数年振りに映画監督の崔監督と会いました。崔監督は私が25歳の時に角川映画でお世話になった方。荒々しい80年代の表現者たちの宴にいた存在。私にとっては当時は相当大人で近寄りがたい方々の中にいらっしゃる方でした。
私が成長してきた時代は、映画も音楽もそれは娯楽の中心でした。(すでに私が思春期の頃はテレビ中心でしたが角川映画時代は映画にもある種の力がありました...)
それでは一体なにが変わったのでしょう。
崔監督との話の中に、最近の映画は音楽も似たような状況ですが、エッジの効いているものは好まれない方向にあるという話題がでました。
映画も音楽の世界も息苦しい。
そんな話しをタフでまだまだ元気な崔監督と終えて帰宅して、何気なくネットを見ていたら、ある記事が心に飛び込んできました。
余命宣告を受けた大林宣彦監督の言葉。
「映画には、世界を必ず平和に導く美しさと力がある」
記事を読むと。
私も一度、観に行かせて頂いて大変興味のあるショートショート フィルムフェスティバルの アジア 2017 アワードセレモニーの中で、審査員として、平和を守る存在としての映画の価値について、会場に集まった若い制作者たちに語った言葉です。
動画の方が伝わりやすいと思います。
私も最初は記事で読み、その後、動画を見つけました。
大林さんの言葉の重さ、そして臨場感。
約28分にもわたるスピーチの間の会場の雰囲気。
動画の方が伝わります。
是非、ご興味ある方はYouTubeで。
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私が印象的に思ったのは、繋いでいくという言葉。
映画は大嘘。だけど、その中に表現として人間の真実が見え隠れするところが素晴らしい。作られたストーリーに人はほんとうの心を感じる。作り物の世界に対して、時には涙して共感し、感動を覚える。
今の時代は情報が切り売りされる危険な世の中。国と国の危機感も、学園問題も、浮気の問題も、スポーツの勝敗も等価値になってしまう。それは善悪か。是か非かで終わると、つまりは他人事になってしまう。こんな無責任な社会はない。
そこで、映画の役割とは...作り物に共感を得られる世界。そう、映画という力は他人事を我が事に取り戻す力にもなる可能性があるということ。
そして、映画とは風化せぬジャーナリズム。自分自身を確立する手段。映画とは哲学を生むもの。
その世界は続いて行くのであって、自分の世代も受け継いだ世代。
そしてまた次世代に継いでいく、そこに無限の可能性があり、もしかして映画で平和を世界にもたらすことが出来るかもしれない。自分はもう無理だけど、自分も黒澤監督から貰ったバトンを繋いできた、それを若い世代も繋いでいって欲しい。
世界中を平和にするには、少なくともあと400年映画を作り続ける必要があるけれど、映画の力を信じて、未来に向けていつか、黒澤明の400年目の映画を私たちが作るんだって、“オレたち”の続きをやってよね....
....と、続く、このスピーチ。
そして、実際、ノミネートされた作品についても具体的に語っておられました。
「さて日本の作品。これ正直一番甘かったです。切迫感がありませんでした。
世界中の作品がそれぞれの立場において今の世界の、メキシコとの国境問題であるとか、あるいは極めて芸術的でアーティスティックな独裁者が作ったような殺人の映画とか、いろいろヒリヒリとするような時代を描いておりましたけれども、日本は、やっぱりそういう情報で甘やかされた国なんでしょうかね。この日本の作家たちに特に申し上げます。」
そして、より具体的に...
「ひとつだけ私は残念でした。ここにいらっしゃるかな。『人間ていいな』という作品だったかな。あるクラスで、思春期のクラスで、不思議な暗い少年がいます。その少年みんなから疎んじられているんですけどね。友達ができるんです。でその友達が彼の肌に触れるとその肌がポロっと落ちたり、最後に握手しようとすると手がポロっとおちるんです。ここまでの演出力、演技力、映像の表現、見事でした。ここで終わっていれば私は断然グランプリにしました。
ところが残念なのは、この作品、ゾンビは他人で、ゾンビが人間社会に入って幸せになっていきますよ。だから人間はいいなっていうゾンビコントになってしまったんですね。
ここに日本の作家に考えてもらわなきゃならない自分のアイデンティティ、自分はゾンビなのか。ゾンビを映画の素材として面白く描くのが映画か。それでは単なる映画です。
自分がゾンビだと自覚するところから映画は庶民のジャーナリズムになります。
そう、ジャーナリズムとはまさに庶民1人1人が語るもの。民主主義の多数決なんかじゃありません。少人数の意見が尊ばれることこそが、健全な正気の社会です。そういう意味で全世界の少人数のひとりひとりである皆さんが、自分自身の現代のヒリヒリとする感覚、結ばないものをなんとか結びつけて...」
ここから続く言葉は、動画で見て欲しいですが、私には今飛び込んできたこのメッセージすべてが大切なことに思えたんですよね。
長いものには巻かれろ的に作品を創る側にも責任はあるわけで。
実際、予算がなくてもアイディアが生まれる場合もある。息詰まった道の先に突破口はある。閉塞感で息苦しい世界から打破する力は生まれる。
ただ、作品を商品として見て、今の時代は売れないからなぁ....と嘆くだけでは何も生まれない。
制作サイドにも、受け止める側はどうせこんなもんだろうとか、今の時代はこういうものを求めているんだからと相手任せに創る下地があるとしたら、そんなものはデッドエンドです。
時代は止まらない。常に動いているもの。そして時代の感覚なんて、変わっていくようで、そうそう変化しているものでもない。
だからこそ、思うわけです。
いつの時代も明確な道などないのかなぁと...
苦しいから、作品を創る力が出てくるのだと私は思います。
映画としてみると、ヒロイン、ヒーローがいる物語もあれば、人間がたくさん出てくる群像劇もあります。そんな群像劇はいつの時代にもあり、それはひとつの社会の縮図です。そんなストーリーはいつの時代でも、変わらない。普遍的なものです。
だって、いつの時代も人間は愚かで、迷いやすいもの。力や権力が大好きで、出来れば力が欲しいと思う欲望はなくならない。
でも、その流れに抗う力もまたいつの時代もあるのだと。
いずれが正義なのかわからないけど、自分が信じる正気と思う気持ちと、信念は、岩をも通す。
ここにあげたスピーチは、まさに、余命宣告をされた大林監督の経験をたくさん積んだ心から絞り出されたスピーチです。今こそ、後世に残さなければ、繋いで行かなくてはと思う信念と確信の力が、今の彼には満ちあふれるほどあるのです。
黒澤監督が若き日の大林監督に伝えた、自分は力尽きても、この思いは先へ先へと続く、それは、大林監督に、今、そのことに君が気づけば、君には君しか創り上げる事の出来ない作品が、映画が出来るであろうと伝えたかったのかなとも思いました。それが400年漲るパワーとして重なって続いていけば映画は凄いことになります。
さあ...考えます。
何度でも考えます。
映画ってなんだろう。
音楽ってなんだろう。
単なる娯楽なのか。
いや、それだけではないに違いない。
それは確信します。
きっと世界を平和に出来る可能性を持っているものなのだ。とも思います。ただ、それを繋げていくことが出来るか出来ないか、それは個々の心にあるものなのでしょう。
表現力、想像力は決して絶やしてはならないし、自由であるべきもの。
国々が掲げる正義や団結心は時代を振り返ってみても、驚くほど脆くて移ろいやすいもの。そして人間はそんな歴史の中でいつの時代も愚かなものです。
その愚かさを描きながらも、絶対に忘れてはならない人間らしさ、幸福感、生きることを作品にして残し、伝え、繋げていくことが出来る作業が映画なのだと、力を振り絞っておっしゃっている姿に感動致しました。
同じ作品を創るものとして、singin'という歌詞が自分から生まれて来たときのことを思い出します。
音楽も同じだなと。
忘れてはいけないこと。
それを持って、自分が出来る表現、創造を、地道に繋げていくしかないです。
表現、創造するものは、伝える相手側のせいにして決して逃げてはいけない。自分の中に確かに伝えられるのだと思うことを、自信を持って渾身の力で創り上げて、そして伝えていかなければならない。そうしなければ、その先にいる受け手側に情熱は伝わらないし、最初から壁にぶつかって簡単に粉砕されるような気持ちでは、人の心になんて訴えられないのだ。
8月が終わるとき、良い思いが心の中を巡りました。
さぁ、もっと力を携えて進もう!
表現力、想像力は、繋げて、重ねて、続いていくもの....
自分もその歴史の中の一部なのだから...
なんだか勇気がわきます。
お天気は台風の影響で悪いけど、
明日から9月だね(^_-)-☆
心は秋晴れ気分でいきましょー。