義とされるのはわたしのことばを実行する者です | カトリックの神秘

カトリックの神秘

リブログはご自由に☆

 

 

(「マリー・ラテイストの作品」より)

 

 

(第5巻「宗教全般、特にキリスト教について」第10章)

 

 

ある日、救い主イエスは私に次のように語られました

 

「わたしの娘よ

義とされるのはわたしのことばを聴く者ではなく、それを実行する者です

種まきのたとえと、その説明をおぼえているでしょう

たとえわたしのことばを聴いても、心がさまざまに変化する者は、そのことばによって義とされることはありません

その人たちの心はすべての人に開かれている広い道のようで、わたしのことばは彼らの魂で実を結ぶことはありません

 わたしのことばを聞いても、心の鈍い者は、わたしのことばによって義とされることはありません

彼らのその無神経さは、思いと心にも影響を与える可能性があります

霊的不感症は一種の盲目さのようなもので、わたしのことばが言い表していることを理解するのを妨げます

しかし時には霊的不感症ではなく、心の鈍さが先に来ていることもあります

精神が理解できないものを、心で味わうことはできません

この鈍さはわたしのことばが魂で実を結ぶのを妨げる味覚の欠如のようなものです

こうした魂は、種がまかれた石だらけの道のようで、種を成長させ、生かすための水分や栄養がありません

 

わたしのことばを聞いても、不道徳な者はそれを活かすことができません

彼らは神のことばを受け、それを味わいますが、自分の中にある悪徳を治すために自分自身を律しようはとはしません

決意もせず、努力もせず、あるいは決意しても実行に移さないか、短時間しか実行しません

わたしのことばは種から芽を出し、成長し、実を結びますが、その実はすぐにその人の欲望や魂のトゲによって窒息してしまうのです

 

 

娘よ

わたしのことばによって義とされためには何が必要なのでしょうか?

それには3つのことが必要です

みことばを聴き、それを心に留め、そして善良で意欲的な心でそれを保ち続けることです

みことばを聴いても聴き流してしまうなら、それは聴かなかったのと同じことであり、心に留めなければ聴いていなかったのと同じであり、最後に心が善良でなければそれを実行に移すことができないので、役に立たないからです

 

ですから、神のことばを聴く者はしっかりと耳を傾けなさい

その言葉遣いや話し方、表現の仕方に惑わされることなく、ただ神のことばであるからこそ、耳を傾けなさい

そのために、農夫が畑を耕すように自分の心を耕しなさい

あなたの心から悪いものをすべて取り除き、よく耕し、よく準備された畑のようにしなさい

そうすれば、あなたはわたしの言うことを聴き、それを覚えて実行し、そしてわたしのことばは必ず100倍の実を結ぶでしょう

それを確信していなさい

あなたの心が善良であればこそ、みことばを実行することができるのです

あなたは(みことばによって)わたしの意志の表れを見るので、わたしを傷つけるようなことはしたくないと思うでしょうし、あなたがわたしのことばを成就するなら、あなたは真理と善の中を歩むことになるでしょう

そしてあなたは日に日に自分を正当化するようになります

さらにあなたは日ごとにわたしと一致し、地上から離脱していくでしょう」




 

 

 

 

 

 

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村