『DEPARTURES』は、globe の4枚目のシングル。1996年1月発売。

 

 

 

このブログではこれまでglobeの楽曲をいくつも取り上げてきたが、その代表曲である『DEPARTURES』を素通りしてきたのには、単純な理由がある。この曲の解釈は難しい。その一言に尽きる。
 

 

●20年目のミュージック・ビデオ

 

2016年に、globeデビュー20周年を記念して同曲のMVが制作されたが、その映像にも解釈の難しさが反映されている(ように私には見える)。別に揶揄して言っているのではない。

 

 

 

 

MVのストーリーは、ややエキセントリックではあるが、根底にある解釈そのものは、決して奇抜なものではない。MVを撮影した薮内省吾監督は、『DEPARTURES』の世界観を「いつまでもどこまでも続く白い無限の世界であなただけを永遠に想う。という、突き抜けた愛の世界観」としている※。

 

参照:globe MUSIC VIDEO PROJECT

 

以下の議論では、『DEPARTURES』の歌詞の表層にある恋愛ストーリーと、深層にある作者の物語が区別される。後者は、作者・小室哲哉の個人史に関わるものであり、歌詞ではそれとわかる仕方では表立ってこないものである。ここはMVを批評する場ではないので深くは立ち入らないが、MVのストーリーは、歌詞の表層にある多かれ少なかれ抽象的な恋愛ストーリーを具体化したものであり、深層にある作者の物語からは、むろん区別されなければならない。

 

本稿では、主として歌詞の「深層」が議論の対象となる。表層にある恋愛ストーリーは、詳しく解説するとそれだけで分量がかさんでしまうのだが、要点だけ言えば、それは現在進行形の関係ともとれるし、何らかの事情で終了した(MVでは破局した)関係ともとれる、曖昧なものである

いずれとも決定しがたい。というより決定不可能であるが、描かれることになる心情は、同じものである。会いたくて会えない日が続き、あなたへの想いが雪のように心に降り積もっていく。

 

Wikipediaに引用されている小室のコメントによると、『DEPARTURES』の歌詞に登場する男女2人は、「今一緒にいる2人」とも「別れた後思い出している2人」ともとれるようにしたという。(この発言自体に曖昧なところはない。一見すると、「別れた」ということが何を意味するのか、特定できないように見えるが、「今一緒にいる2人」を文字通りの意味にとることはできないので、「別れた」とは「関係が終了した」という意味である。)

 

この歌詞の背景には、いったいどのような物語があるのか。この問いに納得のいく解答を与えようとするとき、私たちは『DEPARTURES』の深層へと突き進んでいくことになる。

 

 

●ファンの間で主流となっている解釈

 

昔から言われていて、現在でも主流となっている解釈は、小室をデビュー前から応援してくれていた、亡くなった従妹への想いを歌詞に綴ったというものである。「晴実ちゃん」という名の従妹との想い出は、1996年に出版された『小室哲哉深層の美意識』という本に詳しく出ている。まず、問題となる歌詞を引用しておこう。

 

  ずっと伏せたままの 写真立ての二人

  笑顔だけは 今も輝いている

  いつの日から細く 長い道が始まる

  出発の日はなぜか 風が強くて

 

『深層の美意識』には、若き日の小室と晴実ちゃんを映した写真が掲載されている。従妹との想い出の回想が、この本の重要な部分をなしているのである。「蘇った思い出の中で、晴実ちゃんはあの日のままの笑顔だった」(p.130)という一文には、『DEPARTURES』の歌詞との明らかな類似が見て取れよう。「95年、小室は約十三年間の沈黙を経て、やっと晴実ちゃんのことを言葉にすることができるようになった」(p.237)。深読みすれば、「ずっと伏せたまま」という歌詞は、小室の「十三年間の沈黙」を暗示していると理解できる。『深層の美意識』という本は、小室へのインタビューを元に、ノンフィクション作家・神山典士が書き下ろしたものである。小室が沈黙を破り、晴実ちゃんのことを言葉にしたのは、その本のインタビューでのことだったが、95年は『DEPARTURES』が制作された年でもある。この符合はおそらく偶然でない。本の取材をきっかけとして、歌詞の構想が生まれたという推測も成り立つ。

 

歌詞に見える「出発(たびだち)」という表現は「死」を暗示するものであり、歌詞から滲み出る悲哀もまた、従妹の死と関連付けて理解される。

 

「DEPARTURES」という曲名の由来については、後年、小室がインタビューで明らかにしており、締め切りに追われる中、ロスの空港で目にしたサインからつけたという。2007年に公開された日本映画『おくりびと』の英語題名が「Departures」であることが、しばしば「DEPARTURES」が「死」を暗示することの証拠として引き合いに出されるが、これは明らかに循環した議論である。departuresという英語を「死」に関連付けるのは、まったくもって一般的ではない。年代から察して、『おくりびと』のほうが『DEPARTURES』(の解釈)を参照していると考えるのが自然だ。

 

※参照:「そうだったんだ!? 小室さん 90年代を駆け抜けた6人の強い女の話」(2017/05/30)

 

 

●ゴシップ誌的飛躍(?)

 

現在主流となっている『DEPARTURES』の解釈の要点は、おおよそ以上のようであるが、気になるのは、小室と従妹との関係がどのようなものだったかということであろう。ネット上で参照できるいくつかの解釈は、彼らが恋仲であったと推定(もしくは断定)しているが、この解釈はやや疑わしい。『深層の美意識』では、小室が従妹と恋人同士であったとは書かれていない。むしろ、小室には当時、別に付き合っていたガールフレンドがいたと書かれている(p.63参照)。本に書かれているのは、晴実ちゃんは小室の夢の実現を切に願ってくれる存在だったということだけだ。従妹と恋人同士だったという想定は、実のところ『DEPARTURES』の歌詞からのフィードバックなのである。歌詞では明らかに恋愛がテーマとなっているのであるから、二人は恋仲であったにちがいないと考えるのは、控えめに言っても、早計だということだ。

 

憶測で物を言ってよいなら、いくらでも奇抜な解釈をでっち上げることができる。例えば、『Can't Stop Fallin' in Love』の歌詞と比較してみよ。私は以前、これを不倫の歌だと解釈した。『DEPARTURES』の歌詞から直接読み取れるのは、「春」、つまり「日差し」への憧れであり、「ずっと伏せたまま」、「日差しを浴びたい」、「待ち合わせもできない」など、表ざたにできない恋の事情をほのめかす表現も散見される。『DEPARTURES』を現在の恋人の歌として首尾一貫して解釈することも可能なのだ。たんに可能なだけでなく、そうすべきであると主張することもできよう。『DEPARTURES』が過去の恋人への永遠の愛の誓いだとすれば、そのような誓いは、現在の恋人との破局をもたらしかねない爆弾のようなものだ。もしあなたが作者なら、そのような危険をあえて冒すだろうか?――私ならしない。

 

「前髪が伸びたね 同じくらいになった 左利きも慣れたし 風邪も治った」という印象的な歌詞も、作者の現在の恋人(95年当時で言えば、華原朋美)のことを書いたものかもしれない。それは幾分ありそうな話ではある。しかし、もっとありそうなのは、これは架空の物語だということだ。私の意見では、以上のような解釈は、作者の「現実」から適切に距離をとることに失敗している。

 

 

●作者の個人史から見た『DEPARTURES』

 

以上の議論を踏まえた上で、より穏健な仮定から出発するならば、『DEPARTURES』の恋愛のストーリーは、作者の現実から派生したフィクションであるとみなすべきである。私がいまゴシップ誌めいた話題に固執しているのは、小室の作詞の意図を特定しようとしているからであるが、小室が従妹と恋仲であったかどうかは、実のところたいして重要なことではない。それよりはるかに重要なのは、小室にとって従妹との想い出は、彼のバンド活動にまつわる個人史の重要な一部であったということだ。

 

『深層の美意識』によれば、従妹は、小室にとって、彼の夢の実現を信じてくれていた、数少ない人間の一人であった。いや、真実には、従妹だけが、彼の「夢物語」を、いつかは実現されるであろう「現実」として捉えていたのである(pp.60-64参照)。従妹という存在がなければ、小室のミュージシャンとしての成功は、もしかしたらなかったかもしれない。大変な苦労を経て、彼がミュージシャンとして成功したとき、誰よりも彼の夢の実現を喜んでくれたであろう人は、もう彼の手の届かないところにいた。どれほど成功を積み上げても、実現できない望みがここにある。従妹との想い出は、ミュージシャンとしての小室の個人史において重要な、「影」であり「光」の部分なのである。

 

小室は従妹に対して感謝の念を絶えず抱き続けていた。晴実ちゃんの名前をスペシャル・サンクスとしてクレジットすることを何度も考えていたのである(p.130, 136, 238参照)。結局は幻に終わったのであるが、それは彼がそのつど、『自分たちが思い描いていた夢は、もっと大きい夢だったはずだ』と思い直したからだと、本には書かれている。だが、その後、彼はこっそりと、ある意味ではクレジットよりも直接的な仕方で、天国にいる従妹に自分の思いを伝えていたかもしれない。それが『DEPARTURES』であったというのが私の読みなのであるが、そこで彼が一番伝えたかったのは、従妹への感謝の想いだったであろう。

 

作詞の動機として恋愛感情が第一義的なものではないという点に私がこだわっているのは、このような事情を踏まえた上でのことなのである。

 

 

●流行歌としての『DEPARTURES』

 

むろん私が言いたいのは、『DEPARTURES』を恋愛の曲として聴くことがまちがいだということではない。恋愛のストーリーは派生的であり、その意味では二次的ではあるが、ある意味でそれは歌詞のすべてでもある。なぜなら、歌詞の元になった小室の個人史的局面は、出来上がった歌詞では、もはや『深層の美意識』の記述を手掛かりとしなければアクセスできないような領域に、隠蔽されているからである。一部の熱心なファンか、あるいは好事家的興味の持ち主のみが、それを発掘できよう。大部分のリスナーにとっては、それは歌詞の「深層」に留まったまま、日の目を見ることはない。しかし、このことは作者も想定済みのことなのである。

 

流行歌の歌詞において優先されるのは、リスナーが共感できることだ。少なくとも小室は、作詞においてそのことを第一に考えていた。リスナーに届けられた物語は、もはや作者だけの物語ではない。個々のリスナーは、それぞれの人生という文脈のなかで、作品を聴き、詩の意味を理解する。そうやって、『DEPARTURES』の物語は、今度はリスナーの側で、新たな「出発(たびだち)」の糸を紡ぐことになるのである。ここまで議論に付きあってくれた読者の一人ひとりにも、「あなただけの『DEPARTURES』の物語」があるかもしれない。それはあなたにとって人生の宝であろうし、作者もきっとそれを大切にしてほしいと願っているはずだ。(fin.)