「光と闇の戦い」は、
各自の「心の中」、
そして「外の世界」で
行われています。
ケガレ逆巻く世の動きは、
今後ますます加速していくので、
外の動きばかり見ていては、
その動きに巻き込まれてしまいかねません。
外を探せば探すほど、
ますます訳が分からなく
なってしまいます。
だからこそ、心を鎮め、
自らの内面と向き合うことが
大事になります。
暴風雨の中でも、
シンと静まり返り、
冷静でいられるだけの
ハラが必要です。
外ではなく、
内に意識を置く。
どんなに外が
荒れ狂っていても、
外の暴風雨は決して
あなたの本質ではありません。
あなたの本質は
台風の中心
台風の目の中に
シンと鎮まり返っています。
そのことを意識しつつ
嵐の真ん中に立ち
周囲の動きを
裁くことなく
ただ静かに
見つめる。
そういう風に
イメージします。
人間の「闇の部分」に必要以上に
意識をフォーカスするのではなく、
闇は闇として、その存在を認める。
そして「闇」を認め、
許し、受け入れること。
「闇」を「悪」と
言い換えても良いでしょう。
結局のところ、
認めたくなくても
「闇」は存在するから、
認めざるを得ない。
絶対に許したくなくても、
「負の連鎖」を
断ち切るためには、
許さざるを得ない。
そして、
「闇」は自らの内にあり、
外にあるものではないから、
そもそも取り除いたり
排除したりすることは
出来ないのだということを悟れば、
いやがおうでも受け入れざるを得ません。
心の中では
様々な葛藤があるでしょうが、
それを乗り越えて
「光と闇」を統合していくのが、
いまを生きる我々の使命なのです。
だから、やはり自分の中の「闇」と
向き合うことは避けて通れません。
自分の闇と向き合えば、
他人の闇を裁くことは
出来なくなるはずです。
逆に言えば、
安易に他人を裁くのは
「自分の闇と向き合っていない」
ということになります。
いたらない自分を知れば、
他人を裁くということが、
いかに傲慢でおこがましいかに
気付くと思います。
そもそも、
他人を裁く資格など、
自分にはないのです。
自分の心を、
よくよく見つめれば、
次から次に
ドロドロしたものが出て来ます。
忘れていたような怒りが出てきたり、
憎しみや恨みが出てくることも
あるかも知れません。
あるいは、恐れや不安、
嫉妬、ねたみ、劣等感、
他人に投げかけた
酷い言葉や冷酷な態度、
許せなかった人、騙した人、
裏切った人、見捨てた人、
離れていった人、
そうした人々に対する思い、
自分の言葉や態度で
傷ついた人の思い、
罪の意識、懺悔、後悔、
愛されなかった悔しさ寂しさ・・・
挙げていけばキリがない
かも知れませんが、
それらは自分の心の中に
封印していたものです。
しかし、
それらにひるむことなく、
苦しくても
しっかりと向き合い、
静かに見つめる。
辛くて嫌な思い出を、
心の中で再体験することもあるでしょう。
恥ずかしい、情けない、自責の念、
自己批判などの思いが
沸いてくるかもしれません。
そうした色んなものが、確かに
自分の心の中にあることを素直に認める。
そして、そんな自分を許し、
受け入れ、愛する。
場合によっては、誰かに対して、
心からのお詫びと感謝の言葉を捧げる。
「ごめんなさい、ありがとう」と、
心を込めて、
心の中で相手に伝える。
そして自分に対しても、
自分の「真ん中」に対しても、
同じように語りかける。
お詫びと感謝をすべき相手は、
いくらでも居ることに
気付くはずです。
いまとなっては、
もう会えない人もいるでしょう。
それでも、自分なりの真心を届ける。
うわべだけでなく、心を込めて。
「こんな奴は許せない」
と思っていると、
ドンビシャリの「こんな奴」が
目の前に現れて来ます。
しかし、その思いを、
心の中で思い直し(思いを直し)、
心からのお詫びと感謝を捧げる。
すると、その相手が目の前から消えてしまう。
私の経験では、
「許せない」と思っていた相手との
接点がなくなり、顔を見ることさえ
なくなってしまいました。
あるいは、
私の気に触っていた
相手の言動が、
いつの間にか無くなってしまった
こともあります。
そうやって、
自分の心を掘り返し、
一つ一つ、
未解決のものを解決し、
決着を付けていく。
心の闇に閉じ込めていたものを
日の光にさらすことで、
それを終わらせる。
色んな出会いや出来事や体験の意味を、
神の視点で見つめ直し、思い直し、
お詫びと感謝を捧げる。
「思い直す」=「思い」を「直す」
(直す=正す=神の視点で見直す)
そうした作業を、
一人でやっていく。
自分の闇と向き合うには、
もっと違うやり方が
あるのかも知れませんが、
今のところ、
私はこういうやり方しか知りません。
他人の「闇」を暴いたり、
裁いたり責めたりするのではなく、
まず自分の「闇」と、
しっかり向き合うこと。
それが、
かの「日月神示」で
言うところの
「悪を抱き参らせる」
ための第一歩となります。
かくいう私自身、
まだまだ、
多くの闇を抱えています。
それはよく分かっています。
まだまだ甘い。
掘り下げ方が中途半端、
見つめたつもりで
再度フタをしたり・・・
だからこそ、
自分に言い聞かせる意味も含めて、
いま、この記事を書いています。
自分の闇と向き合い、
闇があることを認め、許し、
受け入れ、自己の中で統合していく。
「悪」(と認識するもの)を裁いて
排除するのではなく
「抱き参らせる」。
『鬼滅の刃』で言うと
「鬼になった竈門禰豆子」を
背負うようなイメージ(余計に分からん)。
まあ、実際のところ
私達の目に見える悪は
そんな可愛いものじゃありません。
これまでの人類は
善を勧めて悪を退治する
「勧善懲悪」が大きなテーマでした。
悪さえ滅ぼせば善が栄えると。
しかし、外に見える悪は
自らの内を反映したもの。
それを滅ぼすということは
自分自身を否定するのと同じ。
斬ろうとしていた悪は
実は自分自身の影。
「光と闇の戦い」
というのは、実は
「自分自身との戦い」
だったということです。
