川崎の乱パート3。いちばん驚いたことは、これだけ覚えていない大会で、私がカメラマンをやっていた! | 生きているだけで十分 宍倉清則のいまのキモチ

川崎の乱パート3。いちばん驚いたことは、これだけ覚えていない大会で、私がカメラマンをやっていた!

のちに馬場はシンを引き抜いたはいいが、使い道があまりなく、失敗だったと語っていて、結局、新日本に戻している。ただ、試合を見ると、馬場にとって、シンはやりやすい。体格差があるし、怖い武器がない。全然、怖さがなく、試合ができる。82年といえば、ハンセンが移籍し、東京体育館で馬場が「よみがえった」試合をやった。昭和ファンなら忘れられない。それもあって、馬場はシンが物足りなかったのかもしれない。

 

ただ、これも思った。よみがえったが、馬場の痩せ方は異常。あばら骨は浮き出ているし、腕が細すぎる。明らかに全盛期とは違う。それでも、シンが相手なら、楽勝だ。シンの入場には上田がいて、さらにキラー・トーア・カマタまで。

 

82年だから、私は入社2年目。全女でも行っていたのだろうと思っていた。場外戦。当然、カメラマンも逃げ回る。記者は東スポの川野辺さんと、デイリーの宮本さんしかいない。すると! まったく思いがけないことが! 

 

リングサイドのカメラマンの中に、私がいる。これも、なぜなんだ? 写真で、私の前に映っているのは先輩の原田さんだ。原田さんは記者でありながら、カメラが好きなこともあって、ずっとカメラマンも兼ねる「二刀流」だった。そして、原田さんの写真は写真部の本職よりも、うまい。これは私が証明する。原田さんはグラビアを作っていたので「いい写真は自分で撮影するしかない」と思っていた。

 

左から川田、佐藤昭雄、私、原田さん、原田さんの上は東スポ・木明君。試合は鶴田vsマスカラス。

 

問題は私が勝手に入れるわけがない。まず間違いなく、この原田さんに相談したはずだ。「シンの試合は撮影、難しいですから、数がいた方がいいと思うので、自分も入っていいですか?」「おう、撮れや」。こんなカンジ。見ると、シンのコブラコロー、私がいちばんいい位置で、目の前で撮影している。張り切っていたんだなあ。

 

ああ、まだまだ書きたいことがいっぱいあるが、きりがないので、このへんで。

 

82年、川崎の乱というか、川崎の変。これは見て、よかったあ。2時間で、ほかの大会も収録。