ねもやん、さようなら(涙)。20代のころ、楽しかったよね! | 生きているだけで十分 宍倉清則のいまのキモチ

ねもやん、さようなら(涙)。20代のころ、楽しかったよね!

 

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6月12日、会社に行ったら、訃報が出ていた。根本君。社員のご両親の訃報も出るので、ご両親のどちらかかな、と思ったが、よく見ると(53歳)…本人ではないか! ビックリした。すぐに明日の通夜の場所をメモした。

 

編集部に上がっていったら、佐藤編集長が「根本さんって、ご存じですか?」と訃報の紙を見せた。「いま、下で見たよ。ビックリした。オレ、結構、仲良くしていたんだ。20代のことだけどね。明日、通夜に行ってきます」。

 

 

現在の社屋ができる前、プロレス編集部は神田錦町の「千洋ビル」というところにあって、隣は相撲編集部だった。

 

 

根本君…いや、ねもやんはテニスのプレイヤーで、最初、テニスマガジンだったが、異動が多く、そのときは相撲だった。相撲のスタッフとは全員と仲良くしていた。ねもやんはたくましく、見るからにスポーツマンだった。

 

 

私自身、一睡もしないで編集部にいたことはザラで、あるとき「ああ、今日も帰れないなあ」とつぶやいていたら、ねもやんが「じゃあ、オレんとこ、泊まりに来ませんか? 汚いけど、寝るスペースぐらいはあるので」。当時、私は府中市に住んでいたので、遠くて、ねもやんは割と会社の近くに住んでいた。

 

 

世界一、社交性のない私とは真逆で、ねもやんはこんな私を泊めちゃうぐらい、気さくな男だった。お言葉に甘えて、泊まりに行ったけど、結局、朝までいろいろしゃべっていた。お互い20代だったし、疲れなんか知らなかった。

 

 

通夜に行ったら、ものすごい行列だった。テニスのレジェンド、伊達公子さんや松岡修三さんからも花が出ていた。並んでいたら、前に会社をやめた吉川さんが来た。久しぶりだったので、並んでいる30分ぐらいのあいだ、ずっと話していた。

 

 

「すごい数ですね。自分もこんなに盛大に送り出してもらえたら、いいけどなあ」「宍倉君だって、それこそプロレスの名鑑ができちゃうぐらい来るんじゃないの?」「とんでもないです! オレなんか、誰も来ませんよ(苦笑)」。

 

 

斎場にはサイモン&ガーファンクルの「ボクサー」が流れていた。ねもやんが好きだったのだろうか。私も大好きな歌だ。「アイム・ジャスト・ア・プアボーイ…」。09年には武道館のライブに行った(年齢からして最後の来日?)。

 

 

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焼香を済ませると、出口に故人の思い出の写真がスライド形式で映し出され、思い出の写真がたくさん飾られてあった。その中には初代タイガーマスクとの2ショットもあった。弔問客の多くが「あっ、タイガーマスクだ!」と指をさしていた。ホント、初代タイガーは有名だなあ。

 

 

 

ねもやん、さようなら。安らかに眠ってください。20代のころ、楽しかったよね! 通夜に来て、あらためて思った。人間、いつ、どうなるか、わからない。毎日、悔いのないように生きていきたい。

 

 

斎場に向かうときの雲がまた印象的だった。斎場の住所は国分寺市西恋ヶ窪。「恋」が入る地名って、いいですよね。

 

 

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