長いような短いような・・・そんな10年。
あの日を思い出す。当初は昼過ぎに仙台港の夢メッセみやぎで行われるイベントを見る予定だった。前日、妻が有料イベントだから行くの止めない?と言い出し、行くのを取り止めた。もし、行っていたら津波に遭遇し、命を落としたかもしれない。
この日は自宅で仕事をやり、4時に人と会うため、2階で身支度をしていると2時46分、巨大な震災が来た。尋常でない揺れの強さと長さに、ただただ収まるのを祈るしかなかった。地震が収まり、2階の別の部屋を見たらこうなっていた。
急いで1階へ急いで降りると、玄関で顔が真っ青になっていた妻がいた。
声を掛ける間も無く、余震が何度も襲う。家は停電になり、2人でリビングに籠り、ポータブルラジオから流れる大津波警報とのアナウンスに絶句・・・。外は雪が降り出し、家の中が冷え、重ね着をして寒さを凌いだ。食べ物は停電で冷凍になっていない冷蔵庫から冷凍食品を少量取り出して食べた。
連絡手段が断たれ、誰とも連絡が取れなかった。皆の無事を願うが、なかでも公立志津川病院で看護師をしている親戚の安否が心配だった。ラジオからは病院が津波に飲まれたと絶望的な情報に溜息も、数週間後に屋上に逃げてギリギリ助かったと無事が確認出来て、涙が出る程喜んだ。
あくまでも僕の考え方だけど、巷では人との絆を盛んに言っているでしょ?それを実感された方がいらっしゃるので、否定するつもりは無い。だけど、僕は絆と言う言葉が好きじゃない。当時住んでいた地区の町内会は問題だったからねえ・・・。
非常食を配ると班長から知らされ、指定された12時に集会場へ行くと既に配り終えていた。それっておかしくない?つまり、誰かがズルをして2回以上並んで受け取っていた訳だ。僕と妻が受け取ったのは代替のマズいビスケット1枚ずつ・・・僕達以外にも不満顔な人が結構いた。とても不快だったね。
これは、12時と言っているんだから、12時から配るべきでしょ?それか、班長が集会場で受け取って1軒ずつ回って枚数分配ればいい。何のために家族人員を記した名簿を作っているんだか・・・●●●●▲丁目町内会、少しは反省してもらいたいな・・・(怒)。
2ヶ月程経っただろうか。定期的な用事で行っていた岩沼市へ・・・。変わり果てた姿に言葉を失った。
もっと早く行きたかったが、どうも足が重い。沿岸へ行くことに気が引けたからだ。
時間が経っており、津波はとっくに引いていたが、爪痕が生々しかった。改めて恐ろしいと・・・そして、人間って何て無力なのかと思い知らされた。
その後だったかな?自分に出来る事を考え、震災ボランティアに参加した。果たして役に立てたのか分からないけど・・・今も考える時がある(苦笑)。
人間は物事を忘れる生き物だ。幾ら震災を風化させてはダメだと叫んでも、これが本質。だからと言って忘れていい筈は無く、私達は風化させない努力が求められるんじゃないかな?大事なのは・・・
思い続ける
考え続ける
正解が無いテーマだけに難しいけどね~。
その努力の一つがこれ・・・。
普段、縮刷版を作っていない河北新報の努力なんだなと・・・僕も努力の一つとして買った次第。(※買わないのが努力していないという意味ではありません。努力は様々なカタチがあるし、考える、思うのも努力だと僕は思います)
10年・・・被災地にとっては節目でも何でもなく、復興までの通過点。全てを吐き出せてはいないけども、僕のおもいを率直に述べさせて頂きました。
これからも震災と向き合う僕につづく・・・。
※【その2】では、今日の様子をレポートします。