今度(こたび)此処(ここ)へ神が引寄せた者は、みなキリストぢゃ。釈迦ぢゃぞと申してあらう。磨けば今迄の教祖にもなれるミタマばかりぞ。それだけに罪深いぞ。岩戸あけて、めぐり果たせたいのぢゃ。このこと肚によく判るであらうが。 
(ひふみ神示 第二十四巻 黄金の巻 第三十三帖)
 
 
<以下、引用>
アセンデッド・マスターと呼ばれる方々は、
違う言い方をすれば、キリストになった人、
仏陀になった人、ということになります。
 
つまり、「キリスト」や「仏陀」という
称号を獲得した人ということになります。
 
そもそも、イエス・キリストさんとして知られている人は、キリスト“サナンダ”意識という太陽神人を代表してやって来た人ということですから、キリスト“サナンダ”意識からの派遣者であります、イエスさん、ということになります。
(中略)
もしくは、「弥勒の世」にアセンションを果たしたということが云われたとき、それは、私たちが、“弥勒菩薩さんや観音さんと一体になった人”と、宇宙で呼ばれるようになることです。
<引用終わり>
<引用元>キリストはイエスの名前ではない http://mihoh.seesaa.net/article/119846673.html
 
『日月神示』に書かれてある内容と、『シリウス文明がやってくる(Kagari ∞ Kazuki のブログ)』の内容が一致しています。
とても興味深いですね(今はブログが見られなくなっています)。
 
今回、縁あって「引き寄せられた人」は、やはり、それだけの責任が伴います。
 
しかし、それぞれの使命を全うした暁(あかつき)には、一人ひとりが「ミロクさん」とか「観音さん」という称号を獲得するようになるのではないかと、私は考えています。
 
「弥勒菩薩?観音さん?いや、自分なんか、とてもとても・・・」という謙虚さは、この際、捨てて下さい。
 
永きにわたる転生を通じて、磨きに磨き、鍛えに鍛えられてきたのは、まさに「この時」の為。必要以上の「謙虚」は、自己を不当に過小評価することであり、それは自分の「真ん中」に対して失礼というもの。
 
何より、私達の「真ん中」が、あるいは背後で支えてくださる数多くの存在が、ご先祖様が、どんな思いで、日々、私達を導いてくださっているか・・・考えてみてください。
 
この大峠を超える転換期のステージに私達を立たせるに至るまでの、陰のご苦労は、並大抵のことではないはずです。
 
その多大なご恩に報いるためにも、私達は自分自身を粗末に扱ってはならないし、卑下する必要もないのです。
 
いま、ここで決意し堂々と宣言してください。
 
私は自らの使命を全うし、弥勒菩薩(または観音)という称号を得る」と!!
 
声を出してもいいですし、心の中で大音量で宣言しても構いません。
 
え?「そんな、だいそれたことは恥ずかしくて言えない」って?
それはつまり、「自分は使命を全うすることはできない」という「敗北宣言」ですか?
それはつまり、「自分の使命を放棄する」ということですか?
 
よくよく考えて下さい。
 
「願い」ではなく、「決意」こそが、自分を高みに引き上げる原動力になります。
「願い」ではダメです。いくら強く願っても、それはいつまで経っても「願い」のままです。
 
「決意」です。「決意」こそが大事なのです。
「決意」することで、自分の中で何かが動き始めます。周囲(背後)のサポートも動き始めます。
 
イメージしてください。
 
あなたは今、サッカーの日本代表としてワールドカップのピッチに立っており、既に試合開始のホイッスルは鳴っています。あなたは途中出場でゲームに参加したのです。
 
あなたの周囲のプレイヤー達は、誰しも日本代表という重責を担いながらも、しかしそれを誇りに感じて自らのチカラとし、使命を全うすべく、ピッチの中を縦横無尽に走り回っています。
 
大観衆が見守る中、あなた個人のサポーターも数多く応援に駆けつけ、あなたの活躍に期待しています。
彼等彼女等は、「日の丸のユニフォーム」を着てピッチに立っているあなたの晴れ姿を、どれほど喜び、誇りに思っているでしょう。
そして人によっては涙を流し、手を合わせて拝むほどの真剣さで見守っています。
 
 
「頼むぞ・・・!!」と。
 
 
ボンヤリしているのは、あなた(私)だけです。
自分の使命を、役割を、理解していないのは、あなた(私)だけです。
 
あなたは、あなたの家系の代表として、地域の代表として、地球の雛型を担うヒノモトの民として、いまの時節、この地球に生まれてきています。
 
いや、自らの意思と決意により、身魂改めを経て「生まれさせてもらった」という方が正確かも知れません。
 
そんなあなたが、いまさら「いや、自分なんか・・・」などと言うのが、どういうことか。
 
もうゲームは始まっています。
 
後半戦も終わりに近づき、もうそろそろロスタイムに入ろうかという頃合でしょうか。
 
もはや降りる訳には行きません。
やるしかないのです。
 
決して自分一人で重責を担っている訳ではありません。
 
力の差はあれど、それぞれが背負える程度の重荷を背負っています。
 
そのことを決して忘れないでください。
 
弥勒菩薩像