知恵を求める人のためのブログです。
二つの天才=職人とAIを理解する。
私は職人は天才だと思います。
一方、人間が作ったAIにディープラーニング技術が加わって、今や人間の能力を凌駕しています。
つまり、AIは天才の領域に入ったと言って過言ではありません。
人間が作った道具ですから誰もそうは思わないでしょうが、私にはそのように見えます。
皆さんはどのようのにお考えですか?
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職人技を見ると私にはいつも「人間の叡智の一面」という認識があります。
職人技は人に感動を与える程の素晴らしい技術だと思います。
職人の作ったものを見て感動するのは、ある意味、人間に物の価値が分かるということの裏返しでもあります。
加えて、人間が常に「良いもの」を「評価」し、また、欲することを示しています。
職人の「ものを作る姿勢」を見ると、その探究心に驚き、完成品を見て職人に憧れたり、職人のようになりたいと思ったことのある人は少なくないと思います。
いわば、常人を逸しているようにさえ思えます。
しかし、その人となりは、
職人気質(かたぎ)で、自分に自信があり、また、自尊心が強いことは良く知られています。
こうした気質は、おそらく自分の仕事に対する誇りから来るものだと思います。
一般の素人にはその世界を「殆ど知りません」。
出来たものしか知らないことが多いのです。
そのため、職人のプライドが、一般の素人を遠ざける傾向にあることも事実です。
頑固一徹などということはその職人の仕事を知らない「他人」が言うことです。
職人には経験上何をどうすべきかが分かっているので、他人の言うことには耳をかさないものです。
実際、どんな職人にしても優れた製品を作る人は、自分の信念があるため「傍からは変わって見える」ものです。
その信念とは、物を作るための「その人の道理、方法、手段」なのです。
これは例えれば、
お金を出して人が作ったものを食べたり食材を買って調理して食べる人と、
野菜や家畜を育て作っている人との違いのようなものです。
野菜を買って食べる人は、野菜を作る苦労や難しさを全く意識せず、ただ、目の前の野菜を見た目で 良し悪しを判断し、これは良い、これは悪いなどと勝手なことを言います。
しかし、生産者の見方は異なります。
同じ野菜を見ても、観点が異なるのです。
土作り、肥料の与え方、水やり、病害虫対策、天候、季節などを考えるものです。
作物が出来るのが当たり前ではなく、努力して、また、運が良く生産出来たものなのです。
その職人の世界に入り込まなければ分からないことは沢山あります。
その職人ですら分からないこともあるのです。
刀鍛冶、旋盤、蒔絵、その他伝統工芸品など沢山の製品とその職人と言われる人が存在しています。
刀鍛冶は、炎の色を見て「温度や熱の加え方などを判断」出来ます。
炎の色を見て温度というより「適切なタイミング」が分かるのです。
旋盤工は、目と手の感覚から1000分の1ミリの判断が出来ると言われています。
確かに、こうしたことは計測器を用いれは分かることですが、職人はこれを「感覚」で行っているのです。
他にも、大工の「鉋(かんな)かけ」などがあります。
大工は鉋を極めて薄く、また、平らに削ることが出来ます。
また、大工は木材の性質も理解しており、その木の「反りや反り具合」の判断と対処方法やそうした木材の用い方を知っています。
宮大工は釘を使わない継手や組木の技法を知っており、どのようなヶ所に用いるかも理解しています。
ガラス工はガラスの性質を良く知っており、自在に形を形成することが出来ます。
時計職人のその仕組みや部品を加工する技術は普通の人には真似をすることは出来ません。
蒔絵師の漆や金やにかわなどを巧みに用いて、優れた芸術作品を作ることが出来ます。
図柄のアイデアも素晴らしいものがあります。
陶芸では用いる土の性質や釉薬に加えてその造形による様々な表現をしますが普通の人にはその良し悪しの評価が分かりません。
更には、窯の火加減は難しく、職人でも必ずしも思い通りには行かないものです。
ただし、最近は木を燃やす窯ではなく電気により温度を設定した窯を用いる人もいますので、こうした人は、火による様々な変化を「生み出す」ことは出来ません。
窯の中の炎は均一ではないのです。
そのため、焼き物をどの位置に置くかでも製品に違いが生じ、また、絶えず温度も変化していますので、その変化がどうなるかによっても製品が変わって来るのです。
陶芸家が最も神経を使うのが窯の火入れなのです。
陶芸家も炎の色と木の燃える音や炎の勢いや火の動き(対流)などで窯の中の状態を判断しています。
職人と云えども、これを自在にコントロールすることは難しいのです。
などなど様々な分野の職人が存在します。
中には人間国宝と言われた人さえいます。
場合に依っては、現代の最先端技術を支える製品をさえ作っている職人がいます。
それも、近代的な設備ではない設備で、いわゆる町工場で手作業で作っていたりすることもあります。
そこで作られた部品が宇宙開発や最先端医療にはなくてはならないものであることもあるのです。
どんなに科学や理論や技術が発達しても、それを可能にするのは、半導体を製造する設備のような近代的な設備だけではなく、手作業に頼らざる面もあるです。
更には、いわゆる化学の世界です。
今や細胞レベルを超えて遺伝子レベル、さらには、原子や素粒子の世界にまで「操作」出来るようにさえなって来ました
病巣の世界は、現代では腫瘍細胞に色を付けてその反応を調べたりする「経験、実験」がすべてであると言って過言ではありません。
ピンポイントに薬剤を投与することで体の負担を軽減するのです。
メンデルの遺伝の法則に関しても、「実験と観察」によります。
ファーブルの昆虫研究も同様です。
また、エジソンが白熱電球を作った時、長持ちするフィラメントを探していた時、いろいろ実験した結果、日本の竹に注目し長持ちさせたという話は有名な話しです。
竹の性質、太さ、しなやかさなどが他の人工物より勝った例です。
今でこそ、様々な金属を混合した丈夫なフィラメントが製造されていますが、当時はこうしたものがなかったのです。
自然界には「人間の想像を超える物」が存在していますので、将来、驚くような物が発見されるかも知れません。
近代的な装置を用いれば、生きた状態での細胞や血流さえ観測出来ます。
がん細胞に色を付けたり特殊な物質を付着させることで、がん細胞を「狙い撃ち」さえ出来るようになって来ました。
こうした技は職人の能力に何ら引けを取らないものです。
それでも、病気は無くならないしすべての病気を完治出来る訳ではありませんし、特に老化は防げず最後には必ず死ぬことになります。
特に、すい臓がんは最も致命的な病気の一つです。
心臓疾患や脳疾患や肝臓・腎臓疾患より厄介な病気です。
気が付いた時には手遅れということが多いからです。
痛みがあっても、その原因がすい臓であることに気が付く医師が少ないのです。
私の親戚の人もつい最近まで元気だったのに、これであっという間に亡くなってしまいました。
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職人に代わる現代の匠以上の存在はAIです。
職人は人間の能力を最大限に発揮した存在だとすれば、AIは人間の知識と経験の上に立つ存在であり、その「思考(=論理)」「探索」などの速さは、人間の何億倍もあり、とても人間が太刀打ちできる相手ではありません。
ですが、人間が成し遂げると称賛しますが、AIが同じことを成し遂げても殆ど評価されません。
例えば、
藤井聡太さんが将棋のタイトルすべてを獲得すると皆称賛をしますが、
これをAIがやったら「当然」と見なし評価はしますが称賛をすることはありません。
不完全な人間が成し遂げたので評価し称賛しますが、
もし、
完全な人間が成し遂げたら、それは「当たり前」のことで評価も称賛もしないのです。
ある意味AIは「完璧」なのです。
それでも、今や薬などを作る時の反応試験をコンピュータで行ったりや画像診断などをAIによってなされ専門医の診断を超える診断を下すことが出来るまでになりました。
人間が見過ごした病変や兆候も見逃さないのです。
大抵は、幾つかの病気の候補を示す場合が殆どです。
その確率はおそらく90%以上です。
人間の経験や知識や技術を超える存在がAIなのです。
それでも、こうした時代に在って尚「職人はその存在意義、必要性、価値」を増しています。
しかし、AIは人間のすることすべてが出来る訳ではありません。
AIがどんなに優れていても、所詮道具の一部なのです。
道具に人格がないのと同じようにAIにも人格はありません。
この点を忘れないことです。
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参考
専門家をも凌駕するAI技術について(コンピュータ)記したいと思います。
パソコンが身近になってから僅か30年足らずのことで急速な進歩です。
この間にプログラム技術は格段に発展しました。
プログラム言語も多数出て来ました。
その初めは、アセンブラやベーシックなどの初歩的なものでしたが、高級言語としてC言語、Fortran、JAVAなどが、最近ではPythonなどが出現しています。
他にも沢山あります。
プログラミングと簡単に言いますが、それが実行プログラム=アプリケーションになるまでには大変な作業があります。
今では、簡単に、かつ、正確なプログラムソースを、候補としてプログラムソフト自身が示してくれるので、
昔のように、すべてを手書きで入力しなければならないのとはその速さ、効率、正確さは「雲泥の差」です。
プログラムは人間が分かる書式で、つまり、約束事(予約語や書式とも言います)で書かれたアルゴリズムです。
これをパソコンやコンピュータが理解するには「機械語」に変換する必要があります。
これを一般的にコンパイルすると言います。
私はこの作業を行うコンパイラーというものを大学で学習したことがありますが、とても面倒なものです。
つまり、機械=コンピュータに「ことば(意味付け)を教える作業」がコンパイルであり、そのプログラムをコンパイラーというのです。
コンパイルが成功(バグ=記載ミスや論理不適合などが出るので成功するとは限らない)すると実行ファイル=アプリケーションが出来、ユーザーはこれを起動し使うことになりますが、
この実行ファイルがユーザーの使い方に基づき、パソコンが分かる機械語で作業をしてくれる訳です。
いわゆる拡張子が.exeというファイルが実行ファイルです。
皆さんもソフト(アプリケーション)をダウンロードしてインストールしたことがあると思いますが、
インストールする時、この作業が行われクリック一つで立ち上がる実行ファイル=アプリケーションを自動的に作ってくれるのです。
AIも基本的には同じですが、一般的なプロブラムよりは遥かに複雑なプログラムです。
その中にデープラーニングも組み込まれていますし、当然、ネットにも自ら接続出来AI自らが検索しそれを参考(比較)にすることもできるのです。
あたかも、人間がしていることをAIが「人間の求め」に応じて(人間の代わりに)こうしたことを行うことが出来るのです。
しかも、速いのです。
プログラムについて。
プログラムやプログラム言語の歴史は古くは1800年代ごろから始まっていますが、今のように電子式に行われたのは1940年代以降のことです。
始まりは機械式だったのです。
次いで、1950-1960年代にかけて、上記で述べた人間に分かり易い高級言語が開発されました。
ですから、それ以前は、CPUや機械語の分かる人位にしかコンピュータを使いプログラミングを行えなかったのです。
その量は膨大なものでした。
大きな無塵室にコンピュータが置かれ円盤式の磁気テープが回転しているのを見たことがある人もいるかも知れません。
その操作は、今のようにキーボードではなく、5つの穴が横に空きそれに意味を持たせた穴あきテープをテレタイプの送受信のように機械式に読み込ませるものでした。
それから図書館にあるデータインデックスのような穴の開いた大きめのパンチカードに変わり、それを機械式に読み込ませてコンピュータに計算(演算)させていたのです。
この当時はバグやエラーが多く上手く使いこなすことは困難でした。
このパンチカードを作成するのは女の人が殆どで「キーパンチャー」などと呼ばれたものです。
同時に、コンピュータも真空管式から半導体式に変わり、かなり小さいサイズになりました。
その後、様々なCPU(集積回路、これ自体をコンピュータと呼ぶ人もいます)が開発され作業の高速化や多様化が出来るようになって現代に至っています。
その先駆けがIBMでありIntelなのです。
マイクロソフトはその名の通り、OSやアプリケーションを作ることで世界を席捲し今日に至っています。
これに対抗出来るのはアップルだけです。
世界は大別してこの二つの会社のパソコンが占めています。
(大学の卒研の配置の時、集積回路にするかコンパイルにするかあるいは単に数理理論にするかの選択肢がありましたがコンパイルを選んで後悔しています。
集積回路の開発か数理理論を選んでいれば、まともな卒論を書くことが出来たからです。
コンパイルは複雑で、かつ、面倒なのです。
しかし、優れた面は、
コンパイルを作るということは、プログラム言語を作るということと同じことなのです。
私はこの方に魅力を感じてコンパイラを選んでしまったのです。)
更に、これと並行して様々なプログラミング言語も出現し、この頃プログラムを学習していた人にとっては混乱しなかなか身に付かなかったものです。
今では、いわゆるオブジェクト指向の言語が主流となり、ある限られた機能だけをもつ小さなプログラムを様々用途に応じて組み合わせたものとなっています。
プログラムの冒頭に、必ず書くヘッダーファイル(関数ともいう)がこれに当たります。
この部分に、自分がこれからプログラムを書く上で必要なファイルを読み込ませる必要があります。
もし、これが抜けると、自分が書いたプログラムのアルゴリズムをコンピュータが理解出来ずフリーズしてしまうのです。
フリーズしないでコンパイルが完了したとしても、いざ実行してみると「動かない」ということが良くあります。
その原因が「バク」という「入力ミス」である場合が多いのです。
「バグ」とは、虫もしくは虫食いとも言われています。
つまり、セーターが虫に食われて綻び(穴)が出来るようなことです。
プログラムにはコンパイル様式のものとインタラプト様式のものとがあります。
インタラプトとは「解釈実行型」とも言われ、プログラム全体をコンパイルせずにプログラムを一語一語解釈しながら実行するというものです。
これはコンピュータを素早く動かすことが出来る反面、出来ることが限られていて余り複雑なことは出来ません。
つまり、高度な作業には不向きなのです。
今や小学生でもプログラミングやアルゴリズムを理解して実際にプログラムを書いている人がいます。
加えてAIの登場により、いわゆる「自動生成」も可能になり、プログラムもAIが作ってくれる時代になりました。
それを少し手直しするだけで、別のアプリケーションが完成するのです。
便利な時代になりました。
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AIの特異性。
AIは原爆の作り方さえ教えてくれます。
AIは、初めはデータベースと検索ぐらいにしか出来なかったのが、今では人間を超えることまで出来るようになったのです。
人間の進歩というのは実に恐ろしいものです。
なぜ恐ろしいかと言いますと、「なにをしでかすか分からない」からです。
こうした人間の頭脳を創造したのは神なのです。
善し悪しは別として、神も驚くべき進歩と言えるかも知れません。
それでも、AIと言えども完璧ではありません。
統計的に、あるいは、ある一面に於いて人間よりは速く優れているというだけの話です。
このAIが作り出すアイデアは、「人間の思考を更に発展させる存在」になりつつあります。
つまり、AIと人間の知恵とアイデアの相乗効果が生まれつつある訳です。
こうしたことは他にもあります。
スポーツの世界で様々なデータをAI解析することで、自分や相手の癖や傾向を知ることができ、それにより次に何をすれば良いかのアイデアが見えてくるのです。
これは数学の統計という手段を用いている訳です。
数学の統計という分野は確率を求めるための手段でもあります。
つまり、統計を求めることにより物事を成し遂げる効果を高めるのです。
それだけではなく、
統計により「見えない事柄」が見えてくるものです。
いろいろありますが、分かり易い例は、交差点の交通量です。
街角で交通量を測定している人を見かけたことがあるかも知れません。
時間帯により交通状態の状態、曜日による状態、トラックや乗用車の交通量などを調べることにより、
その交差点の現状が見えて来るのです。
それによって、車線を増やすか右折レーンを作るか、バイパスの必要性や立体交差にするか、あるいは、高速道路や高速道路のインターの必要性などを検討するのです。
AIやコンピュータや統計などは、人間の能力を最大限に発揮しようとする「欲望の助長」に過ぎません。
それでも、すべてが、人間の思い通りに、完璧になる訳ではありません。
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AIの負の側面。
それは、フェイクの拡散です。
AIは必ずしも正しいことだけを示してくれる訳ではありません。
最も懸念されるのがフェイク、つまり、嘘やデマや捏造の拡散です。
知らない人はこれにより騙されるのです。
騙されるだけではなく、非常に多くの人に拡散させ、それが、あたかも真実であるかのように「一人歩き」をすることです。
その拡散の要因は嘘を信じた人がそれを他の人に伝えることです。
なぜ、確かめもせずに拡散させてしまうのでしょうか?
実はこうしたことはAIでなくとも起きているのです。
例えば、小学校で誰かが他の生徒の噂(嘘)を広めると、あっという間に全校に広まってしまいます。
その噂が本当らしく思えるからです。
人は誰かを騙す時「明らかに嘘だと分かること」は殆ど言いません。
「本当らしいこと」を言うので信じてしまうのです。
この時、騙すメカニズムは「幾つかの真実の間に、嘘を紛れ込ませる」ことです。
(悪魔はこの手法を持ちいてエバを騙したのです。)
例えば、
テストで普段余り高得点を取ったことのない人が高得点を取った時、誰かが「カンニングした」と嘘を噂として流すと、それを真に受ける人がいるのです。
その真に受けた人が更に他の人に話し、こして拡散は誰にも止められなくなるのです。
頑張って高得点を取った人は、努力を台無しにされ、悔しさと怒りの感情が爆発しそうになるのです。
こうしたことは、
何かのきっかけでそうなることが多いものです。
いつでもこうした噂を流しても信じられる訳ではありません。
嘘情報を流すタイミングというものがあるのです。
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フェイクに関して、
これは的外れな考えですが、
「一人を殺せば殺人者だが、百万人を殺せば英雄だ。殺人は数によって神聖化させられる。」
これは当時台頭したナチスのヒットラーに対して発せられたチャップリンの痛烈な批判の言葉だとされています。
被害者数が余りにも多いと、殺人という犯罪よりも、なぜそういうことが出来たのかという視点に変わってしまう傾向にあります。
「大衆は小さな嘘より大きな嘘に騙されやすい。
なぜなら、彼らは小さな嘘は自分でもつくが、大きな嘘は怖くてつけないからだ。」
との言葉がアドルフ・ヒトラーの言葉としてヒットした。
この言葉はヒトラーの著作である『わが闘争(上)』(平野一郎・将積茂/訳 角川書店 2002 改版再販)p.300に書かれているそうです。
これは意訳と思われます。
おそらく、正しくは、
「国民大衆の心は(中略)小さな嘘よりも大きな嘘の犠牲となりやすいからである。
というのは、かれら自身、もちろんしばしば小さな嘘をつくのだが、
しかし大きな嘘をつくのはなにしろあまりにも気恥ずかしく感じてしまうからである。」
と思われます。
共にヒトラーに関わる言葉です。
嘘つまりフェイクはこれと同じ理由で拡散すると考えられるのです。
小さな嘘は直ぐバレますが、大きな嘘はそれが嘘か真かの判断が直ぐにはつかないので、
それがあたかも「本当らしい」「夢や理想」などである場合信じ易くなります。
これも的外れですが、
政治家の公約です。
公約の内容が「大きければ大きい程大衆は信じてしまう」ものです。
例えば、
私は授業料を無償化しますとか給食費を無償にしますとか所得を倍増しますと演説したとします。
すると、聴衆は具体的なことより無償とか所得倍増という「ことば」に期待を掛け(踊らされ)、その政治家に投票するようなものです。
(政治家の公約は大抵は実現しないものです。
仮に当選しても、政治は一人では決められないからです。)
政治家は「大ぼら」ほど大衆の受けは良いのです。
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AIには「神、あるいは、神を崇拝する」という概念がありません。
あくまでも、初めは、人間の知識や技術や経験の蓄積でしかないのです。
しかし、今ではディープラーニングという手法(プログラム)を通して、AIが自ら「学習」しデータを更に蓄積させ、人間の「叡智」を超えた(気が付かない)「アイデア」を出すことさえ出来るようになって来ました。
あくまでも、論理的であり物理的なのです。
そこには、「道徳や信仰という概念」がないのです。
勿論、そういう概念をAIに持たせることは可能です。
そうなると、おそらく、AIと云えども「混乱」が生じ、「道徳を取るか利を取るか」という選択でフリーズする可能性が出て来ます。
これも、「道徳を優先させる」というプログラムにすることも可能ですが、そうなると、人間の思惑通りに行かなくなる時が生じます。
AIに道徳を持たせれば、少なくとも人間が行うよりは「健全」だとは思いますが、現実には有り得ないことです。
なぜなら、プログラムをするのは「欲」を持つ人間だからです。
そのためAIは、将来、人類を破壊、もしくは、破滅させる存在に成り得るということです。
AIは人間のように決して「神に立ち返る」などということは無いからです。
あくまでも、「唯物的であり無神論であり論理的でありデータの活用」でしかないのです。
(参考:こうした論理を通常「進化論」などと言ったりします。)
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人間の理知に関して。
神は、天の霊者のような「理知ある者」として人間を創造されました。
人間の、あるいは、人類の発展そのものが「神の偉大さを証明」していると言っても過言ではありません。
人間は、いわば、俗に言う「孫悟空がお釈迦様の手の平から出ることが出来ない」のと同じなのです。
人間が、人類がどんなに進歩、発展をしても「神が人間に与えた領域から出ることは出来ない」のです」。
(参考:人間が地球の外に出て活動することは、この領域から出ることを意味します。
したがって、人間に与えられた領域外の活動は何ら保障されることはないのです。)
自然界には人間の想像や理解を超えたものが「無限に存在」しています。
それを発見して「応用」するのが「人間の知恵」です。
神はこうして「人間の活動が進歩、発展」するようにされたのです。
つまり、人間の進歩、発展のための「土台」を作ったのが神なのです。
なぜなら、
人間は直接神と触れ合うことが出来ないからです。
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(参考)神の偉大さについて。
人間は神を直接見ることも話すこと(雷にしか聞こえない)も出来ません。
余りにも神が偉大、つまり、活動においても力においても原爆や太陽や惑星や銀河などの大爆発よりはるかに勝るエネルギーの塊のような存在だからです。
聖書に記されているように、太陽すらまともに見ることが出来ない人間は「神を見て生きていることは出来ない」のです。
肉体は物理的に耐えることが出来ないのです。
しかし、「霊」は別です。
脳の中に「幻」が生じれば「イメージとして見る」ことは出来ます。
その「扉」は、人間の側からは「開けることが出来ません」
もし開けて頂いても、神の姿は「光」そのものとしか見えず、その姿形は「誰も分からない」のです。
かつて、この扉を開けて貰って「天を見た人間」は、
ヤコブ、エリヤ、エゼキエル、ステファノ、ヨハネなど少数です。
これに人間だったイエス・キリストが加えられます。
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人間という存在について。
人間は生まれては死んで行く存在です。
それも僅か100年足らずの人生です。
この間に喜怒哀楽はありますが、人生のすべてにおいて、人間は常に「頭」を活動させて生きています。
その目的は兎も角として、この「頭」の働きは「驚嘆すべきもの」です。
生まれて1歳の赤ん坊ですら既に他の動物を凌駕しているのです。
人間には神から与えられた「理知」という特質を「善いことに用いる責任がある」のです。
多くの人は、「知らずして」自分の能力を自分だけのものとして「用いています」
それは、親がこうしたことを子供に教えないからです。
その親も自分の親から教えられていないのです。
どこかの段階で、神に目覚めこうしたことを子孫に伝えるべく「家訓」のようなものを作っても良いはずだと思いますが、残念ながらそうした人を私は知りません(知らないだけです。おそらく世界のどこかはにいると思います)。
しかし、そうした人は「世の中では極めて、目立たない人々」なので、世間で知られることはないのです。
殆どの家の「家訓」は、人間のある種の目的のためのものです。
道徳的規範であったり、商売の極意だったり、問題を避けるためのコツだったり、物事を成功させるための秘訣だったりというものです。
しかし、人間の理知を正しく用いるための「家訓」がある家を私は知りません。
大抵の人は、こうしたことに目覚めても「聖書」という書物の「訓戒」に従うことで十分だと考えています。
宗教を実践する人、信仰心のある人たちはそう考えています。
私も以前はそうでした。
しかし、今ではこれでは「不十分」だと感じています。
聖書はいわば「ルールブック」です。
そのルールに基づいて、人間は「更なる理知」を働かせることが「求められている」とさえ思っています。
信仰心を持つ人には、単に教えに従うということだけではなく、それ以上のこと、いわば、職人のような「優れた知識、技術」を「信仰(生きる)ということに関して見出す」ことが求められていると考えています。
おそらく、このようは人は極少数だと思いますし、既に指導的な立場に立っているかも知れません。
例えば、野球などスポーツはルールに基づいて競い合います。
つまり、ルールに従いつつ、その中で自分の能力を最大限に発揮するよう努力しているのです。
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かつて、エホバの証人と交わっていた時、
聖書の知識、人格、伝道(いわゆる証言の仕方、初めて会う人との話し方)、聖書講演や割り当てなどに関して「優れた才能」を発揮する多くの人に出会いました。
エホバの証人が「割り当て」を果たす時、いい加減であったりずぼらであったりふざけたりした人を見たことがありません。
皆、真面目に割り当てを果たそうと努力をしています。
こうしたことは一見して「善いこと」のように思えます。
しかし、
割り当てそのものを何の疑問を持たず、言われたままに果たすその姿勢に問題があります。
つまり、盲目的に従っているのです。
あたかも学校で先生に「やれと言われてやっている」ようなものです。
そこには善悪の判断も道徳的判断も全くないのです。
私も、実際、会衆と交わった初めの頃はすべてに於いて彼らと比較して劣っていました。
しかし、時が経つにつれて、そうした人々にも欠点や劣っている点があることに気が付きました。
それからは、彼らをいわば「偶像視(有能な人と見なす)」することは無くなりましたし、必要以上に褒めたりすることもありません。
それらは単に「良く出来る」というだけのことであり、「優れた知識、人格、道徳」とは別のことなのです。
私自身バプテスマを受けてから8年位で長老になりましたし、講演などでも「良い話しをする」自信がありました。
話しの導入、聖句の適用、励ましの与え方、神とイエスに対する誉れの帰し方、例えや比喩の用い方など。
時には聴衆の涙を誘ったり感動を与えたりということもしました。
しかし、これは単に話し方の技法であり、そのこと自体に価値はありません。
神権宣教学校の監督もし兄弟姉妹の割り当ての評価指導もしました。
奉仕監督でもありましたので、正規開拓者もしていました。
いわゆる未割当区域を協会から貰って、夏休み家族で何度も伝道活動も行いました。
しかし、自分を高めようとか有能だということを人に見せようとしたことは一度もありません。
ただ、素直に忠実であること「仕事」を立派に果たそうとしただけです。
それが評価されて、いわゆる先輩を差し置いて長老に任命されたと思っています。
おそらく、妬んだ人もいたと思います。
反感を抱く人もいたと思います。
私も例に漏れず欠点を多く持っていますから。
ある程度は気が付いていましたが、気にも留めませんでした。
ただ、私が会衆を離れるまで「誤解」をしている人もいました。
つまり、私の動機を疑っていた人がいたということです。
しかし、それはその人の問題で私の問題ではありません。
そのため、特に、そうしたことを問題視したこともありませんし、そうした人に評価して貰うように振る舞ったことも全くありません。
私は純粋に自分の仕事(割り当て)を果たしたに過ぎないのです。
しかし、そうしたこと(長老として仲間の信者に仕えること)が「信仰」の一面、あるいは一部だと考えたこともありませんでした。
自分の信仰と彼らに仕えることとは別のことだと考えていたからです。
割り当てや伝道活動や信者に仕えることは「仕事」だと考えていたのです。
信仰とは、聖書の教えに基づく、自分の生活の仕方であり、人格であり、考え方であり、他の人との接し方であり、他の人の話し方などの在り方なのです。
これら個人的なことと仕事(公のこと)とは別の問題なのです。
おそらく、仕事で「満足」することはあっても「信仰が強化される」ことはないと思います。
信仰は個人的なことであり、その人の内面のことなのです。
外部のことは関係なく、自分の信仰について外部のせいには出来ないのです。
何かのことに誘惑されたとしても、それは、誘惑した方(外部)ではなく自分(内面)の問題なのです。
例えば、悪魔に誘惑された時、エバの内面がしっかりしていれば善悪の知識の実を食べることはなかったのです。
むしろ、その出来事(蛇の誘惑)に関して夫であるアダムに告げたはずです。
しかし、現実にはそうせず、むしろ、誘惑が欲望に変わり、ついには食べてしまったのです。
これは、その人の内面のことです。
信仰において自分を強化するのは、聖書を何度も読み深く熟考したり、聖書の教えを自分自身に適用したり、あるいは、誘惑や困難や試練に遭遇した時です。
その時の自分自身との戦いは「信仰の戦い」なのです。
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信仰に於いて「職人のようになる」ことは、
単に「一人の人間がどのような生き方をし、どのような人生を送るか」というレベルの話ではありません。
どうすれば「人類全体が平和で穏やかに、かつ、人間らしく生きられるか」と言う点に関する「秘儀」のようなものです。
つまり、自分自身の「信仰(生き方)」に関して、知識、技術、感性などで優れていることや「救い」や「宣教」において人々を導く点(仕事)で「匠」であることです。
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( 繰り返しになりますが、
人間の理知を正しく用いるための「家訓」のある家を私は知りません。
大抵の人は、こうしたことに目覚めても「聖書」という書物の「訓戒」に従うだけで十分だと考えています。
宗教を実践する人、信仰心のある人たちはそう考えています。
これでは「不十分」だと感じています。
聖書はいわば「ルールブック」です。
私はそのルールに基づいて、人間は「更なる理知」を働かせることが「求められている」とさえ考えています。
信仰心を持つ人には、単に教えに従うということだけではなく、それ以上のこと、いわば、職人のような「優れた知識、技術、感性」を「信仰(生きる)ということに関して見出す」ことが求められていると考えています。 )
そのため、今では「すべての人間は生まれながらにして、こうした教育を受ける必要があり、また、それを徹底する必要がある」と考えています。
(参考:こうした教育を受けたからと言って、その通りにしなければならないということではありません
つまり、教育は命令や義務ではないのです。
知識であり、その知識に従うか否かは「自分で決める」ことなのです。)
なぜなら、天の霊者であった一人の存在が、神の行いに関して疑問を呈しそれを実行に移し、その結果現在の地球の惨劇を招く結果になったからです。
地上の人間には「そうさせない責任がある」とも言えます。
それが、「神から地と人の管理を付与された人間の責務」なのです。
個人の幸福などと言う「狭い了見」の話ではありません。
「すべての人間は神との関係で自分の責任を果たすことが求められている」のです。
あなたにはこうした考えが理解出来ますか?
自分の「命」は、自分で宰領もしくは裁量出来たとしても「自分のものではない」のです。
神からの「与り物」なのです。
すべての人が、「神との正しい関係に目覚めて欲しい」と願っています。
職人の働きを通し、人間の素晴らしい能力の一部を示し、また、AIの能力に関しても示しましたが、
こうしたことに接し「元気が湧いてくる」人もいるかも知れません。
しかし、
人間だけに与えられているこうした能力を「人間のためだけ、自分のためだけに用いる」ことは間違っています。
なぜなら、繰り返しますが、人間には「地と人(自分自身を含め)を正しく管理することが求められている」からです。