言葉の落とし穴と新たなる有効活用の模索 | 心の自由

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生き辛さは成長の機会。思いやりの心と自分の本質を大切に。

言葉と言葉の対象は別物です。

 

例えば犬の鳴き声は、日本では「わん!」アメリカでは「バウ!(だったかな)」。

 

それだけではなく、同じ言葉でも人によって微妙に意味付けが違います。

言葉は、一部分だけ切り取ってわかりやすくしたものだからです。

もちろん、言葉の定義はありますが、対象に近いと思う言葉を便宜的に使用しているだけ

 

 

心の中には光もあれば闇もあります。

まるで世界や宇宙のように混沌としていると思います。

人間は混沌を嫌うのかもしれません。

心の中は混沌としていても、絶妙に瞬間瞬間バランスをとって生きているので、混沌が嫌いと思い込んでいるだけかもしれません。

 

そこで(でもないと思いますが)、言葉を作りました。

言葉は混沌としたものを、わかりやすく明確にする効果があり、意思疎通に多大な恩恵を及ぼしましたが、極端を生み出しました。

***派VS+++派など

中間にいるもの、曖昧なものを許しませんでした(まあ中間もありますけど・・・勢いで書いてしまいましたm(__)m)。

言葉が人間を揮い分けたのです。

 

***派の中にも色々分かれます。

いくら尊敬する人でも、全部同じ考えなんてあり得ません。

本当は一人一人全て違うはずです。

でもキリがないから、そこはある程度妥協したのでしょう。

一人だと心細いからかもしれません。

 

それが***派、+++派、〜〜〜、・・・です。

 

言葉はフォーカスさえ変えれば、論理を色々な方向へ持っていくことができます。

 

何が言いたいかと言いますと、混沌としていてもいいのではないか、混沌としていることを認めようということです。

人は全て、異なった考えを持っています。

それなのに、たかだか言葉で表される考えの違いで、面目を張り合うのはナンセンスなことかもしれません。

(今ちょっと身につまされています。)

 

 

言葉には暗示力があります。

 

冷静というと長所で、冷淡と言えば短所です。

一つの対象から、一部分ずつクローズアップしたものですが、視点を変えると別物になります。

冷静と言われると長所が伸び、冷淡と言われると短所が伸びる。

暗示力のある言葉は、様々なものに影響を及ぼしました。

 

良くも悪くも

意識的にも無意識的にも

 

意識的に良いことに使ってきたのが言霊やマントラだと思います。

 

 

ならば良い目的を定めて、意識的に言葉を作るという試みがあってもいいと思います。

言葉を、便利なだけではなくて、意識的に問題解決のために作り替える。

 

 

例えば病名

言葉を聞いただけで、自然治癒力に働きかけるようにできないだろうか?

そうして暗示力で自然治癒力が働く仕掛けを作る。

 

例えば平和

 

例えば・・・

 

 

以上、中途半端ではありますが、問題提起となりましたら幸いです。