周りの人に喜ばれ、その中にいる自分も楽しいという状態が最高だと思っています。
宇宙や神との一体感が感じられたら素晴らしい。
でもジレンマがあります。
全知全能の神とか慈悲深い神という概念には強い反発を感じます。
食物連鎖という法則、必ず他の犠牲のもとに生があるという事実
生きていることに感謝?
誰に?
食物連鎖を創造した神に?
それは到底無理
それは恐怖により隷属支配されることでしかない気がする
でも神や宇宙と一体感を感じている人がいる。
そういう人の人格に感銘を受ける。
そういう人になりたい。
でもどうして神や宇宙と一体感を感じることができるのだろう?
神様に感謝なんてできない。
親には感謝するべきだがこっぱずかしい想いが強い。
感謝という状態には程遠い意識状態です。
神ではなく宇宙の法則と置き換えてもそれは付き纏います。
忌まわしい食物連鎖を含む宇宙に感謝?
地獄とか天国、罪と罰という概念にも大いに疑問を感じます。
それは誰から見た罪?
自分から見た罪?
自国から見た罪?
人類から見た罪?
地球から見た罪?
人類から見た罪だったら、なんてムシのいい!
だから宗教には強い疑問と強い反発を感じます。
不公平感も感じます。
しかし人間には信じるものは必要なようです。
自分の心は、神は信じないという信念を持っているが、本当は信じたいのに信じられないという設定になっているように感じます。
こういう疑問は相手を不快にさせるような気がしたり空気を壊すような気がして聞けません。
納得のいく答えを得たいと思っています。
ひとつだけわかりました。
私の宇宙に対する絶望的な不信感は、自分という人間に対する絶望的な不信感とリンクするように、私の中で構築されています。
食物連鎖という事柄が、私の意識世界の中で個人的絶望から抜け出るのを邪魔するように位置づけされている。
私の前世は動物だったのかも・・・と思ったりもするわけであります。
動物:(・。・) ふざけんなー!お前こそ私ら動物の肉が大好きなくせにー!
私:
もう一つわかったような気がします。
私が求めていたものは神や宇宙と繋がったイメージから連想した『満たされた豊かな気持ち』でした。
それを宗教への強い反発と結びつけることで、『豊かな心になる』(『豊かな心を創造するのは自分』)ということに抵抗しているのです。
神や宇宙という概念(あえて概念といいます)は、満たされた豊かな気持ちを『創造』するために作られた手段なのではないかと思います。