お見舞い申し上げます | 二条マスターの料理と音楽と仲間(5)

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とんかつ二条マスターのちょっとためになる話

新年が明けたと思いきや、波乱のスタートとなりましたね。


私も子供の頃、海のすぐ側だった自宅が高潮に飲み込まれ水没した経験があります。しかも2回ですよ。


その時は自宅に帰れず2日間学校で寝泊まりしましたけど、恐怖心と寒さでガタガタと身体の震えが止まらなかった記憶があります。


子供でしたのでよくわかりませんでしたが、親をはじめあの時の大人達は諦めずに頑張って、よく街を復興させたな〜って思いますね。


さあそんなわけで、今回は復興の例として、3度の壊滅状態から諦めずに復興させた東京の歴史を手短に書いてみますので、よかったら見てくださいね!


まず最初は1657年の明暦の大火ですね。

4代将軍 家綱の時です。

江戸の街の大部分を焼失したわけですが、この火は江戸城も飲み込みました。

本丸は全焼し、建て直しも検討されましたが、幼い将軍を補佐する保科正之の英断により城の建設よりも復興に苦しむ城下に予算を回そうということになりました。


現在皇居の中にある石垣は、そのとき加賀百万石の前田家が組み上げ直したものですが、いま言った保科正之の命により建設中止になったため、そのままの形で残ったものです。機会があれば一度訪れてみてはいかがでしょうか。

この火災にまつわる凄い言い伝えもあるんですが、それはまたの機会に。


これはあまり関係ありませんが、先日訪れた仙台城の石垣です。




さあその次は100年前の関東大震災ですね。

下町は壊滅状態となりました。この時の復興は凄まじかったです。

現在の靖国通りとか永代通りとかの大通りはこの時に全て完成したんですよ。

また隅田川より現在の江東区側に避難するにも当時は橋がなく、多くの人が逃げられず焼死したため、隅田川に永代橋とか清洲橋とか沢山の橋が掛けられましたね。

あと避難場所としての隅田公園や浜町公園、錦糸町公園とかはこのとき出来たものですね。

このとき裕福な人は、もう下町は住めないと、こぞって山の手に移住したため、現在でも山の手は裕福なお家がいっぱいとか。


最後は第二次世界大戦ですね。東京は瓦礫の山となりました。

江戸時代、物資の運搬は江戸中に張り巡らした川というか水路を利用したため、この頃までまだその水路が残っていました。が、それらの殆どがその時の瓦礫で埋められ道路が整備されました。ほら、外堀通りとかあるでしょ?あれもその堀の名残ですね。


もっともっと色んな話があるんですが、興味のある方にはもっと語りたいな〜


ということで、今回は東京の復興について超簡単に書いてみました。


とにかく復興は急がなくてはなりません。

それには沢山の人手とお金が必要です。

何らかの形でお手伝いしなくては...


ではまた次回まで。