🔶自源流と剣道🔶

 

 

 明治維新から156年目を迎えた令和6年、近代日本の礎を築いた偉大なる先師達に心からの敬意を以て、本文を認めます。

 

 

 天眞正自源流兵法の歴史を鑑みれば、始めに実戦有りきであって、流派創生から戦国の世を駆け抜けた自源流剣法の特質は、真に一撃必殺の原理を追求し尽くした真剣刀法にあるといえます。

 

 

 時は、戦国時代から江戸時代へ、そして幕末~明治維新へと変貌を遂げ、明治~大正~昭和の激動の時代を駆け抜けた「天眞正自源流兵法」は、尊父・第27代上野源心までは、本当に真剣による接近戦闘があったと父の友人から聞かされました。

 

 

 父の身体には、刃物で斬られた傷跡が数か所あり、後頭部から首筋へと斜めにあった傷跡が印象的で、風呂で頭を洗う父を見る度にその傷跡が何かを物語っている様でした。

 

 先の戦争では、重症を負う事もあったそうですが、貫通銃創が右腕と脇腹、左太腿にあり、子供の頃に触った時がありますが、何とも言えない感触でした。

 

 

 父は良く「古武道を学ぶ者は、必ず剣道をやりなさい」と云い「柔道・空手道・合気道など、大凡の体術も会得しておきなさい」と称えて、昭和39年に東京浅草の一等地に、綜合武道尚武舘を建設しました。

 

 

 剣道は、日本剣法の実戦面を修得する唯一の手段であり、体術系武道は、徒手格闘術を修得するものだと教わりました。

 

 故に今日天眞正自源流兵法一門會の剣道は、日本剣法の実戦面を修得する意味に於いて、極めて重要な位置を占めているといっても過言ではありません。

 

 父は、4~5歳頃から叔父について剣道を始め、その後、鹿児島の大道館武道専修学校で剣道を学び、戦中戦後を通じて常に剣道の稽古に明け暮れていたといいます。

 

 

 戦後ひと段落すると、東京中野に建設された新影流の柳心館武道場や、講談社野間道場などで、剣道の稽古を行い、剣道を通じて天眞正自源流兵法の実戦面を補填して来ました。

 

 

 現代剣道のスポーツ化は、戦後剣道が復興してから現在に至るまで、剣道は、スポーツと武道という狭間で様々な意見が分かれて来ました。

 

 所謂、ルールが存在する以上、現代剣道はスポーツであり、戦後の「剣道は格技」という位置付けに於いてもスポーツのひとつであるといえます。

 

現在の学校教育に於いては「武道」と改められています。

 

 我々天眞正自源流兵法一門會の行う剣道は、古流剣道という位置付けであって、即ち「流派剣道=自源流剣道」であると考えます。

 

 

 同じ様にして、現代剣道とは一線を引く【北辰一刀流玄武館剣道、各種撃剣会などの流派剣道、戦後剣道とは袂を分かつ一剣会羽賀道場と日本剣道協会剣道】など多くの古流流派剣道の組織があります。

 

 

 昔は、いざ立ち合いとなり・・蹲踞の時、自身の流派と姓名を『自源流上野景範です・宜しく』と交互に称えました。

 

 

 真に古式の礼儀作法のひとつであり、一本決められた場合も『確かに、お面頂戴しました』と宣言し、その上で『もう一本』と発したのです。

 

 

 何処の流派の名前も知らない人物といきなり、立ち会うなど、無礼千万だと言われる時代もありましたが、現代剣道では、ゼッケンに道場名と名字が表示されているから、必要ないという先生方も少なからずいる事も事実です。

 

 

 故に、例え現代剣道がスポーツ化された竹刀競技であったとしても、『△道場の〇〇太郎です。宜しくお願いします』程度は、言うべきだと考えますが・如何なものでしょう。

 

 

 

 

 昭和60年日本武道館で行われた日本古武道大会で、中倉清先生は、並み居る強豪を次々と撃破しました。

 

 

   

 

 

 その時、先生73歳、上野景範31歳、先生の付き添いを言いつけられ、まじかで見た鬼神の如き強さに圧倒されました。

 

 脳裏に焼き付いた中倉先生の姿を剣道人生の指針として、天眞正自源流兵法の実戦面を修行する日々と共に、同志一門の元立ちとして励み続けたと思います。