幸せを言葉にできる専門家 伊藤直幸です。
今日も、「世界一の幸せもの」を増やしていきますよ(^o^)
【僕の生きる道】と題して、
・自分を大切にして、
・自分本来の、ありのまま姿を取り戻して、
・素直な気持ちで「世界一の幸せもの」で生きるまでに、
悩んだり、迷ったり、喜んだり、笑ってきた【僕の人生の真実】を、赤裸々に語っています。
前回のお話はこちら
前回は、耐火レンガの会社をクビになり、仕事探しをするお話でした。
「とにかく、早く、仕事を見つけなくては、、、」
僕は、焦っていた。
履歴書を送っても返ってくるのは、お祈りの手紙ばかり、、、
打ちひしがれていた僕は、「あ~、この業種の仕事はいつも募集がしている。だったら、最悪、こんな仕事があるから何とかなる」と、その仕事を考え始めていました、、、
#66●そのときの僕を助けてくれたもの
40数社に履歴書を送っても、良い返事がない、、、
精神的にも辛く、「社員として働くことは難しいのでは?」と思っていました。
僕は、スポーツ新聞に載っていた求人欄をよく目にしていた。
そこには、建築会社の仕事、風俗のドライバー、タクシーの運転手があった。
中でも、タクシーの運転手はずっと載っていて、色んな会社が募集していた。
試しに、ハローワークで「タクシー運転手」の仕事を検索してみたら、たくさんの会社が出てきた。
条件には、年齢制限なし、正社員、売上に応じて稼げる、半年間は給料保証、支度金支給制度、2種免許費用負担など、運転免許証があれば採用されそうなことが書かれていた。
僕は、どの会社も同じような条件であるのを見て、「あ~、タクシー運転手の仕事はいつも募集がしてある。だったら、最悪、こんな仕事があるから何とかなる」と、そのときに思ったのです。
仕事に「最悪」はないんだけど、タクシー運転手の仕事は「誰にでもできそう」で、募集がたくさんあるぐらいだから「人手不足」だと考えた。
だから、「誰でも雇って貰えそう=受け皿」のように感じていた。
それに、運転免許証は持っていた。(車は持っていなかったけど)
学生のとき、必要性を感じていなかったけど、このときに「僕を助けてくれたもの」になった。
37歳は、タクシーの運転手としてはかなり若いほう。
そういうこともあって、僕は勝手に、「大丈夫だろう」と決めて掛かっていた。
仕事探しが「何とかなる」ように思えてきて、事務・管理系の仕事も平行して応募していたけど、依然、お祈りの手紙ばかりが返ってくる、、、
そこで僕は、事務・管理系の仕事は諦めて、最悪だと思っていた「タクシーの運転手」の仕事を選んだ。
後に、数年後になってから気づくのだけど、「最悪、この仕事があるから」と思っていたら本当にそうなったのは、「引き寄せの法則」だった。
信じていたことが、現実になった。
選んだタクシー会社は「日本交通」
業界では大手で、営業所が僕が住んでいる場所(大阪市港区)の近くだったから、という理由。
今思い出したけど、「会社説明会」と言って、どんなふうに1日を仕事をしたり、待遇面についての説明の機会が設けられていたけど、僕は、「会社説明会」に行かずに応募した。
ここでも、詳しく調べることも深く考えることなく、妻に相談するのでもなく、僕が見た目で「いけそう!」と考えて決めていた。
応募から採用までが早くて、2週間、あったかどうか。
トントン拍子で採用が決まった。
転職は、4度目になった。
つむら工芸(舞台・美術製作) → パチンコ店運営業務 → リゾート会員権のテレフォンアポインター → 耐火レンガ販売会社 → タクシーの運転手
色んな仕事をしていると思う。
採用が決まった後、タクシーの運転手に欠かせない「2種免許」を取るために、会社が鳥取で運営している自動車学校に1週間合宿に行った。
合宿に行っている間も、1日1万円の給料がもらえた。
「2種免許」を取得し、タクシー協会で営業の基礎知識を学んで「乗務員証」を取得。
タクシー会社で、さらに1週間の研修。
営業する車と同じ車を運転して、大阪の主要な場所をグルグルと回りながら、「このあたりにお客さんが多い」など、実践的なことを学んだ。
1人前というより、「半人前のタクシーの運転手」
自分でも、「大丈夫なんだろうか?」「稼げるのだろうか?」という大きな不安を抱えながら、研修を兼ねた実践乗務が始まりました。
次回
>> #67「タクシー運転手から見たもの」
お会いできるのを楽しみしています!