先の戦争で日本が負け朝鮮が解放されたとき

(1945年)私は小学4年生でした。

 

4.24阪神教育闘争は

1948年4月の事件であり

当時 山口県下松市で暮らしていましたが

数軒の同胞の家を知ってるぐらいで

各地にあった 

「朝鮮人バラック」と呼ばれた集団長屋の存在は知りませんでした。

 

解放の喜びの中で

親たちは愕然としたでしょう。

昨日まで一生懸命に育てたように”我が子は日本人”に育っていたのですから

 

私も 昨日までと同じように 

日本学校に通い

先生の指示で戦前の教科書の帝国主義的な部分に墨を塗り

小学校から中学校へと進み

通称名があらわす”日本人と同じ道”をひたすら歩いていました。

 

 

 

呉成浩さんのブログを紹介いたします。

長文ですが太字の部分だけでも目を通していただければ幸いです

 

 

 

新幹線「徳山駅」山口県の瀬戸内側の中ほどの有り

戦前は海軍燃料省の施設(戦後出光石油)があり

朝鮮人もまた多く暮らしていたようです。

 

徳山市の東、遠石八幡宮近くにあった

「朝連 徳山朝鮮学校」も阪神同様にMPと警察官によって強制閉鎖され

やむなく一学年ずつ降りて近くの日本学校に編入され

つらい思いをしてきた同世代の少年たちと出会います。

 

適当なおかずの無いとき 

学校への弁当箱に詰められた「洗ったキムチ」の匂いが気にならない

仲間ができ

一年後 唯一学生寮があった

「都立 東京朝鮮中、高等学校」(校長 富田、副校長 林光徹)中学2年に編入します。

 

※  都立でよかったこと

  ・東京朝鮮高校がサッカー全国大会初出場で ベスト4になった事。

 

家の経済的な事情に 学力不足もあって卒業直前に高校を中退しました。

 

 

以来 

在日朝鮮人を隠すことなく5月、 87歳になります。

 

 

 

遅々として筆は進まず

晩御飯を挟んでなお数行しか進みません。

『エバラ プチっと鍋』の元を使いました。

夫婦して大食い 完食です。

 

 

 

 

 

前回 アップしたように

5年ぶりの ソウル旅

ソウルで働いている倅と 娘3人、

家族6人が3泊4日を楽しみました。

 

日本で暮らす中、

今では朝鮮語だけで会話する事はほとんどありませんが

私の30代・50年前は

一世の方々の

”はなしことばは朝鮮語であり 考え言葉もまた朝鮮語”あることから

尊敬の思いを込めて”朝鮮語のみで話そうとする努力の時代”がありました。

 若い一世の方は 日本語に馴染んで

 この事態に困惑しながらも 若者の努力は認め

『日本語も入れながら話そうよ』と言われた事もありましたが

 次第に 「日本語で話しながら固有名詞などを朝鮮語で入れてゆく」

 話し方が普通になったと 個人的な記憶としてあります。

 

 

歳を重ね 多分これが最後の韓国旅と思うといろんな事を思い出します。

 

数回の 韓国一人旅

 韓国で自分の言葉が9割がた通じる喜びと、

 5割も伝わらなかった時の挫折感を繰り返し、

 その繰り返しを楽しもうとする旅でもあったように思います。

 

 

ほぼ 二月前から

子供達が ゴールデンウィーク前の 費用が安くなる時期を狙って

予定を組んでくれました。

空港で 

格安航空の搭乗口までの歩く距離が長いこと以外に

文句の言いようのないスケジュールでした。

 

飛行機はTwayです。

仁川空港行の機内で 私だけが感じた小さな満足の話です。

 

福岡空港から仁川空港までは63分を予定しているとアナウンスがありました。

ほぼ満員の機内、 前から8列目くらいに3人並んで座り

離陸前にトイレを済ましておこうと注目していました。

 

一人出てきた人が後方に行き

わたしが前方に出た時、 もう一人の待ち人に気が付きました。

CAさんの指さす所で待つことになりました。

 

彼女は 私たちが席に着くとき

  「日本人ですか?」と声をかけられ

    「아뇨 재일교포입니다」

  ”いいえ 在日僑胞です”と言葉を交わした人でした。

 

CAさんが一歩近づいて

 「韓国で生まれ言葉も習得して日本に行かれたのですか」と聞かれ

 ”朝鮮に生まれ乳飲み子の時にオモニの背におぶわれて日本に行きました”

 

 「韓国のオロシン(お年寄りに対する敬称)のような

  その話し方はどのようにして身につけられたのでしょうか?」

  ”覚えた言葉は日本語で 後に学んだ言葉が朝鮮語です”

 

 ”中学生の頃 在日の同世代と会い

  彼らが片言の朝鮮語を話す事に驚き、

  朝鮮人だから 片言でも朝鮮語を話せて当たり前と思うようになり

  彼らと共に学ぶところ探してきました” と答えました。 

 

 CAさんは驚いた表情浮かべていました。

 

 順番が来てトイレを済ませて席に戻り 飛行機は離陸しました。

 

 シートベルトを外して間もなく

 CAさんが席の通路際で姿勢を低くして

「時間があればもう少しオロシン(お年寄りに対する敬称)と

 話がしたかった」と言いました。

 

    ハイ!

    CAさんは孫世代の年頃に見え

    昔話ではなく、大昔の話で驚いたのでしょうが

    私にはとても嬉しい出来事でした。

 

    

会話の方は ゆっくりとしゃべってくれないと聞き取れません。

ドラマや映画も出演するお年寄りの会話は耳の届くのに

若者のそれは字幕なしでは無理です。

 

      4月24日中に投稿出来ました。