あああ
■三つ子の魂百まで■
昭和29年・・戦後9年目に生を受けて、日本は真に復興の真っ最中、街頭テレビの時代から、気が付けば、4~5歳の頃だろうか・・浅草の自宅にテレビが来た日を昨日の事の様に覚えている。
14インチほどの小さな画面に、隣近所の人が集まり、何やらニュースとかドラマとか、祖父や母がお茶を入れて配りながら、ワイワイ・ガヤガヤ・・と笑い、驚きながら、楽しいひと時を過ごしていた。
そのテレビも、尚武舘道場が開かれた昭和39年頃になると、一家に一台・・白黒テレビの時代が来て、誰でもチャンネルをガチャガチャ回しながら、見たい番組を見る様になった。
それでも、当時は戦後の名残が至る処に見受けられた。
記憶に鮮明に残っているのが、戦傷者の物乞いであった。
足の無い人、手のない人、失明した人、などなど、浅草の通りの決まった場所で空き缶を前に於いて、黙って座り続けているのである。
中には、三味線を弾く人や、時には・・浪曲を歌う人もなども居た。
家族と外出して、その様な人達に遭遇すると、父や母は黙って私に当時の五百円札や千円札を渡しながら「入れてあげなさい」と言った。
私が空き缶にお札を入れると、戦傷者は沈黙のまま・・私に一礼した。
ある日、父に何故あの人達は、国の為に戦ったのに、国は何もしてあげないのか・・・を尋ねた事が有った。
その時、父は一言だけ『戦争に負けたからだよ・・・』と言った。
東京裁判で有罪判決を受け絞首刑となった終戦時の外務大臣・東郷茂徳は言った『いざ子らよ 戦うなかれ 戦わば 勝つべきものぞ 夢な忘れそ』と。
戦をするなら勝て・・負けると死ぬより悲惨な目に合う・という事である。
正体不明の芸術家バンクシーは『世界で最も大きな犯罪は、法を破る人々によってではなく、法に従う人々によって犯される』と言い。
戦後、連合国によって行われた東京裁判(極東国際軍事法廷)は、人類史上初めて戦争犯罪を演出し、戦勝国が敗戦国を裁くという愚行を犯した。
インド代表のパール判事は『戦争の勝ち負けは腕力の強弱であり、正義とは関係ない』と論じている。
その様な、戦後世代の私であるが、父と祖父が陸軍将校として、叔父と大叔父が海軍将校として大東亜戦争を戦った事に・・心から尊敬している。
幸いにして、父は終戦の翌年昭和21年に満州より帰国、祖父はソ連軍により満州からソ連へ連行され、シベリアを転々とした後、厳しい抑留生活を耐え忍び・・昭和31年に帰国した。
父の兄上野秀一は、特攻隊の先駆けとして、昭和19年7月18日サイパンにて特攻戦死、同じく海軍で戦闘機のパイロットとして活躍した上野義人は、生き残って帰国、昭和59年11月24日・・戦友の元へと旅立った。
上野家は剣術師範家として、初代上野左右馬助景用に始まり、肥後細川藩では、疋田豊五郎の新陰之流を継承して剣術指南役を拝命していた。
その後、加藤家取り潰し後の大国肥後を統治した細川藩に於いて、それまでの剣術指南役を高弟の和田傳兵衛に譲り、隣国薩摩の上野本家に入国した。
その様な家系を誇りとして、昭和年代を駆け抜け、昭和49年に19歳で天眞正自源流兵法第28代宗家を継承、そして、・・平成9年に父の遺言により実弟童心に第29代を継承する事が出来た。
故に最も大事な事が「信義」であり、決して人を恨まず、妬まず、懲らしめる事は有っても、暴力暴言を用いず、戦う時は、正々堂々と凛として立ち向かい、常に覚悟を忘れず、卑怯卑劣な者には決して屈せずに生きて来た。
戦後世代の第二第三世代社会に於いて、良く人に言われた事が有る『何で貴方は、他人の為に、此処まで、出来るのですか』と。
そんな時は、次の様に答えている『善には善で、悪には悪で、お返しする事にしていますので、それが、私の本性ですから、敵も多いですよ・・』と。
私には腐るほど、唸るほどの敵がいて、私を恨んでいる事だと思う。
私を恨む連中は、悪には悪で返されたに過ぎないのであるが、それが自業自得である事に気が付く人は稀である。
正々堂々と立ち向かって来た者には、正々堂々と相対し、正義正論で話し合いをするが、卑怯卑劣な手段で戦いを挑んで来た外道には、決して屈する事無く、外道に対しては、更に彼らを上回る外道也の対応をして来た。
もしも、卑劣な手段を尽くして敵対する外道に対して、正々堂々と凛として正直に対峙したとすれば、見るも無残な結果となるであろう。
所謂、先に述べた東京裁判であって、それは、個人も国家も関係なく起こりうる人生究極の選択肢なのである。
故に、卑劣な手段を仕掛けてくる外道連中には、容赦なく鉄槌を下し、奸計には奸計で対応して来た。
また、愛には愛で、信義には信義で、信じる者を信じ、義には義で、去る者を追わず、来る者を拒まず、信念を曲げず、我が自法に従い、生きて来た69年間であった。
これが私の生き方であり、三つ子の魂百までの所以である。
愛 娘 と