昔話し10 | 上田仁オフィシャルブログ「鏡花水月」Powered by Ameba

昔話し10

小二の終わり頃、私は通学路の途中にあった「お絵描き教室」に通うことになった。

生徒は小中学校の子供が主であり、老け込んだ雰囲気のおばさんが先生をしていた。

教室に通うようになったキッカケは保育園からの同級生「にいくら君」が通っていたから。

理由はただそれだけだったようにおもう。

教室はこじんまりとした広さで、クレヨンで落書きをする園児から、紙粘土で工作をする小学生、油絵を描く中学生等、様々な生徒が出入りしており、夕方にはいつも満員状態。

時にはトイレに出入りすることすら困難になる程に生徒数が多かった。

しかし私はこの教室であまり中身のある授業を受けた覚えがない。

そもそもにして私は絵を描くことは好きだったが、さほど上達しようともしていなかった。教室の雰囲気は児童館のように緩いものだった。

終了時間になると教室の出口に積んであるお菓子をひとつ選んで持って帰れたので、それが唯一の楽しみだった。

向上心もないまま両親の金を無駄遣いさせてしまっていた事だけ今は申し訳なくおもう次第だ。


しかし私の習い事ブームは更にエスカレートした。

「剣道を習いたい!」

とある漫画に触発され興味本位で言いだしたのだが、その漫画を私に読み与えていた父が責任を感じたのか快く承諾。

お絵描き教室と平行して剣術の道へ。

通ったのは警察剣道の少年部門。

最初の半年くらいは竹刀や防具はつけさせてもらえず、摺り足での鍛錬、木刀での素振り、型の習得、座禅、見習い稽古が主だった。

防具をつけることに憧れていた私には酷な日々であったが、入部してすぐに念願が叶ってしまっていたら飽きっぽい私は半年も持たず辞めてしまっていただろう。

小学校の隣のクラスの「うみべ君」も同時に入部しており、すぐに仲良くなった。

警察剣道ということもあってか日々の稽古は想像を絶するほど厳しいものだった。

係り稽古では先生相手に倒れ吐くまで打ち合い、時には馬乗りにされ竹刀の柄で顔面を突かれ、かとおもえば今度は足腰の自由が利かなくなるまで早素振り、行き帰りの服装も道着を着たまま、冬場であっても下着の着用は一切禁止という徹底した修行内容だった。

稽古終わり頃になると

「中村!疲れたか!?」

と聞かれ

「疲れました!」

と答えると早素振り200本。

「疲れていません!」

と答えても早素振り200本。

理不尽この上ないやりとりだったが、このお陰で忍耐力が養われた気がする。


夏場になると地方合宿もあり中学生の先輩達に混じって稽古をさせてもらえた。

農道を数キロ走ってからの早朝稽古、暑さと疲労で5人ほど倒れた。

自ら進んで始めた習い事だったがこれほど

「やめておけばよかった」

と後悔したことはなかった。

稽古後に先生方とレクリエーションでスイカ割りをしてから食べたスイカは最高に美味かった。

稽古を終えてから座禅をして最後に先生が「昔、宮本武蔵先生は…」という話しを延々するのはたとえ合宿先でも変わらない決まり事であった。

夏の合宿を終えて暫くの時が経つ。

真面目に通い続けた成果か昇級試験に飛び級で合格できた。

試合時に身長の低い私が得意とした技は「小手」。

馬鹿のひとつ覚えであったが、そのおかげでどんな試合でもそこそこの成績を収められていた私は「小手の名手」として先生に一目置かれ、翌年には先輩剣士達に混じり日本武道館で行われる少年剣道大会に補欠出場することができた。

同学年で補欠に選出されたのは私と、中学年で圧倒的な強さを誇っていた「みなみ君」の二人。

法隆寺夢殿をモデルにしたとされる蜘蛛の巣の糸を張り巡らせたような、八角形の天井の中央に吊された日章旗。

それを見上げた時、ようやく自分が武道館の試合に出ることを自覚した。

日本全国の選ばれし少年剣士達がそこに集結していた。

私の武道館初試合は二回戦目。

試合開始早々に私は小手を先取する。

相手はおそらく年上、自分よりも体の大きい敵だからこそ小手は狙いやすい。

王道の面や胴は一切狙わず、相手の懐に飛び込んでは離れ際に小手を狙い続けた。

しかし体格の違う敵に幾度となく体当たりを続れば、むしろこちら側が体力的に不利になる。

とうとう足がふらつきだしたその瞬間、頭上に稲妻が落ちた。

面を取られてしまったのだ。

そのまま試合時間は終った。

1-1

引き分けだった。

その後の先輩方の善戦も虚しく我ら警察剣道少年部は決勝に出ることなく敗退。

閉会式を終えて、会場を去る時に背負った防具はいつもより重たく感じた。

充実した日々ではあったのだが、この更に翌年、私は一旦剣の道を離れることになる。