24時間の強行スケジュール
気仙沼に行って来ました。

12月2日午後11時集合出発。

メンバーは娘の中学校の有志の方たち。
うちを入れて家族4家族と
気仙沼にお知り合いがいるという
地域のお知り合いの2名の女性。
こどもたちを入れて11人。

ドライバーは我がTEAM PERSONZのサエさん。
これもまた我がツアーで使っているコースター。
器材は下ろしましたけどね。

かれこれ真夜中走り続けて...



朝7時には気仙沼に到着。
そのままお約束していたボランティアの方がいる
気仙沼の魚市場を目指して走ります。

なにせ初めて被災地に行った私。
どこから被災地の光景になるのか、
かなりナーバスに考えていたんですが...
東北道の一関を降りて国道を行き、
山を越える間、外を見ていた感じでは
途中の街の家々にはあまり被害は感じられませんでした。

だけど、その後、気仙沼の街に入って
いよいよ景色が変わるかと思いきや
まだそこが高台で気仙沼の駅周辺や
市役所、郵便局のある街並みは一見極普通の街。

あとで聞いたらそこにも津波は到達していたそうな。

でも、魚市場に向かうため海岸に向かって下って行くと
かなりダメージを受けた街が見えて来ました。







車内は息を呑む感じ。
こどもたちはわぁーすごっ!と叫んだり。
大人はここに来るのには覚悟してたけど
やっぱり間近で見るとやっぱりすごいなとじっくり見ている感じ。

そして魚市場に到着。





市場もかなり被害を受けています。



外側の建物はあるけど
中はなにもない。

壁が崩れ落ちそうな市場の一角。




下の写真のように魚市場の周辺の風景も急に
街のところどころで建物がなくなっているという感じ。



下は市場の屋上。
被災当日、魚市場の方は
この屋上に逃げて助かったということです。

真正面には気仙沼大島。
あまりに近いので驚きました。



そして、この魚市場でボランティアで案内をしてくれる
武山さんにお会いしました。



武山さんは通常、この魚市場で観光的に見学案内を
されている方なのでしょう。
まずは到着後、武山さんの指示通り
こちらについてきてくださーい!と
市場を視察したのですが....

あれ?

すぐに被災地の状況を聞けると思っていた一同。

武山さんが入念に市場の説明をして
船やまぐろやカツオなどの種類の話しをされた時
これって普通の市場見学なの?と(^0^;)

その合間にも武山さんは市場で受けた被災状況も
チラホラとは話してくれたんですけど、
やっぱりなんだか内容が...(^0^;)(^0^;)
かなり市場や漁場や作業の在り方について話されるので...

まだ全然、着いてから街をみていないし、
なにがなんだかわからないと思いつつ、またご指示通り会議室へ。

そこにはパネルに資料が貼り出され
魚の種類、そして漁の種類について30分くらい
再度話される中....

これは、これは...と思いまして...

こちらとしては今回の大きな災害によって
起きた被災の状況や街をこどもたちにも見せたくて
来たんですが...と言いますと、武山さん...

はい、それではここからは
個人的な話になりますが...と...

一気に気仙沼で被災した状況を語り始めました。

通常は観光のため市場のことを話されるので
きっとそのマニュアル通りの進行だったと思います。

思い切って被災の時の話ししてくださいとお願いしたら
武山さん、たくさん話して下さいました。

被災当日はこの魚市場にいたこと。
急な揺れでなにが起きたのかわからないくらい
パニックになったこと。つかまっていないと倒れそうだったこと。
その後、津波がやって来たときのこと。
海に重油が流れ火がつきだしたときのこと。

たくさんたくさん語って頂きました。

この武山さん、とにかく性格が明るいんです。
被災した時の話しをされても
そりゃーびっくりしたもんなぁ~と...
話して下さるので
聞いていて微笑ましい。そんな感じでした(^_^)

お話を聞いて
そろそろ外へという頃...
とにかく気仙沼は朝から雨で悪天候。
雨は止みそうもないし...小降りになる気配もない。

ほんとうはいろいろ街を歩き回りたかったけど
日帰りだし時間制限もあるので
武山さんのあふれるほどの話を一度中断し頂いて
車で外に出てみようとコースターに武山さんも同乗して頂いて
気仙沼の被害が大きかった海岸の方へ出発。

岩井崎という方へ。

車中でもいろいろ武山さんからお話をお聞きしましたが
気仙沼市内も今は普通に見えている場所も
被災当時はすごかったということ。

道が道として機能せず移動もままならなかったそうです。
通りかかる街を見ながらここは津波が来て
ここは瓦礫がすごかったとの説明を受けました。

気仙沼湾を左手に岩井崎に向かう間。

やはり土台だけ残ってなにもない一角があったり
家は建っているけど中はなにもかも流されという
光景を見て、ようやくリアルに津波の被害の大きさを感じました。

気仙沼に実際行ってわかったことですが
起伏が激しい土地構造で海岸に面して低い土地があって
そのすぐ後ろには小高い山や丘がある街なのですね。

この岩井崎に向かう時も
ここまで津波が来ましたという
被害の大きなところと
ここは水が来なかったとこですと
言われる武井さんの話しを聞くと
土地の起伏ですぐ隣の場所だけど
何も被害のないところと
崩れて根こそぎ何もないところとがあり
かなり被害状況がちがうことを知りました。



下の写真をみてもわかりますか?

なにもなくなってしまった下の土地と
すぐ後ろの右手の小高い場所に建つ家。

この立地が運命を分けたとも言えるのでしょう。
左のベージュのおうちは一見家はあるけれど
中はなにもかも流されていました。







道の脇には車などのスクラップが
積み上げられているところもあり
その数に驚きます。







そしてだんだん海岸が見えて来ました。




道はなだらかに下ります。
よくある日本の風景です。
海岸まで続くような道です。

この左右にもたくさんの家が建っていたはずです。
下って行くとその先は海岸が広がる光景です。



この周辺は被災当時は冷凍工場から流れてきた
魚が散乱し、腐敗臭を放ち大変だったそうです。

今は見渡せるからわかるけど
この土地の周辺は地形的に海岸に向かって広がる平地です。

津波が壁のように押し寄せたと武山さんが言っていました。
根こそぎ波がすべてを流していくことが出来る地形です。

武井さんの言葉で一番印象に残ったのがこの向洋高校。
この高校は4階まで津波が到達したそうです。



雨で見にくいですが...

武山さん、お年は70才くらいでしょうか。

その語られた印象深い言葉は...

昔は高台にしか学校はなかったそうです。
その時には津波の教訓があったと。


気仙沼には今まで何度も何度も津波が来ていて
その度に流された歴史があり
この高校のあたりも以前にも津波で流された歴史があるけれど
長い年月を経てそのことを忘れてしまったか...
その後、ここに高校を建ててしまったということ。

たぶん低い平地に学校などが建ったのは
利便性からだと思いますが...

避難場所にもなるし津波がきたときの記憶があった時期には
高台に大切な建物は建てていたんだということですね。

守らなければならないところは
高台に建っていた。

だけどいつの頃からか
平地に学校が出来てしまったと
この高校のあたりはまさにそんな環境だったそうです。

荒れ果てた光景、そして建物がなくなってしまったゆえに
土地の在り方が見渡せる地形を見ながらの
武山さんのリアルなお話...

とても納得しました。

そして岩井崎に到着。

ここは普通なら絶景ポイントなんでしょう。
だけど天候も悪いし、後側にはさきほどの荒廃した風景。
正直とても怖かったです。



横からは波しぶきがあがっている中、道なき道を進みます。

ここはテレビでみたこともあります、
岩井崎プロムナードセンター。



以前の様子をWEBで見てみました。

http://www.datena.org/topics/view/126

この下の波しぶきをあげているのが
下のWEBみるところの
プロムナードセンターの前の海です。
消波のブロックも壊れてない状態です。

http://www11.atpages.jp/ruisho/siriyou16g0628.htm



そして、その後、気仙沼に戻り
お昼御飯を気仙沼プラザホテルにてという予定通り
ホテルに到着。

ホテルの支配人さんからお話を聞けるというので
ご飯前に被災当日の津波がやってくるDVDを見ながら
体験談を聞きました。

このDVDも今、見てきた街並みなので
とてもリアルに感じました。
あ、あそこの街角だ!という感じで。

そして堺さん曰く津波が1階部分をのみ込むのは1分。
その後3分でビルの数階分を飲み込んだとDVDを見ながら
説明して下さいました。
ほんとうにそのスピードに驚きました。



堺さんの説明はとてもわかりやすいし
そして、とても気持ちのこもった状況説明でした。

当日は、ご自分が気仙沼ではなく
気仙沼大島の実家にいたこと。

そして子どもさんは一緒にいたけれど
奥様は気仙沼にいたこと。
再会出来たときの嬉しさ。

大島での復旧作業。

島ながらの問題。水の確保。
気仙沼から海底に引いていた水のパイプが壊れて
まったく水がなかったそうです。

アメリカ軍が来て「ともだち作戦」で
復旧の作業を手伝って貰ったときの感謝の気持ち。

被災後の復興への道。
ホテルとしての営業の再開。

もしこのブログを読んで気仙沼に行こうと思うけど
知り合いもいないし、どうしたらいいかしらと思っている方は
このプラザホテルの支配人さんのお話を聞くという
プランを利用するのもいいことですよね。

私たちは日帰りなのでお昼御飯を頂き
お話を聞きましたが
宿泊をすることもいいことですよね。

復興のお手伝いにもなりますし、
これはなにかアクションを起こしたいと
思っている方の最初の一歩としては
いいきっかけになると感じました。

気になる方は直接ホテルにお尋ね下さいね!
支配人の堺さんと共に。



そしてホテルでの昼食後、外に出ると
雨脚はより一層ひどくなり
食後は街を歩こうという計画も
どしゃぶりの状態では無理ということで
最後に陸前高田に向けて走ってから
東京に戻ろうということになり
20分くらいかけて陸前高田に。

結果的にこの陸前高田で見た光景が
一番ショックでした。

まさに街がまるごとなくなっていたからです。

気仙沼の海岸線も同様に
そこに街があったことが嘘のように
荒廃した土地があるだけでした。

道なき道。
重機で作業をしている作業員のかたのみ
ポツンポツンとおわれるだけで
ところどころに壊れた大きなビルの残骸があり
あとは瓦礫の山。







ここはマイヤというショッピングセンター。
緑のマークがあったのでわかりました。
その横には100円ショップの看板もひしゃげて転がっていました。
あとはなにもありません。

これが被災前のマイヤのビル。



そして被災した市役所。





市役所の前には祭壇がありお花が手向けてありました。
お祈りに来ていらっしゃる方もいました。

この市役所の被災前。



この陸前高田で道なき道を行くとき
どっちに進むのかわからくなり方向に迷いました。

その時、iPhoneを使って
GPSで現在地を見てみました。

ショックですが...

出てくる地図には確かにそこにあった街が浮かんでいます。

もちろんGoogleのマップでもそうですが
今でも当時の街を示しているのです。

地図上で見れば、今、居る場所には
交差点があり酒屋さんがあり
病院がありヘアーサロンがあり
たくさんの人が住んでいる街の光景がありました。

だけど地図から目をあげて
現実の世界を見渡すと
そこにはまるで変わり果てた光景しかないのです。

私は歌詞を書くので
よく「瓦礫」とか「世界の果て」「荒れ果てた世界」...
そんな言葉を使ってきましたが
現実にそんな光景をこの目で初めて見ました。

私は陸前高田の被災以前の街並みを知りません。
東京に戻る車の中で気になってWEBで調べました。

陸前高田に住んでいらっしゃる方が
サイトに写真をあげておられました。

それが上の対比した写真です。
もっと街の様子がわかる写真もありました。

http://tamagazou.machinami.net/rikuzentakatashigaichi.htm

日本のどこにでもあるような光景。
空は晴れ渡りこじんまりした商店街があり
後ろには緑豊かな山、前には広がる海。
のんびりしていてとても良い街です。

前の街を知っている方、もちろん住んでいた方にとっては
これはものすごい無力感。
喪失感があると思います。

つらいと心から思います。

あの街の風景が失われた。
一瞬にして。
大切な命も失われた。
一瞬にして。
そして、それは二度と戻ることはないのです。

自然の巨大な力の前に
人間が創り上げた世界は無力です。
一瞬でずたずたに粉々に壊されてしまう。

目をそらしたくなる風景です。
事実として認めたくない気持ちもあると思います。

この陸前高田での時間帯はすでに2時半を過ぎていて
東京には3時には戻る予定としていたので
南三陸町周辺も行きたかったんですが時間がなくなりました。

この頃には雨の降りがとてもひどくなって
車から降り立つこともできませんでしたが
私はなによりもこの街で感じた
恐怖がものすごく残っています。

日々、日常的にビルや建物に囲まれて
そこに建物がある街が普通な世界を思えば
辺りにはなにもない、なにもかも崩れ果てた街の残像は恐怖です。

この街を見ての絶望は
かなり大きかったけど
反面パンドラの箱のように「希望」も少しだけ残っていました。

道の方向がわからなくなって
作業しているお二人の方に道を尋ねました。

彼らは作業の手を止めて
今の仮の市役所の場所の方向を教えてくれました。

その対応があたたかくて...

ここは一本道を間違えると
全然わからなくなるからねぇ....
気をつけてくださいよと
丁寧に丁寧に教えて下さいました。

彼らは朝から晩まで
ここで作業を黙々と続けているのです。

この街の荒れ果てた風景の中で
少しずつ少しずつ瓦礫を重機で拾いながら片付けている。

大変な規模の復興です。
でも確実に日々、力を出して復興への道を進んでいるんです。

悪い状況は果てしない。
まだまだ不足していることも
伝わっていないこともたくさんあるでしょう。

だけどまずはこの小さな力から
少しずつ荒れ果てた街が変わっていくんです。

そして、その後方向がわかって
陸前高田をあとにして
東北道に抜ける道を行くとき
もうひとつの希望を見ました。

あの荒廃した風景の中で壊れて転がっていた
マイヤと100円ショップが
仮設的に店を開いていたのを発見ました。

プレハブとテントで出来た簡易的なショップです。
でもね、そこにパワーを感じましたよ。
復活するパワー

その街道を走っていたら
他にもオートバックスが横がパコって開く
バスを横付けにして営業をしているところや
お弁当屋さんがやはり移動車両の店舗で営業していたり。

再スタートへの道を、そして
立ち上がろうとする力をその風景に感じました。

被災地は復興をしようと必死です。

私は今回のその姿を
自分の目でみることが
出来て心からよかったと思っています。

現地の人の声を実際自分の耳で聞くことが
出来て心からよかったと思っています。

中学生の子どもを持つ親が集まり
衝動的に企画した被災地へ行って
実際、見ること、聞くこと、感じることの
ツアーはその人現地の方との出会いという成果に尽きます。
お話を聞けた方、お話はしていないけど
遠くから作業をしている風景の中で見た方。

傷ついても尚、再度立ち上がって力を出そうとする東北人。
そして温厚であたたかい心。

前出のボランティアの武山さんは
最後に岩井崎から魚市場に戻るとき
気仙沼の恋歌をコースターの中で
ハンドスピーカーで熱唱。(^^)

一同、少し驚きましたが
可愛らしい。なんともお茶目な武井さん。
いい方でした。

プラザの堺さんも
その語り口に持って行かれて
人柄の良さがにじみ出ていました。

そして....



荒涼とした大地に頑張って立ち続ける
陸前高田の奇跡の一本松。



この松は瀕死の状態らしいですが
あの荒涼とした風景の中
実際見て、この姿に感動した気持ちがわかりました。

長くなりましたが....

被災地に行って実際目にすることや
聞くこと、そして感じる事は大切ですね。

私は現地を訪れてよく言われる
「テレビで切り取られた風景と違って
 想像以上にすごかった」とは思いません。

行く前からそこにある風景は想像はしていましたし、
その痛みも想像していた。

ただ、どこを境目に他の世界とつながっているのかは
実際行かないとわからないことですね。

ここまでは被害が及んでいない。
ここから先はすべて流された....

そのことは実際行かないとわかりませんでした。

311の被災後すぐに被災地に行かれた方とも状況が違うので、
その当時はもっとすごかったのかもしれませんが、
行く時期は関係なく、やはり心に被災地への思いを
抱えていらっしゃる方は自分が出来る時期に出来る範囲で
協力をしていけばいいと思います。

行政の力が今、被災地にどう働いているのかも
細部はわかりません。

救援物資も必要状況によって違うし
ただやみくもに送ればいいということではないし
行政を通すにも限度があります。

結局、あの義援金は一体どうなったのかとか
最初はなにでどう被災地に協力すれば
いいのかわからないという戸惑いがあったと
昨日も現地で一緒に行った方々と話しましたが
やはり現地で感じる事は大きい。

私たちも最初の一歩で
まだまだこれから協力しなければならない道を
模索していきますが....

確実に現地で商売をなさっている方
そして再度復興しようとしている被災地は
外部から人に訪れて欲しいと願っていると感じました。

私はミュージシャンです。
音楽で協力し助けていきたい。

そしてこの感じた思いを曲して
残し伝えて行かなければと心から思います。

今年最後のシングル
「BEAUTIFUL WORLD」にも
この思いは伝わって行きます。

Twitterを通して24時間情報を流しての旅でしたが
その間、朝昼晩、励ましてツイートを下さった方々
ありがとうございました。

少しでも被災地のことが伝わればと心から思います。

昨夜、戻って来て娘に感想を聞くと...

「うん、すごかった...怖かったね」と言っておりました。

だけど娘、武山さんと触れ合えたことが
とても印象に残ったようです。
それが一番よかったかな。

気仙沼を思うとき、たぶん娘の心にコースターの中で
熱唱しているお茶目な武山さんが浮かぶ...
それが大切ですね。



12月3日午後11時帰京。

24時間の感じ得るものがとても多い旅でした。