
6 こうした人々の中から,[あちこちの]家族の中にそれとなく入り込み,罪の荷を負った弱い女たちをとりこにして連れ去る者が出るのです。[その女たちは,]さまざまな欲望に引かれ,
7 常に学びながら,決して真理の正確な知識に達することができないのです。
-テモテ(二)3:1-7
ガラテア5章
19さて,肉の業は明らかです。それは,淫行,汚れ,みだらな行ない,
20 偶像礼拝,心霊術の行ない,敵意,闘争,ねたみ,激発的な怒り,口論,分裂,分派,
21 そねみ,酔酒,浮かれ騒ぎ,およびこれに類する事柄です。こうした事柄についてわたしはあなた方にあらかじめ警告しましたが,なおまた警告しておきます。そのような事柄を習わしにする者が神の王国を受け継ぐことはありません。
22 一方,霊の実は,愛,喜び,平和,辛抱強さ,親切,善良,信仰,
23 温和,自制です。このようなものを非とする律法はありません。
24 さらに,キリスト・イエスに属する者は,肉をその情欲や欲望と共に杭につけたのです。
-ガラテア5:19-24
創世記9章(ノアの大洪水直後に人類に与えらえた神の警告)
次いで神はノアとその息子たちを祝福してこう言われた。「子を生んで多くなり,地に満ちよ。
2 そして,あなた方に対する恐れ,またあなた方に対するおののきは,地のあらゆる生き物と天のあらゆる飛ぶ生き物,地面を動くあらゆるもの,また海のすべての魚に引き続きとどまるであろう。それらは今あなた方の手に与えられる。
3 生きている動く生き物はすべてあなた方のための食物としてよい。緑の草木の場合のように,わたしはそれを皆あなた方に確かに与える。
4 ただし,その魂つまりその血を伴う肉を食べてはならない。
5 さらにわたしは,あなた方の魂の血の返済を求める。すべての生き物の手からわたしはその返済を求める。人の手から,その兄弟である各人の手から,わたしは人の魂の返済を求める。
6 だれでも人の血を流す者は,人によって自分の血を流される。神は自分の像に人を造ったからである。
7 そしてあなた方は,子を生んで多くなり,地に群がってそこに多くなれ」。
(これは殺人だけではなく傷害もあるいは誰かを介しても同じ罪を問われるというものです。
この命令の神の意図は「血を神聖なものとして扱うように」というものです。
なぜなら、命は血によって支えられているからです。
つまり、血を神聖なものとして扱うということは、すなわち「命を神聖なものとする」というこ
となのです。
「神聖なものとする」とは、神によって「神のものとして取り分けられたもの」という意味があり
ます。
したがって、血も、血によって支えられる命も「神のもの」なのです。
では、自分の「命」を支えるために「自分や他人の血を用いる」こと(輸血など)はどうでしょ
うか。
全血ではなく血液の一部である「血漿」などを用いることはどうでしょうか。
こうしたことは明らかに「血を神聖なもの」として扱っていないことです。
神はこうしたことに対しても「血の返済」を求めるのです。
したがって、淫行と同じく血に関するあらゆることを「避ける」ことは、自分の命に係わること
なのです。
参考:神が定めた女性の生理は、聖書では「汚れ」であり「身体を清める」ようにと律法の中で
示されています。
女性の妊娠出産はいわば「血の代償」としての命でもあります。 ちなみに、生理のある生き物は他にも存在していますが、人間のように生理が長く、かつ、繰り 返しある生きものはいません)
今回は、近年の宗教に対する見方と批判という話です。
宗教が支配者を悩ませ社会を混乱させてきた歴史上の事件は沢山あります。
日本では、ある時代に「一揆」といういわば反体制運動が行われ、仏教では僧兵を養い時の権力者と対峙して来ました。
江戸時代では町奉行と寺社奉行に区別して支配権を分割していました。
日本では時代を通して、同じ仏教でも様々な宗派が誕生しそれが今日でも続いています。
明治時代に入ってキリスト教も公に出来るようになりましたが、日本古来の神社も各地に沢山存在しています。
日本ほど寺や神社に関連した様々な施設が多い国は他にないと思います。
戦後になっていわゆるカルト集団が登場し、オーム真理教やパナウェーブという白づくめの謎の集団が登場すると人々は「気味悪がった」ものです。
ものみの塔も戦前からありましたが、その初めは小さいものでした。
組織化され大きくなったのは戦後アメリカから宣教者が来てからです。
他にもモルモン教などの宣教師も来ていました。
しかし、戦後社会問題になったのは旧統一教会とオーム真理教とパナウェーブとものみの塔です。
これらの内初めからの組織として残っているのはものみの塔だけです。
理由は簡単です、社会に対する非暴力的集団であり個人の家庭中心の宗教だからです。
それでも、彼らが集まる、いわゆる「王国会館」に定期的に集まったり歌や騒音を嫌がる近所の住民も少なくありません。
そのため、多くの場合なるべく住宅街を避けて、自分たちで「王国会館」の建設を行っている所も多く、彼らを管轄するものみの塔の支部もトラブルを避けるためそうするようにと指導しています。
キリスト教の「教会」のように、社会で認知されている訳ではないからです。
知らない人からすればこうしたことは「普通ではなく、気持ちの悪いもの」です。
当のものみの塔の信者たちはこうしたことを「殆ど気にしていません」
ものみの塔は以下に示すように社会問題になり、加えて組織内に様々な問題を抱えている組織であることには変わりはありません。
イエスの時代、イエスと弟子たちがユダヤ人から迫害されたことを考えれば必ずしも彼らの活動が「悪」という訳ではありません。
それでも、社会通念上、地域の人々に「理解されない行為」や「自ら、悪(と言っても、犯罪ではなく聖書の教えに背く行為)を行って来た」ことは事実です。
そして、自ら公言している事柄(いわゆる「良いたより」)の故に、ものみの塔の教えから「抜け出すことが出来ない」のです。
つまり、信条や活動を「変えることが出来ない」のです。
間違っていたと気が付いたとしても変えることが出来ないのです。
変えることは「誤りを認める」ことだからです。
こうして、ものみの塔は組織として日ごとに「自らの活動を苦しい」ものにしているのです。
しかし、最近では「かつての主張=人間の教えに変更」を加え、社会批判を「躱(かわ)そうとしている」ことも事実です。
それは、ものみの塔の信者は「紳士淑女」であるという印象を崩さないためです。
例えば、子供に対する「ムチ」を児童虐待と見なし、高等教育を否定して来た「慣習」を改め、国旗や国歌に対し「敬意」を示すようになって来たことです。
普通、宗教に入信する人は個人的な悩みからであることが多いものです。
それでも、中には政治を利用する宗教もあります。
キリスト教の名を語る政党があったり、過激な思想を持つアメリカの福音派教会などがそうです。
積極的にロビー活動を行っています。
つい先日もアメリカ大統領の執務室でのトランプと一緒に写っている映像がテレビで放映されていました。
彼らの目的は聖書とは相容れないものです。
しかし、どの宗教でも、基本的にその国の法律に従ったものでなければならないというのが原則です。
法律に抵触しない範囲での「信教の自由」が憲法で保障されている訳です。
また、民主主義国家ではいわゆる「政教分離」を基本とし、政治家が宗教を政治に関与させることを禁じています。
旧統一教会の解散は主に過剰な寄付や献金による被害者(?)の訴えを聞いたことによるものです。
教義とは全く異なる次元の話です。
寄付により、いわゆる徳を積むことや宗教的ご利益(りやく)を得るという「誘い文句」に騙されたことによるものです。
また、特に自民党議員の中には旧統一教会との関わりを持つ議員も多く、それまでは選挙活動で利用して来たのに社会問題化すると「手のひらを返した」ように殆どの議員は「手を切った」のです。
つまり、自民党議員の多くは今迄旧統一教会の信者の助けで当選してきたようなものなのです。
皆さんはこれをどのように思いますか。
それでも自民党に投票しますか?
確かに、政治力は自民党にあり、自民党もこれを自負しているため、政権を他党に明け渡すことを決してしません。
兎角、今の政治はこのように党利党略だけで政治を行っていることは明白です。
ハッキリ言って、日本の議員は尊敬に値しません。
政治的理念や思想を前面に出し政治活動をしている議員を近年は見たことがありません。
皆、国民の受けを狙って実現出来ない「奇麗ごと」を並べているだけです。
宗教の話に戻しますと、
信教の自由が憲法で保障されている以上、何を信じその結果どのような生き方をするかは個人の自由の範疇です。
その結果、どういう理由で旧統一教会に入信し信者となったかは各々理由があると思います。
それは個人の責任です。
その結果多額の献金をしたのも本人の意思によるものです。
無論、組織の口車に乗せられた部分があるにせよ、本人の意思で行ったものです。
その信者が多額の寄付をし家庭を崩壊させたとしても、基本的には寄付をしたその信者の責任です。
これはある意味家庭問題なのです。
ですから、山上達也被告はある意味「逆恨み」をして旧統一教会を恨み、そして、安倍晋三を殺害したことになります。
それでも旧統一教会に「責任がなかった」とは言えません。
実際に、多額の寄付をするように「信者に様々圧力をかけてきた」からです。
しかも、その大部分は韓国に渡され、韓国では御殿のような建物まで立てているのです。
その資金の大半は日本からの寄付によるものであることは周知の事実です。
韓国人がこのようなことをしておきながら、殆どの韓国人は、一方では従軍慰安婦問題を取り上げ事あるごとに日本を批判し日本に反対をしてきました。
終戦直後に賠償責任がないにも拘わらず日本は韓国に日韓条約と共に1965年に締結された「請求権の解決並びに経済協力に関する協定」により5億ドル(無償3億=1080億円、有償2億=720億円)の経済協力資金を韓国に供与して来たのです。
このお金で韓国は戦後の復興を遂げて来たのです。
従軍慰安婦は「売春婦」だったことも判明しています。
彼らに賠償請求権はないこと明らかなのです。
盗人猛々しいとは韓国人のことです。
人種差別でも誹謗中傷でもありません、事実を申し上げています。
旧統一教会に対する寄付に関しての苦情や相談は非常に多いため、弁護士などが再三改善を申し入れても教団側はこれを受け入れませんでした。
その結果、事件を通じ社会批判が「再燃」しついに解散の憂き目を見たということです。
最初に述べましたように、宗教も法律の範囲内でしか「活動は許されていない」のです。
旧統一教会にはいわゆる霊感商法という詐欺も問題となっていますが、それが詐欺であると証明することは難しいことです。
例えば、ある石を聖なるものだと主張し多額の寄付で誰かに譲ったとします。
その石が河原で拾った価値のない石だとしても、その主張を受け入れ寄付をしたのであれば本人の責任です。
必ずしも詐欺を問えるとは限りません。
丁度、骨董市で「偽物」を掴まされるようなものです。
本来、その宗教活動が社会通念上「受け入れられないもの」である場合、行政がその宗教に対して改善要求をすべきもので、それでも改善が見られない場合は信教の自由に関わらず解散命令を発動させるべきものです。
外国の地方の自治体ではそのようにしています。
アメリカでも州ごとに法律あり、連邦政府でも介入出来ない部分があるくらいです。
要は人々が社会通念上その宗教活動を受け入れるか否かという、いわば、感情論的な話で、必ずしも、法律に違反した場合だけとは限らないのです。
憲法に信教の自由が保障されているとは言っても、基本的人権や生存権や学業を受ける権利に加えて納税や労働の義務などもある訳です。
これらに違反した場合、宗教の教義や教えによるものであっても法律で罰せられることになるのです。
加えて、道徳や伝統や慣習と言った事柄や町内会などの地域活動などもあります。
その宗教の教義や理念がその地域社会に受け入れられるものでなければ、その宗教はその地域の人々から嫌悪され、つまり、「村八分」にされるのです。
ものみの塔はこの点どの地域に住んでいても、いわゆる「世の事柄すべてを忌避」しています。
「世の事柄すべてが悪魔に由来するもの」ではないにも拘らずです。
世の支配者が悪魔であっても、世のすべての人が悪魔に属している訳ではない点を無視しています。
そのため、町内会(実際には、政治の一端です)には入らず地域の行事にも参加しません。
子供にもある種の学校行事に参加させません。
ものみの塔は自分たちのこうした振る舞いに対する隣人や社会の嫌がらせを「自分たちの宗教への迫害とか弾圧とか抑圧」と考えています。
こうした考えも振る舞いも「間違い」なのです。
ものみの塔はいわゆる「世の人々を救う」ために伝道活動していながら、伝道活動以外その「世の人々」を避けています。
傲慢というか矛盾していることは明白です。
そして、自分たちの考えだけを話し、ものみの塔の教えに頑なに従うことを「信仰」だと思い込んでいるのです。
ものみの塔の教えは「独善的」です。
最もこれは「止むを得ない」ことです。
なぜなら、聖書の教えと社会の常識などとは「異なる」からです。
ものみの塔もしくはその信者が「本当に賢ければ」社会の中にいながら「出来ることと出来ない」ことを明確に伝え、「信条や教義に反しない範囲」で共に地域社会の活動を行うことが出来るのです。
例えば、地域の清掃活動やボランティア活動などの多くは信条とは無関係に出来るのです。
そのためには「聖書の正確な知識と理解」が必要なことは言うまでもないことです。
しかし、ものみの塔の信者の多くはただものみの塔の言うことに従っているだけなので「知識はあっても理解をしていない場合が多く」実際こうした活動に参加することは希なことです。
教義は教義として社会通念上の問題点はものみの塔には多くあります。
例えば、子供に対するムチ=虐待、輸血拒否=自殺行為、国旗に敬意を示さない、高等教育を否定、国家を歌わない、様々な行事に参加しないなどは社会通念上受け入れられないと思う地域の人々は多いものです。
ものみの塔はこれらを聖書に従うこととして信者にいわば要求して来ました。
更に、信者ではない人と「友」になったり「結婚」することも禁じています。
以前は、信者でない人と結婚しただけで「排斥」されたこともありました。
反面、信者は基本的に正直である、他人に親切である、嘘を付かない、暴力的ではない、反政府活動をしない、犯罪や悪さをしない、法や権力にも従う、為政者にも従う、会社の上司にも、会社にも忠実であるなどなどの点で努力している良い面もあります。
信仰に反しない限りこれらを守る「もの静かな人々」でもあります。
人々は輸血拒否、子供にムチ打つ虐待、学校などの様々な行事に参加しない、町内会に入らないし会費も払わないなど目立つ部分に注目していますが、基本的には「ある程度教養もありもの静かな人々」です。
しかし、表向きは善人のように「見えます」が、神とキリストからも、地域社会からも受け入れられない「中途半端な存在」なのです。
わたしがものみの塔を批判しているのは主にものみの塔の組織の在り方とその見解と主張と会衆内で行われている「偽善と淫行などの悪事」に加えて信者たちがものみの塔に盲目的に従う態度です。
最も、信者にものみの塔の教えを「評価や批判」するだけの知識や理解をもっている人が「殆ど」いないため「それは間違い」だと誰も言えないのです。
加えて「世のものでない」と主張しながら「世を十分に利用」していることです。
それと、見えない形の「偶像崇拝」です。
ものみの塔の信者たちは、世の人々と同じく、科学技術の産物(偶像)を有用なものとして活用(崇拝)したり、世の中が提供する様々な物(アイテム、食べ物、衣類、医療や医薬品、様々な移動手段など)に心を寄せている(依存している)のです。
ものみの塔が否定して来た高等教育(今は、認めているらしい)など学校教育にも依存していることも明白です。
彼らの教養の大部分は「この世が提供して来た学校教育」によるものです。
こうした点を考慮した時、自分たちの主張や振る舞いを「恥ずかしい」とは思わないのでしょうか。
こうした点を指摘されたら「屈辱」を感じるはずです。
聖書を信じるわたし自身もパソコンを利用しネットを介して主張したり買い物もしています。
しかし、そうする必要が課せられているからであり、崇拝行為のように頼っている訳でも絶対視している訳でもありません。
なければないで構わないのです、あるから「ただ利用しているだけ」なのです。
むしろ、ネット上の様々な出来事を批判し続けています。
わたし自身は、現実に世の中で住んで暮らしていますから、この世から出て行くことは出来ません。
出て行くとしたら、誰もいない山中や離れ小島などで生きることになります。
これは、そう望んでも現実的ではありません。
生活のあらゆる点で世の中の仕組みの中で生きているからです。
そうしないと生きてはいけないしあらゆる活動も出来ないのです。
今は、すべての人は悪魔の支配する体制の中で生きているので「止むを得ない」ことです。
ものみの塔とは異なり、わたしはこうした点を認め、信仰に反しない範囲で地域社会との、いわゆる共存しています。
イエスも「弟子たちが世から出る」ようにとは命じてはいません。
自分が神から遣わされた者であり、世からつまり悪魔から遣わされたり悪魔の体制に属する者ではないという意味で「世のものではない」と述べ、ご自分が選んだ弟子たちに対しても、もはや「世のものではない」と言われたのです。-ヨハネ17:15-19、参考コリント(一)5:9-13
ものみの塔の「世のものではない」という主張の問題点は、実際に「世にあるものを利用」していながら「世のものではない」と主張している点にあります。
つまり、「嘘」をついている点です。
信者個人として生きて行くために「世を利用する」ことは「止むを得ない」としても、組織としては「利用出来ない」のです。
その必要が課せられている訳ではないからです。
しかし、ものみの塔の信者の「生活保護費」の受給は、この世の体制からの「搾取」に当たります。
なぜなら、生活保護は「働こうとしない者」のためにあるのではないからです。
ものみの塔の信者のある者たちは、ものみの塔に従って、生活を支えるために十分な仕事をせずに、いわゆる伝道活動を行って来たからです。
ものみの塔は組織として「伝道活動」を行うようにと繰り返し述べて来ました。
そして、それに応じた信者たちを「霊性の高い開拓者」などと持てはやして来たのです。
その信者が年老いて働けなくなり生活が困窮している責任はすべてものみの塔にあるのです。
ものみの塔は組織としてこうした信者を養う責任があるのです。
日本では憲法で、いわゆる最低限の生活を保障していますが、その一方で義務も付与しており国民年金の支払いは法律の義務となっています。
勿論、収入などにより全額免除というシステムもあります。
この場合、適切に毎年申請すれば「納付」と同じと見なされ年金を受け取ることが出来ます。
ただし、全額納付した場合の三分の一だけの受け取りとなります。
わたしたち夫婦はこの制度を利用し約10年間全額免除申請を行い認められてきました。
こうした行為はものみの塔の言う「世を利用している」ことにはなりません。
なぜなら、年金の支払いは税でありすべての国民に課せられていることだからです。
所得税や健康保険税は車両重量税や固定資産税などを支払うことと同じことです。
年金の支払いを全額免除されても、年金受給は、いわば、納付したものと見なすと言う国の判断なので「正当な収入」です。
わたしたち夫婦も、実際に、長い期間年金を収め、そして、時が来て年金を受給し、それで生活をしています。
いわば、年金は自分の蓄えを受け取っているということと同じことです。
勿論これだけで生活することは、自宅をもっている人以外は無理です。
それでも、国の法律で納付が義務付けられていますのでその必要があります。
「世のものではない」という精神に反していると考える必要はありません。
法律に従った事だからです。
聖書でも法に従うよう教えています。
勿論、受け取るには申請が必要ですから、申請をしないという選択肢も当然ある訳です。
そうしたことは個人の責任で行うことです。
また、イエスのタラントの例え話から、例えば、銀行にお金を預けて利息を受け取るも出来ます。
-マタイ25:14-30
もし、こうした行為が神の見地から見て「悪」ならば、イエスも例えに用いることはなかったはずです。
実際、ものみの塔の信者でも聖書による是非を考えずに銀行の利息を当然の如く受け取っていると思います。
ただし、お金に対する「貪欲」な精神は聖書の中でも禁じられています。-テモテ(一)6:9
これと似たようなことに株の売買があります。
クリスチャンは株の売買を行うことは禁じられているのでしょうか。
確かに、勤労による対価とは異なり、お金に対する「貪欲な精神」を連想されます。
しかし、イエスのタラントの例えから推察すれば株取り引きで利益を得ることと銀行に預けて利息を受け取ることに大きな違いはありません。
又は、株取り引きを勤労と同じように考えて良いのです。
不正に得た収入ではないからです。
株で多額の利益を上げることもあれば損失を抱えることもあるので、いわば、賭け事と同じように見なすならその精神は「貪欲な精神の表れ」と見なされるかも知れません。
株で利益を上げることは「個人の良心」で決められる問題です。
必ずしも「貪欲な精神」で株の取り引きをしているとは限らないからです。
例えば、株の配当を得ることは銀行に預金をしその利息を得ることと何ら変わりはないのです。
株は必ずしも、売買による差益だけではありません。
もし、多額の収入を得ることが「悪」ならば、ものみの塔の信者は会社の経営や大企業の役員なども出来ないことになります。
ものみの塔の信者が大企業の役員になってはならないという聖書的根拠はありません。
聖書の中では、実際に、
ダニエルがバビロンの王に仕えたように、ヨセフがエジプトでファラオの次の位に就き政治を行ったように。
ダニエルもヨセフも神に対する信仰もあり忠実であり二人とも神に是認されまた助けられています。
例えの趣旨は異なりますが、モルデカイがエステルを用いて政治的な活動によりユダヤ人を救った例もあります。
エルサレムの神殿の再建ではエズラもネヘミヤも政治的活動をしています。
その結果、神殿も城壁も再建されたのです。
信者に対する組織の責任を考えた時、ものみの塔の、信者の世話をし養わないという点の「精神的要因」は旧統一教会と何ら変わりません。-参考テモテ(一)5章
あなたにはそれが分かりますか、見えていますか。
ものみの塔の組織は人間の組織と同じように部門と階級で区別されています。
大勢の信者の上に、奉仕の僕(現、援助奉仕者)、会衆の長老(主催監督、奉仕監督、神権宣教学校の監督)が長老団を形成していましたが、現在は長老団の調整者(旧・主宰監督。2009年1月に名称変更)・書記・奉仕監督からなる奉仕委員会に変更しています。
長老団の調整者は80歳で引退するようです。
また、神権宣教学校も現在は「クリスチャンとしての生活と奉仕の集会」と名前の変更を行ったようです。
もう少し具体的には、
2016年現在、世界の主要な地域に85の支部事務所があり、240の国や地域の宣教活動を監督しています。
各支部では、3人から7人の長老が、統治体により支部委員に任命されて支部委員会を構成し、管轄内の国や地域に存在する諸会衆を監督しています。
支部委員のうち1名は支部委員会の調整者に任命され、委員会の相互調整を担当し、一つの支部が複数の国々の業を管轄する場合、それぞれの国に国内委員会が設けられています。
支部委員会の監督下に実務部門が組織され、中枢となる奉仕部門は、各会衆に指示の手紙を送ったり、巡回監督・地域監督の業を監督したり、大会を計画したりしています。
支部の規模に応じて、翻訳部門、執筆部門、会計部門、法律部門、ホスピタル・インフォメーション・サービスなどを設け、また、当該支部が書籍・雑誌・DVDなどの生産を担当する場合、大規模な印刷施設や工場まで備えています。
支部事務所直轄の各種委員会も各地に置かれ、地元の資格ある長老たちが委員に任命されています。
地区建設委員会-- 地区における王国会館建設や大会ホール建設を指揮・監督
医療機関連絡委員会- 無輸血治療を実施してくれる医療機関の開拓および信者への情報提供
大会委員会 - 大会監督・プログラム監督・宿舎監督からなり、各地の地域大会を監督
大会ホール委員会 - 各地の大会ホール(2018年現在、日本国内に8ヶ所(栃木、千葉、海老名、東海、兵庫、関西、広島、福岡))の運営・管理
などなど。
正に、アメリカ人による合理的な世界的な組織です。
これらの「監督」あるいは責任者はすべて「男性」です。
女性は一人もいません。
この点はイスラム教徒も全く同じです。
古代イスラエルではユダヤ人の女性は頭を覆う必要がありましたがイスラム教でも同じで全身を覆うこともあります。
確かに、組織の構成としては大きいですが、これらは少しずつ加えられて来たものです。
初めからこのようになっていた訳ではありません。
このようにして聖書活動を行うと言いながら、人間の人間のための組織にして来たのです。
正に、本末転倒です。
こうした点は、パウロが会衆を組織化し監督や僕を任命したことに似ています。
ですが、その資格や行いは全く違うものです。
パウロは、会衆内の様々な賜物の存在を認めておりそれらの協調性を強調していますし、監督や僕を仲間の信者に仕え、また、世話をするために任命したのです。
ものみの塔の監督や僕たちは、あたかも行政の責任者のように「権限のある者」のような振る舞いをしているのです。
こうしたことは、イエスの教えにもパウロの教えに反することです。
さらに、ものみの塔の、世界中にいるいわゆる長老たちは必ずしも聖書の正確な知識も理解も得ていないことは明らかです。
加えて、人格や資質に関しても言うまでもないことです。
なぜなら、すべてものみの塔の教えと理解だけに偏った知識の持ち主たちだからです。
また、信者の中には巡回監督や地域監督、支部の調整者、統治体の構成員などを、崇めるかのように接する者さえいるのです。
聖書本来の考えに立ち戻って考えますと、
古代イスラエルでは律法があり春と秋に様々な大会や儀式が行われていました。
しかし、その律法はAD36に預言の通り神によって廃されています。
代わりに有効な儀式は、イエスが死の直前に弟子たちに命じた「人類の罪を贖うご自分の犠牲の死をパンとぶどう酒を用いて記念として行う儀式」を毎年行うというものです。
しかし、これも神の王国の召しに与る144000人(囲いの中の羊)に対するもので、他の羊たちに対する指示でも命令でもありません。
従って、今生きている神とキリストに信仰を抱く者たちに対する、いわば人類すべてに対する神のおきては、
1 神の義を行い悪を行わないこと。
2 偶像に犠牲としてささげられた物と血と絞め殺されたものと淫行を避けていること。
この2点だけだと言えます。
使徒15章
19 ですから,わたしの決定は,諸国民から神に転じて来る人々を煩わさず,
20 ただ,偶像によって汚された物と淫行と絞め殺されたものと血を避けるよう彼らに書き送ることです。-使徒15:19-20
28 というのは,聖霊とわたしたちとは,次の必要な事柄のほかは,あなた方にそのうえ何の重荷も加えないことがよいと考えたからです。
29 すなわち,偶像に犠牲としてささげられた物と血と絞め殺されたものと淫行を避けていることです。これらのものから注意深く身を守っていれば,あなた方は栄えるでしょう。健やかにお過ごしください」。-使徒15:28-29
ものみの塔は、神の王国の召しに与る人々が「まだ、存命」だとして「イエスの死の記念式」を毎年行っています。
しかも、その儀式を他の人々も見守るようにとさえ述べてこの儀式に参加することを求めています。
これは、神とキリストに対する不敬であり「反抗」の現れです。
既に集めることは終了しそれらの人々は天に復活しているからです。
加えて、ものみの塔の組織の中に「淫行が蔓延っている」ことも事実です。
この2点をだけを見ても神の導きを受けている組織ではないことは明白です。
仮に、過去に正しい崇拝を行っていたとしても、丁度神の民であった古代イスラエル人たちのように(国家として)偶像崇拝と淫行が原因で何度も周囲の国の脅威に晒され大勢が死んだことを繰り返し、ついには、3度目の正直で完全に滅ぼされたことを忘れているかのようです。
正に、歴史は繰り返すで、ものみの塔は過去に神に捨てられ滅ぼされたイスラエルの現代版です。
ものみの塔の奇麗ごとは書士やパリサイ人のようであり、人間の命令を教理として教えているのです。
イエスは次のように述べています。
8 『この民は唇でわたしを敬うが,その心はわたしから遠く離れている。
9 彼らがわたしを崇拝しつづけるのは無駄なことである。人間の命令を教理として教えるからである』」。
10 そうして,群衆を近くに呼んでこう言われた。「聴いて,その意味を悟りなさい。
11 口の中に入るものが人を汚すのではありません。口から出るものが人を汚すのです」。-マタイ15:8-11
神が大いなるバビロンの滅びに関して述べた言葉をそのままものみの塔の信者に断言します。
4 また,わたしは天から出る別の声がこう言うのを聞いた。「わたしの民よ,彼女の罪にあずかることを望まず,彼女の災厄を共に受けることを望まないなら,彼女から出なさい。
5 彼女の罪は重なり加わって天に達し,神は彼女の[数々の]不正な行為を思い出されたのである。
-啓示18:4-5
最後に、イエスが言われた「世のものではない」ということについて。
先ず、イエスの弟子たちも世から出ることはしませんし、出来ません。
事物の体制の神は悪魔です。
つまり、世の支配者は悪魔です。
ですから、すべての人は善人も悪人もこの世で一緒に暮らしています。
イエスが地上で活動した時も世の支配者は悪魔でした。
従って、この「世の中の人々」は、すべて悪魔に属している訳ではないのです。
例えば、古代においては、神の目的のために、支配者の下にいた人々もいましたが、現代ではそうしたことはなく政治家や政府に属する者たちはすべて「悪魔に属する人たち」です。
いわゆる一般人で聖書の音信や悪魔について「知らなくても善人」はいるのです。
だからこそ、伝道活動で関心を示しものみの塔の信者になる人もいる訳です。
「忌避すべき世の事柄」に関してはハッキリしています。
「世」のすべてを忌避するのではなく、悪魔とその使いたちに関連した事柄と悪と悪人を避け、信条が異なる「善人」と友になることは「背教でも間違いでも、世の友でもない」のです。
実際、ものみの塔の信者の多くはそのようにしているはずです。
それを公に認めることです。
神とキリストに信仰を持ちバプテスマを受けた自分と自分たちだけ救われるという考えは捨てることです。
誰かを救う、救われるとか世の終わりを生き残るなどという考えも捨てることです。
ただ、聖書の真理、正しいことを行いそれを伝えるということに徹するべきです。
それが、キリストの目に留まれば「もしかすると、キリストの世につれて行ってもらえる」かも知れません。
救いに関する神のご意思は次の通りです。
そのようなわけで,わたしはまず第一に勧めます。あらゆる人について,また王たちや高い地位にあるすべての人々について,祈願と,祈りと,取りなしと,感謝をささげることとがなされるようにしてください。
2 それはわたしたちが,敬虔な専心を全うし,まじめさを保ちつつ,平穏で静かな生活をしてゆくためです。
3 これは,わたしたちの救い主なる神のみ前にあってりっぱなこと,受け入れられることです。
4 [神]のご意志は,あらゆる人が救われて,真理の正確な知識に至ることなのです。
-テモテ(一)2:1-4
イエスは亡くなる三日前に次のように言われました。
36 「その日と時刻についてはだれも知りません。天のみ使いたちも子も[知らず],ただ父だけが[知っておられます]。
37 人の子の臨在はちょうどノアの日のようだからです。
38 洪水前のそれらの日,ノアが箱船に入る日まで,人々は食べたり飲んだり,めとったり嫁いだりしていました。
39 そして,洪水が来て彼らすべてを流し去るまで注意しませんでしたが,人の子の臨在[の時]もそのようになるのです。
40 その時二人の男が野にいるでしょう。一方は連れて行かれ,他方は捨てられるのです。
41 二人の女が手臼をひいているでしょう。一方は連れて行かれ,他方は捨てられるのです。
42 それゆえ,ずっと見張っていなさい。あなた方は,自分たちの主がどの日に来るかを知らないからです。
43 「しかし,一つのことを知っておきなさい。家あるじは,盗人がどの見張り時に来るかを知っていたなら,目を覚ましていて,自分の家に押し入られるようなことを許さなかったでしょう。
44 このゆえに,あなた方も用意のできていることを示しなさい。あなた方の思わぬ時刻に人の子は来るからです。
-マタイ24:36-44