81年、ベースに入って、何度も大阪へ行くようになり、83年、彼も業界へ。「週刊ファイト」記者とは | 生きているだけで十分 宍倉清則のいまのキモチ

81年、ベースに入って、何度も大阪へ行くようになり、83年、彼も業界へ。「週刊ファイト」記者とは

年が1つ違いということもあって、すぐに仲良くなった。今日は昼のニュースで曙の訃報をやっていたが、昨日は身近な彼の訃報が入ってきた。にわかに信じられないので、すぐ携帯に電話した。奥さんが出た。本当だった。死因は最近、よく聞く誤嚥性肺炎。昨年11月に亡くなっていたということなので、享年は67歳。同じ1956年生まれだが、彼は早生まれ。1つ上だ。

 

彼の名前は波々伯部(ほおかべ)哲也。のちに副編集長となる。何年前だったか、年賀状に「シティプレスはまだ買ってますか?」という彼らしいジョークが書いてあって、すぐに電話し、話したが、それが最後の会話。シティプレスとは昔の風俗専門誌。とっくになくなっているのだが。以後、年賀状も途絶えたので、奥さんの話だと、闘病生活に入ったようだ。

 

週刊ファイトは2006年9月に休刊。彼は上京し、ベースにも挨拶に来た。そのとき、佐藤正行君は「野球」に異動していたので、私が彼を連れていき、3人で談笑。「次の仕事が決まった」と明るかった。鉄鋼工業新聞社を主宰。

 

GK金澤君によると、本気でゴングに誘ったらしいが、彼は常々「大阪が好き。大阪を離れたくない。それに、週プロやゴングの激務はオレには無理や。その点、シッシーはよくやってるよ」と言っていた。私が全女の選手に「シッシー」と呼ばれているのを彼も会場で見ていたので、真似して「シッシー」と呼んでいた。でも、真面目な話では「宍倉さん」だった。

 

ファイトの読者なら、ご存じの通り、ファイトは新日本の情報、とりわけ猪木の情報にはメチャクチャ、強かった。まるで、内部にいるかのような詳しさ。私はその理由に気づいていたが、彼は親しい私にさえ最後まで明かすことはなかった。だから「副編集長」が務まったのだろう。

 

やはり、この年齢になると、誰かしら、亡くなっていく。昨日はネットで西村修の2度目のガン、ステージ4の記事も読んだ。奇跡を祈るしかない。親友の吉江豊氏が亡くなったばかり。西村選手、頑張れ!

 

昨年の吉澤幸一さんに続き、波々伯部氏の訃報はかなりのショック。私は食事に気をつけて、もう少し、頑張ります。ご冥福をお祈りします。

 

写真は85年、台湾にて。右が波々伯部氏。

 

左が波々伯部氏。右がわたくし。中央はいまも活躍する犬童カメラマン。