その「言い訳」は誰のため?〜私のケース:人付き合いを避け常識の外で生きる | 虚飾を捨てて心に翼を

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生き辛さは成長の機会。思いやりの心と自分の本質を大切に。

私の中には強い恐怖心がありました。

「一思いに殺してくれ」と願うような死に方を自分がしたらどうしようという恐怖でした。

本を読んでもニュースを見ても、真っ先に目に飛び込んできました。

 

若い頃見た残酷映画の影響なのか?

「人間が人間にあれほど恐ろしいことができるものなのか」と強い衝撃を受けました。

そしてその事実から目を逸らすべきではないと思ったからなのか。

単に興味本位の怖いもの見たさだったのか。

 

いくらそういう情報を遠ざけようとしても、潜在意識がそちらを向いているのをどうしようもありませんでした。

 

この恐怖心が自分にとってどんな意味があるのか何度も考えました。

もしかすると避けよう避けようとしてもそうなる運命なのか。

「今のうちになんとかしないとそうなる」という高次の自分からの警告なのか。

それでなくとも、「思考は現実化する」と言われています。

 

 

先日ふとわかりました。

 

これは「言い訳」ではないかと。

 

誰に対しての?

 

自分に対しての

 

 

自分は「常識」とか「権威」が嫌いでした。

常識とか権威に反発していました。

でも小さい頃、早々とあっけなく負けてしまいました。

自分の意見どころか感情さえも抑圧してしまいました。

自分が嫌いになりました。

 

でも権威や常識が嫌いという思念は、潜在意識に強く持ち続けていました。

それは変なところで現実化しました。

人付き合いを避け、競争を避け、常識の外で生きるということです。

 

権威や常識が嫌いという思念は自分にとって大切なものだから、戦いたいという思いも潜在意識では常に持ち続けていました。

でも私は小さい頃戦いを放棄している。

 

自分にとって大切なことをやらないためには言い訳が必要です。

おそらく言い訳を作らないと、自我(思念?)が崩壊してしまうからです。

 

そこで言い訳として集められたのが「恐怖」です。

権威に逆らうとはどういうことか。

歴史上、権威に逆らったものがどうなったか。

 

 

そして今、こうも思います。

 

戦わなければならないのか。

戦わなくても常識は変えられるのではないか。

それが多くの人の幸せにつながるのなら。