《「天国の書」第11巻》
(1912年3月20日)
すべては自分自身をイエスに捧げること、そしてあらゆることにおいてご意志を行なうことにあります。
いつもの状態にあった私のところに、常に愛すべきイエスが、深い悲しみを帯びたお姿で現われ、こう言われました。
「娘よ、すべては自分自身を完全にわたしに捧げ、あらゆることにおいてわたしの意志を行なうことにあるということを、人々は理解しようとしません
ひとたびそれを得れば、わたし自身が魂を促し、ひとりひとりにこう語りかけるでしょう。
『娘よ、この喜びを、このなぐさめを、この安らぎを、この憩いを受け取りなさい……』と。
ただし、そこには違いがあります。
もし、あらゆることにおいて自分をわたしに捧げ、常にご意志を行なうようになる前に、許された喜びを享受していたとしたら、それは人間的な事柄にすぎませんでした。
しかし捧げた後であれば、それらは神聖な行ないとなるのです。
それらはわたしの事柄ですから、わたしはもはや嫉妬を感じることはありません。
そして、こう思うのです。
『彼女が正当な喜びを受け取るとしたら、それはわたしが望むからであり、誰かと用事で接したり、正当な会話をしたりするのも、わたしが望むからです。
もしわたしが望まなければ、彼女はすぐにそれをやめるでしょう』と。
ですから、わたしはすべてを彼女に委ねるのです。
なぜなら彼女が行なうことのすべては、もはや彼女自身の意志によるものではなく、わたしの意志の結果だからです。
娘よ、わたしに自分を完全に捧げてから、あなたに何か欠けたことがあったでしょうか?
わたしはあなたに、わたしの味わい、わたしの喜び、そしてわたし自身のすべてを与え、あなたを満足させました。
これは超自然的な秩序におけることですが、信仰の秩序においても、告解や聖体拝領など、何ひとつ欠けることのないようにしました。
それどころか、あなたがわたしだけを求めたので、あなた自身はそれほど頻繁に告解を望まなかったのですが、わたしはあなたのその願いを聞き入れませんでした。
わたしのためにすべてを捨てようと望む者には、あらゆるものを豊かに与えたいと望んだからです。
娘よ、魂たちが――それも最も優れていると言われる人々でさえ――このことを理解しようとしないのを見て、わたしのみ心はどれほど痛んでいることでしょう!」
(1912年4月4日)
「神のご意志」は、他のすべてのものが結びつかなければならない中心です。
今朝、いつにも増して愛らしいイエスが来られ、私にこう言われました。
「わたしの娘よ、わたしの意志は中心であり、他の徳はその円周をなすものです。
すべての放射状の線(スポーク)が中央に集まっている車輪を想像してみなさい。
もしその線のひとつが中心から離れようとしたら、どうなるでしょうか。
第一に、その線は見苦しいものとなります。
第二に、その線は死んだ状態となり、車輪が動くにつれて、それは車輪から振り落とされてしまうでしょう。
魂にとって、わたしの意志もそのようなものです。
わたしの意志こそが中心なのです。
わたしの意志において行われず、ただわたしの意志を果たすためだけになされたのではないすべてのことは――たとえそれが聖なる事柄や徳、あるいは善行であっても――車輪の中心から外れた線のようなものです。
すなわち、いのちのない行ないであり、徳なのです。
それらは決してわたしを喜ばせることはできません。
それどころか、わたしはそれらを罰し、取り除くためにあらゆることを行なうでしょう。」
(1912年4月10日)
より大きな信頼を寄せる魂は、神の御憐れみの冠の中でいっそう輝くでしょう。
いつもの状態にあったとき、祝福されたイエスが来られて、私にこう言われました。
「わたしの娘よ、わたしの神の御憐れみの冠において、輝かしい宝石のように最も強く輝くのは、より大きな信頼を寄せる魂たちです。
なぜなら、信頼すればするほど、彼らはわたしの『憐れみ』という属性が、彼らの望むあらゆる恵みを注ぎ込むための余地を広げることになるからです。
一方、真の信頼を持たない魂は、恵みをわたしの内に留まらせてしまい、貧しく、何も備わっていない状態のままとなります。
その間、わたしの愛もまたわたしの内に閉じ込められ、大きな苦しみを味わうのです。
それほど苦しまずに済み、かつ自由にわたしの愛を注ぎ出せるように、わたしは他の魂よりも、信頼を寄せる魂たちと深く交わります。
こうした魂に対してなら、わたしは愛を注ぎ出し、戯れ、愛に満ちたやり取りを楽しむことができるからです。
彼らが恥じたり恐れたりする心配はありません。
それどころか彼らはより勇敢になり、わたしをいっそう愛するためにあらゆることを受け入れるのです。
ですから信頼する魂こそが、わたしの愛があふれ出る場所であり、わたしの愛の喜びの場なのです――最も恵みに満ち、最も豊かな魂たちなのです。」
(1912年4月20日)
人間的な楽しみは、神聖で永遠の幸福への渇望を満たすことはできません。
イエスは、ご自身の神聖な楽しみを与えることができるように、それらの楽しみに苦味を加えられるのです。
いつもの状態の中にいたとき、祝福されたイエスが来られ、私にこう言われました。
「わが娘よ、本性は抵抗することのできない力で幸福を求めますが、それにはもっともな理由があります。
本性は、神聖で永遠の幸福を味わうために造られたからです。
しかし、自らに大きな害を与えるようなことーある者はひとつの楽しみに、ある者はふたつ、またある者は3つや4つの楽しみに執着します。
それでも彼らは満たされることなく、真の味わいを見出すことができません。
その結果、内面に空虚さを抱え、苦味や煩わしさ、そして吐き気さえもおぼえることになるのです。
人間の性向ゆえに、善いものや聖なるものの中にある楽しみでさえ、その中に人間的な要素が混じってしまうことがあります。
そのため、それらの楽しみには、本性を完全に吸収し、神聖な味わいへと圧倒する力が備わらないのです。
わたしが魂の中で神聖なるみ業を成し遂げようとするとき、彼らの満足の中にある人間的なものすべてに苦味を加えるのは、まさにこのためです。
そうすることで、数え切れないほど多くのわたしの楽しみを与えることができるからです。
それらの楽しみには、本性すべてを神聖な楽しみへと吸収する力があるのです。
これ以上の愛があるでしょうか。
魂により多くのものを与えるために、わたしは彼らからわずかなものを取り去るのです。
それは、すべてを与えるために、無に等しいものを取り去ることだと言ってもよいでしょう。
それなのに、このわたしのみ業は、被造物たちからは悪く受け止められてしまうのです。」
(1912年4月23日)
イエスが私たちを愛されるその愛は、私たちの内にも外にも、あらゆるものの中に存在しており、主は完全な愛の応えを望んでおられます。
私たちをさらに強く促すために、主はあえて「過ち」さえも許容されるのです。
いつもの状態にあった私のもとへ、祝福されたイエスがしばらくの間おいでになり、こう仰いました。
「わたしの娘よ、
わたしは時として、わたしを愛する魂に罪を自覚することを許すことがあります。
それは、その魂をより強くわたしに抱き寄せ、わたしの栄光のために、さらに大きなことを行なうよう促すためです。
実際、わたしはその魂に多くのものを与えます。
その弱さゆえに、その魂をいっそう愛おしく思い、より深く愛し、わたしの恵みで満たすために、あえて罪を自覚することを許すのです。
そうして、わたしのために偉大なことを行なうよう、その魂を強く駆り立てます。
これは、わたしの愛のあふれる振る舞いなのです。
わたしの娘よ、被造物に対するわたしの愛は偉大なものです。
太陽の光が大地に満ちあふれる様子が見えますか?
もしその光を無数の微粒子にわけることができたとしたら、その光の粒のひつひとつの中に、わたしの調べのような声を感じるはずです。
そしてそれらは次から次へと、あなたに向かって『愛している、愛している、愛している……』と、数える暇さえないほどにくり返すでしょう。
あなたは愛の中にすっかり浸ってしまうことでしょう。
わたしは、あなたの目に入る光の中で『愛している、愛している』と言い、呼吸する空気の中で『愛している』と言い、耳に触れる風の音の中で『愛している』と言い、
肌で感じる暖かさや冷たさの中で『愛している』と言い、血管を流れる血の中で『愛している』と言い、わたしの鼓動を告げる心臓の鼓動の中で『愛している』と言います。
心のあらゆる思いの中で、手のあらゆる行ないの中で、足のあらゆる歩みの中で、そしてあらゆる言葉の中で、わたしは『愛している』とくり返すのです……。
なぜなら、あなたに向けたわたしの愛の働きなしには、あなたの内でも外でも何ひとつ起こらないからです。
わたしからの『愛している』という言葉は、次の言葉を待つこともなく絶え間なく続きます。
では、あなたの『愛している』はどうでしょうか?
そのうちのどれほどが、わたしに向けられているのでしょう?」
私はただ、当惑するだけでした
イエスから発せられる「愛している」という言葉の数々に、内からも外からも圧倒され、耳が聞こえなくなるほどの響きに包まれているのを感じたからです
それに対して、私の「愛しています」という言葉はあまりに少なく、限られたものでした。
そこで私はこう言いました。
「ああ、私の愛するイエスよ、だれがあなたに並ぶことができるでしょうか」。
しかし、私がこうして言葉にしたところで、イエスが私に悟らせてくださったことの何ひとつとして、語り尽くせてはいないように思われます。
すると、イエスはこう付け加えられました。
「神のご意志――すなわち真の聖性――とは、わたしの意志を行ない、すべてのものをわたしにおいて秩序づけることにあります。
わたしが被造物のためにすべてを秩序あるものとして保っているように、被造物もまた、わたしのために、そしてわたしにおいて、すべてのものを秩序づけなければなりません。
わたしの意志こそが、万物を秩序あるものとして保つからです。」
(1912年5月9日)
愛のうちに私たちの全存在が燃え尽きること。
今朝、いつもの状態にあった私は、どうすれば愛のうちに自分自身を燃え尽きさせることができるだろうかと思いを巡らせていました。
すると祝福されたイエスが来られ、私にこう言われました。
「わたしの娘よ、もし意志がただわたしだけを求め、知性がただわたしを知ることだけに関心を寄せ、記憶がわたし以外の何ものをも思い起こさないなら――これこそ、愛のうちに燃え尽きる魂の3つの能力(知・意・記)の姿です。
感覚についてもおなじです。
もし人がただわたしだけを語り、わたしに関することだけを聞き、わたしのことだけを喜びとし、ただわたしのために働き、歩み、心がただわたしだけを愛し、望みがただわただけを求めるならば――これこそ、感覚によって形作られる愛の燃焼(成就)なのです。
わたしの娘よ、愛には甘美な魅力があります。
愛は魂を幸福にすると同時に、愛でないものに対して盲目にし、愛であるものに対して魂を奪われるのです
ですから愛する者にとって、その意志が何に出会おうと、もしそれが愛でありまら、魂はすべてを愛の目で見つめるようになります。
しかし愛でなければ、盲目となり、愚かになり、何も理解できなくなってしまいます
舌についてもおなじです。
もし愛について語るべき時なら、魂は多くの光の目が自分の言葉を通して流れ込んでくるのを感じ、雄弁になります。
しかしそうでなければ、口ごもりはじめ、ついには口がきけなくなってしまいます。他のすべてのことについても同様です。」
(1912年5月22日)
真の愛は不満に支配されることもなければ、それを容認することもしません。
なぜなら、愛はすべてを愛のうちに解決するからです。
いつもの状態にあった私のところに、祝福されたイエスがしばらくの間おいでになりました。
その時、私の中にいくらかの不満が生じていたので、主はこう仰いました。
「わたしのが娘よ、真の愛は不満に支配されることはありません
むしろ愛の力によって、そうした不満をこの上なく美しい喜びに変える機会とするのです。
さらに、わたしは喜びの中の喜びなのですから、彼女の不満を、あたかも自分自身の不満であるかのように、決して容認することはできません
ですから彼女を完全にわたしと一致させるために、彼女を幸せにするものを与えずにはいられないのです。
そうでなければ、互いの調和の最良の部分を損なうような、不協和音や、互いに相容れない心の動き、鼓動、あるいは思考が生じてしまうでしょう。
わたしを心から愛する者において、そのようなことを容認するわけにはいかないのです。
その上、真の愛は愛のために働き、愛のために働かない(愛以外の動機では動かない)ものであり、愛を求め、愛のために与えます。
それゆえ、真の愛はすべてを愛のうちに完結させます。
愛のために死に、愛のためにふたびよみがえるのです。」
そこで私は言いました。
「イエス、そういうお話をして私から逃げようとなさっておられるようですが、私は諦めません。
今は愛ゆえに私に降参してください。
愛の行ないとして、私にとって不可欠であり、かつ愛によって強く求められているすべてのことに、ご自身を委ねてください。
なぜなら、私はすべてをあなたに捧げているからです。
そうでなければ、私は不満を抱くことになります。」
するとイエスは、
「あなたは不満を武器にして勝とうとしています」
と仰り、微笑んで姿を消されました。
