こんにちは、じきです。
私は、一昨々年末に20年程勤めた会社を退職し、現在アラフォーヒモニート生活を送っています。
今回は、私のように能力が低いタイプの人間が、自身の感じる不平・不満に対し、どういう風に対処したらいいのかについて、思うことを書いて行きたいと思います。
不快な方は、いつもどおりブラウザバックお願いします。
「無理のない生き方」という幻想
これまで人生を生きてきて、ある程度は自分の理想通り、過度な無理やストレスなく生きてこれている人って、一体どれほど居るのでしょうかね。
個人的には、誰しもが過度な無理やストレスなく生きていけるわけではなく、各々苦悩等はあろうかと思います。
そして、その苦悩等の大小というのは、生まれながらの環境や能力や容姿等の要素に物凄く左右されると思っています。
さて、そういった自身をとりまく様々な要素の中で、個人的に最も大事な要素なのは、「脳の造り」だと思っています。
脳の造りに関して言えば、「有能」であることが必須なわけではありません。
俗に言う「無能」だとしても、実社会に適した、または生きる上で都合の良い脳の成分を充足して生まれていれば、余裕で人生を楽しめます。
周りへ与える迷惑や負担等を考える脳の回路自体が、極端に少なかったり、元々存在すらしていない…そういう人種。
基本的になんでも人のせいにして自分本位に生きられるのであれば、その本人的に「苦悩」があったとしても、そんなもん実質「楽な人生」と言えると思います。
そういった厚顔無恥タイプの無能はある意味、法治国家において最大限の恩恵を受けられる最強の存在です。
ほんとうに理不尽な話ですね。
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逆に、俗に言う「有能」だとしても、実社会に適した脳の成分が充足していなければ、誰もが羨むような容貌・経歴をもつ芸能人・役者等のお方でも、自ら命を絶つような結末を迎えたりするケースもあります。
同じ行動等を同じタイミングで行ったとしても、得られる結果や感情は、正に人それぞれ千差万別です。
常識や幸せ等の定義なんて、同じ「人間」という種族であるという雑なくくり方で統一出来る程に単純なものではないと思います。
だからこそ、万人が、それらの定義に共有・共感するというのは、それなりにハードルが高いことなのだろうと感じています。
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知らない誰かが唱えた常識等を、ナチュラルに押し付けられる経験って、多分誰しも1度は経験するのではないでしょうか。
例えば、学校に居ても職場に居ても、よく日々の困難等に対して、様々な偉人の聞こえの良い言葉を引用したがる人って居ますよね。
でも、それらの引用した言葉に対しての私の感想としては、相容れないという印象を抱くことがほとんどでした。
人それぞれ、自分自身を取り巻く環境や能力等が大きく違うし、何より、前述のとおり人によっては脳の造りが根本的に大きく違っていると思っているので、それらの偉人の格言的な言葉について共感や納得等を出来ることはほぼ皆無だったりします。
そんな中で唯一共感等出来る言葉があるとしたら
「昨日の自分と同じ行動をしていて、今日違う結果が出ることに期待をするな」
という言葉くらいです。
他者との比較などまるで意味を成しませんが、比較対象が自分自身となれば話は違います。
私自身もそうなのですが、口先だけのタイプの無能ほど、昨日までの自分と同じような行動を、次の日もまた次の日も延々と繰り返すくせに、口を開けば毎日定型文のような不平不満を言っていたりします。
↓ 参考過去記事(他にも多数記事があります) ↓
「何か良いことないかな」とか「ついてない」とか「何も良いことがない」等と、さもこの世の不幸を全て一身に背負ったかのような悲壮感等を漂わせがちなのです。
もちろん、その悲壮感等は、他でもない自分自身の普段の言動等が原因になって招いた良くない結果等により生じた感情の場合が多いです。
悲壮感を感じてしまう感覚はよくわかります。
他人のように恵まれていないように感じる、自身の容姿や境遇や体調等の不遇…それらがもたらす恨みもつらみも嫉み等のありとあらゆる負の感情・悲壮感等…わかりすぎる程にわかります。
しかし、その悲壮感等について思考回路を巡らせる時間があまりにも不毛であることもまた、よく理解しています。
勿論、先述した厚顔無恥タイプの無能であれば、オール他責を地でいくため、不毛となど微塵も思わないことでしょう。
しかし、それなりに感受性があり、それなりに実社会で馴染みたいと感じるけれど根本的に各種能力値が低い無能である場合、私と同じような感覚でお過ごしの方も一定数いらっしゃるのではないかなと思います。
言葉を超良く言えば真面目、悪く言えば見栄っ張り・自意識過剰・自己愛強すぎ等…そういった類い性格の、私タイプの無能。
おまけに親族等からの経済的・社会的な後ろ盾等も希薄で、自身の能力も低いという、境遇等も不遇な無能。
そういった、私のような性質・環境等を抱えた無能は、もう、結局一択なのだと思っています。
無能として生まれてしまい、且つ自身の境遇等に不平不満が募っている場合…
本当に嫌ですが、四の五の言わず、無理してでも自身の境遇等を改善するために、自分自身で、日々行動をおこし続けるしかないのです。
私自身、自分を省みて、痛い程にそう感じます。
昨今度々聞く無理のない生き方など、能力・境遇等が不遇な無能には幻想なのです。
むしろ、無能ほど無理をする必要があります。
無論、私のようなタイプの人間は、なにせ根本的な各種能力が低いがゆえに、他人から見ればちょっとした行動だとしても、本人的には無理をしている部類の行動に当てはまったりします。それも痛い程わかります。
極端な話、朝起きて定時に間に合うように出社するだけでも、無理をするというカテゴリの話だと思っております。
他人と比べる必要はありませんが、自分なりに「意識的により沢山の無理をする」という選択肢は、常に持っておく必要があろうかと思います。
当然、無理をしなくたっていい
職場や学校等の、親兄弟以外の人間というのは、文字通りただの他人です。
他人は、私が頑張ろうが頑張るまいが、不登校になろうが休職しようが退職しようが死のうが、そんなものは実質どうでもいいわけです。
そのため、私が頑張って無理をしてみたとしても、それを必ずしも評価してくれるわけではありません。
むしろ、私のようなタイプの人間の「精一杯の無理」は、そのくらいやって当然でしょ!くらいに済まされるケースがほとんどです。
そのため当然、無理をしないという選択肢をとったって悪いわけではないです。
無理しなくても、日本という国は、ただ生きていくだけでいいのならばそれを補助する制度が存在はするし、恥も外聞も捨てればいくらでも自堕落な生活は可能です。
ただ、現状に強い不平不満を感じている場合ならば、どうでしょうか。
その場合、やはり何かの行動にうつさない限り、他でもない自分自身が抱いている不平不満が解消する可能性というのは、残念ながら限りなく0に近づいて行ってしまいます。
自分自身が不平不満に感じていることを、他人が勝手に解決してくれるなんていう甘っちょろいことは、宝くじの1等当選を待つこと並みに分の悪い賭けです。
前提として、人間という生き物に、多くを期待してはいけません。
世の中にある様々なサービスや救済措置は、当然のことながら、巡りめぐれば私のためではなく、サービス等を施した側の人間の生活のためにやっている行動です。
言い方を変えれば、綺麗に見える私利私欲です。
ただ、それ自体はしょうがないことです。
自分自身が他人より自分を大切にしているのと同じで、当然のことながら他人も自分自身の生活等のことが一番大切なのです。
そのことを「そんなことはわかっている」と、口先では言える人は多いと思います。
しかし、条件反射のようにその言葉を発してしまう人ほど、様々な世の中の理に対する自己認識が非常に甘い傾向にあるように感じます。
わかってないからこそ、軽々しく「わかっている」などと言えてしまうのです。
偉そうに言いましたが無論、私が世の中の理を「わかっている」という話ではありません。
なにせ、明確な答えなど誰も持ち合わせておりません。誰しも等しく、わかりようがないものではないでしょうか。
意識なんか高くなくていい
さて、不平不満に対して思うことですが、繰り返しになりますが、自分なりに無理をして、その不平不満を解決するための行動をひとつでも実際に起こしてみることが大事だと思っております。
その際、意識の高い行動なんかする必要はありません。他人と出来ることを比べる必要もありません。
ただ、当社比ではほんの少し意識して出力を上げて行動をする。
これだけです。
冒頭にも述べましたが、この当社比で頑張ることですら、そもそもの脳の作りが社会生活向けじゃない私みたいな人間にとっては大変なことです。
その頑張りの内容が、「起き上がってトイレに行く事」だったり「ベランダで太陽を浴びること」だったり、およそ一般的な人から見れば頑張るとか頑張らないとかいう次元で語るような内容ではないレベルの行動の場合もあります。
しかし、たとえ他人から見れば低レベルな行動だったとしても、自分自身のその日のコンディション次第では、文字通り頑張らないとこなせなかったりするのです。
ただ、だからといって「なので、出来ません」では、事態は一生改善しないのです。
多くの場合、いくら自分にとっては困難に感じていることを精一杯こなしたのだとしても、他人にはそれらの行動が一切響きません。
この、自分はこんなにも頑張っているのに、それが他人に全く伝わらないという状況こそが、世の中に対し不平不満を抱く大きい要因の一つだと思っております。
わかります。
無能側の人間として、狂おしい程に、その気持ちはわかるんです。
ですが、そうだとしても…
繰り返しになりますが、私のように、残念な能力・環境等で生まれ、且つ世の中や他人等に不平・不満・理不尽等を感じている「脳の造り」すら良くないタイプの人間は、嫌でも無理しなきゃならないのです。
もう…残念ながら、半分、強制と言ってもいいかもしれません。
そもそも、先述のとおり「無理をする」のレベル感は人それぞれです。
私のような、「無理をする」のレベル感そのものが、実社会から見たら圧倒的に低いタイプの人間は、自分なりでいいので、無理に無理を重ね続けてみることでしか、自分自身の不平・不満等解消の道は開けない可能性が高いです。
それをせずに、昨日の自分と同じ行動を取り続けて、今日違う結果が出ることを期待しているのであれば、それは限りなく無駄な行為です。
生まれてから死ぬまで、同じような不平不満をぴーちくぱーちく言い続け、死の際においても尚、恨みつらみ悲哀等に感情を大きく支配されたまま、人生の幕引きをする可能性が、限りなく高くなることでしょう。
勿論、誰もが好き好んで不平不満等の負の感情を抱いているわけではないのは承知しております。
ただやはり、そんな負の感情を抱き続けることに、人生の大多数の時間を割いていても、単純に人生がつまらないですよね。
「マイナス思考のトレーニング」は今すぐやめよう
トレーニングというと、何を思い浮かべるでしょうか。
代表的なものは筋トレですかね。
筋トレならば、継続することによって筋肉がよりつきやすくなったり、筋力が落ちてもリカバリが早くなったり、脳内ホルモンの充足によりメンタル的も安定します。
筋トレを継続するという行動に心身が順応し、自分自身により強いプラスの効果をもたらしていくわけです。
それと同じく、不平不満等のマイナス思考を継続してしまうということも、ある種のトレーニングになってしまっているのです。
毎日のように同じような不平不満等のマイナス思考ばかりすることにより、マイナス思考をするための脳の回路が鍛えられてしまいます。
マイナス思考を反復・継続するという行動に脳の回路が開拓されてしまい、自分自身により強いマイナスの効果をもたらしてしまいます。
より早く悲観的な負の感情に辿りつき、より強く劣等感・悲壮感並びに不平不満等を感じるようになっていくのです。
マイナス思考をするための脳の回路を、わざわざ毎日鍛えてしまっているようなものですからね。
勿論、それを好きでやっているわけではないというのは百も承知です。
ですが、私はやはり、そんな風に、自分自身を苦しめるための行動に対してトレーニングを継続するのは、馬鹿馬鹿しいことだと感じます。
不平・不満が常に爆発している人は、意識して、自分自身の行動パターンに変化を起こしてみることを推奨します。
ごくごく小さなことで構いません。つまらないことでも、簡単なことでも構いません。
やる前から「無理を拒む」のではなく、自分の出来る範囲のことでいいので、あえて無理しましょう。
その積み重ねが、他でもない自分自身に革命を起こすきっかけとなるかもしれません。
不平不満等を募らせても抗議しても、他人は自分を救ってくれませんし、神もほぼ間違いなく居ませんので、同じく救ってくれません。
自分の誇りや自尊心やプライド等…そういった自分自身の中核となる大事なものを真の意味で救えるのは、己の行動等の積み重ねによる自信や経験だけなのです。
他人等に自身の不平等を訴えるだけではなく、たとえ訴えるのだとしても、同時進行で自分なりに行動は起こしましょう。
そういった、他人等に対してある種の「自分への愛」を求めるからには、それなりに自分自身も頑張る必要があります。
親族を含め、他人に愛を求めるだけの人ほど、より他人から愛されなくなります。
他人の役に立つ、自分なりにある程度の見返りを提供する等、結局は、愛をきちんと行動に移して返す人ほど、他人から愛されます。
他人等に、自分に対しての理解を求めるのならば、自分自身がまず他者に価値を提供しましょう。
面倒くさくても、多分それが不平不満解消への近道だと思います。
さて、くだらないことでも構いません。今から、何かを変えてみましょう。
自分本位が度を過ぎれば身を滅ぼします。
自分だけを過保護にしつつ、不平も不満もなく生きていけるほど、人間は甲斐甲斐しい生き物ではないのです。
基本的には、人生ギブ&テイクです。
ちょっと悲しくなってしまうくらい、打算的なことで現実は成り立っています。
建前ではいくら人類平等などを掲げていようとも、やはり他人に何らかの価値を提供出来ない限り、結果的には自分自身の人権・尊厳等を守ることが難しくなるのです。
私自身も、多少でも変化をつけた行動をこれからも心掛けていければと思います。
それが、たとえ他人から見たら下らないことと言われても、私にとっては何も関係ありません。
なにか行動に移してみた結果、数ある不平不満のうちのひとつでも自分なりのケリがついたときに見上げた空は、中々に高く感じられることでしょう。
