今回は大義名分に関することを書いてきます。
大層な表現使ってますけど、簡単に言ってしまえば、理由であったり、
行動の正当性を示す根拠と言ったところでしょうか。
まかり通すために使うことが主でしょう。
算命学的には錦の御旗や、錦の旗印とか言ったりします。
個人的に納得できなくても、
これを掲げられれば嫌々ながらも無碍にはできないものです。
例えば、税金とか罰金等ですね。
払わなければならないので、仕方ないですが多めに納付するどころか
可能であればできるだけ少なく納付したいわけです。
とはいえ、大義名分という錦の旗印を掲げているから払わざるを得ないわけです。
払わないとこちらが悪者になってしまいますからね。
対抗するには、相応の大義名分が必要になるわけです。
とはいえ、法の元に正しさが確立されている税金や罰金に
対抗する大義名分というのは相当に苦しいわけです。
税金であれば、計算が間違えているので本当は今より少ない額が正しいとか
罰金ならば、取り締まりが不正であるとか、間違ったことは何もしていないなどで
不服申し立てするとかですかね。
上記に限らず、世の中は大義名分に満ち溢れていると言えるのではないでしょうか。
童顔の顔の人がいたとして、お酒を飲みに行ったとします。
年齢確認されました。運転免許証には20歳を超える年齢が記載されておりました。
国からお酒を飲んでいいと、見做されているから、
自分は堂々とお酒を飲む権利があるという大義名分を掲げて、
お財布が許す限り、好きなだけお酒を飲んで良いわけです。
大義名分の内容が正当であればあるほど強いわけです。
正当な大義名分を覆すとなると、それこそ大変です。
正攻法で正当性を崩せないとなると、不当なことをせざるを得なく、
崩せたとしても、世間様の非難というものが大きくなりますし、
成果として実りがあるのかも怪しいです。
対抗するには相応の手段と覚悟が必要となりますね。
もっとも不当な方の力関係が圧倒的に上な場合は、
この限りではないこともあるでしょう。
ただ、基本的にまっとうな大義名分を掲げているところに攻撃するのは
大体において、愚かしいと言えるわけです。
逆に言えば、大義名分を掲げていないところは攻めやすいということになります。
例えば、どなたかの悪口や誹謗中傷を大っぴらにに掲載したとします。
そこに大義名分はあるのでしょうか。
自らの正当性を掲げ、相手の不当性を突けているのか。
客観的な事実なのか。
根拠のない情報を載せでもして、相手から大義名分を掲げられて責められたら
たまったものではありません。
名誉棄損だの営業妨害だので、訴えられるだけならともかく、
負けてしまい困ったことになる可能性があるわけです。
誹謗中傷なんて、大義名分と徹底的に戦う覚悟がないと書けませんよ。
別に現実的に何も責められてなくても、見た人は心の中で思うわけです。
幼稚だなとか、何がしたいんだろうとか、酷いこと書く人だなかとか、
少なくとも良い感情で賛同されることは多いとは言えないと思います。
こういうことの積み重ねが運を下げていくのでしょう。
仮に誤りとか、何か指摘されると大義名分がない場合はやはり弱いわけです。
誰々の無念を晴らしたい、こういう手口で騙された、
だから大義名分を掲げて、知恵を絞って、考えを曲げないようにし、
客観的な事実を掲載するというのなら良いのではないでしょうか。
社会だけでなく、天に味方して貰うにも行動に対しての大義名分は必要です。
天も味方してくれないとしても、それでも自分の中で大義名分を持つことは重要だと考えます。
自分のした行動は世間的には責められるかもしれない、
それでも大義名分を掲げましょう。
「誰にも理解されないかもしれない。それでも自分は〇〇のために戦った…」
→こういった考えに感銘を受ける人はいるはずです。
少なくとも自分は感銘を受けます。
一方的に間違っているとは言えないし、むしろ正しいのかもしれない。
大事なことだとは思えませんか。
仮に目的も理由もなく何となくやって失敗したとします。
他人だけでなく自分でさへも自分を庇いようがないですよね。
その時に辛い想いをしたのでしたら、尚の事、自分だけでも
自分を庇ってあげないとかわいそうです。
大義名分を掲げていれば、自分自身は勿論のこと、
誰かが理解してくれるかもしれません。
その時の行動は結果的に責められるかもしれない。
でもそれは、それでいいと思います。
人としての成長に繋がる良い失敗だと思います。
例として妥当かはわかりませんが、
会社でAさんとBさんがいて、どちらも同じ内容の失敗をしたとします。
Aさんは社員研修で習った、〇〇という手法が正しいと思い、
考えて行動したが、研修で習った〇〇の手法自体が間違っていた。
Bさんは特に何も考えておらず、不注意で失敗した。
世間一般から見ても、Aさんの方が成長できそうですし、庇いようがありますよね。
Aさんには〇〇という大義名分があり、Bさんは何も考えていなかった。
Bさんには響くのかさへもわかりませんが、
Aさんは同じ失敗をしなそうですし、
次も考えて行動してくれるような気がしませんか。
そもそもAさんは結果的に失敗しただけであって、
自分の中の大義名分に従い、会社の教育で習ったことを実行したのですから、
プロセスとして間違っていないので、下手したら責められないのかもしれません。
研修のカリキュラムが悪かったから、改善するとかもあるかもしれません。
自分の行動がどうして駄目だったか省みることもできるわけです。
自他ともに正当性を認めてもらう為にも多いに役に立つこともわかります。
例え話が妥当かというのは悩ましいところですが、
要点としては、大義名分を掲げて行動するのが望ましいということです。
この記事というか、自分の算命学の大義名分は概ね下記の通りです。
・どうやって運を上げていくか。
・より上手く生きていくにはどうすれば良いか。
・命式が示すこと以外に出来る努力はないか。
上記の大義名分の元に、今回の大義名分についての記事を書いたわけです。
もっと別の切り口もあったかもしれませんね。
今回の要点としては以下のような感じとなります。
・世の中は大義名分で溢れている
・大義名分を掲げることは、自他ともに対しても非常に有効
・自分だけでも、自分を守れる根拠(大義名分)を持って行動しよう
また近々更新できればと思います。