記録的な大雪から一週間が経ちますが、札幌中心部の渋滞は朝晩はやっぱりひどいです。ちょっと時間を外すと多少は流れますが、いかんせん、道幅が狭く、さすがに仕事に支障が出てきています。そこへきて、新型コロナウィルスの感染爆発。どうしようもない状態です。

 

そんなことから、月詣りも激減して新年だと思っていたら、もう下旬。一体この一ヶ月は何をしていたのか分からないです。

 

少ないお詣りの中ですが、お詣りの後に、お檀家様と少しお話しをします。コロナウィルスの感染が拡大してきているので、長々とはお話しできませんが、ぼそっと聞かれたことに、(奥さんからのお話)「旦那はあの世にいっているんですよね」と。

 

「あの世」と「この世」、仏教的には「彼岸」(ひがん)と「此岸(しがん)」、真宗的には「お浄土」と「娑婆」とでもいいましょうか。

 

古来、「浄土はあるのか」と多くの高僧は議論をしてきました。法務をしているとき、ゆっくりした話の中では、「……そうですね……、そうあってほしいですね」と話を合わせるのが精一杯です。

 

仏教を説いたお釈迦様は、有名な言葉に、人の死んだ後のことは語らなかったといいます。

 

そして、中国にわたってきた仏教。インドの言葉が「浄土」と翻訳され、素晴らしい世界という意味があった言葉が、「その世界は極めて楽のあるところ」、「極楽」ともいわれるようになります。

 

難しい話ですが、ではその世界が人間界とは隔絶された世界なのか、一体どこにあるのか、といわれるようになり、今では普通に西の世界にある、つまり「西方」にあるといわれ、「西方浄土」として理解されています。

 

先ほどのお檀家様の話に戻りますが、何気ない話の中から

奥様に質問をされて、「西方浄土にいらっしゃいますよ」と、中々言えません。ましてや、ずっと覚悟してその方を看取った後や、一番辛いのはお若い方の突然のご不幸で出遇ったとき、私に安らぎを求めてきます。私は何も返す言葉がありません。

 

かつて、中国の高僧が、西の世界に浄土があるといいました。そして、とくに太陽が真西に沈むとき、いわゆるお彼岸の中日には、懇ろに浄土のことを想いなさいといいました。

それが出典となり、日本(中国では「彼岸」をという行事はありません)で「彼岸」という行事が生まれました。

 

そんなことは「知識」であり、実際には役に立たないときがありました。

 

でも、お檀家様は「浄土はあってほしい」と願っています。私たちには見えない、分からない世界です。しかし、すぐそこに「浄土はあってほしい」と願っています。

 

これを法話であれこれ言っても、私は一時の答えを出しているだけで、本当の意味でその方たちに伝わる「浄土はあるのかないのか」という答えにはなっていないと思っています。

 

では、私自身はどう思っているのか。

人間である以上、知識として浄土の様相を説いたお経は分かっていますし、意味も私なりに”理解”はしていますが、それは頭でっかちであり、「あるかないか」ばかりの一元的な答えを求めるのは、仏教の本意ではないと思っています。

 

答えになっていないですが、”0”か”1”で何でも答えを出せない世界があるということ、これが仏教の難しさであり、素晴らしさだと思っています。

 

僧籍を持つ、持たないを関係なく、一個人として、浄土は「あってほしい」と思っています。