《「天国の書」第13巻》
1921年6月12日
神がご自身の「いのち」を見出すその場所に、神は立ち止まり、永遠に住まわれます。
そのとき神は、天地創造のみ業においてではなく、ご自身の「いのち」のうちに憩われるのです。
魂こそが、神のご意志の中心でなければなりません。
いつもの状態にある私に、常に愛すべきイエスが、ご自身の聖なるご意志について語り続けてくださっています。
「愛する娘よ、わたしの意志から生まれなさい。
わたしはあなたを、星々で飾られた空にはしたくありません。
もしそうであったなら、わたしはそこに自分の業を見出すでしょうが、わたし自身を見出すことはできないため、それだけでは満足しないでしょう。
また、あなたを太陽にもしたくありません。
太陽であれば喜びを見出すでしょうし、わたしの光と熱の影を見出すこともできるだでしょうが、やはりわたし自身を見出すことはできないため、わたしはそこを通り過ぎてしまうでしょう。
さらに、あなたを花や植物や果実で彩られた大地にもしたくありません。
たとえそれがわたしを喜ばせるものであっても――そこにわたしの香りの息吹や、わたしの甘美さの痕跡、わたしの創造のみ手の妙技を見出すことができるとしても――要するに、わたしは自分のみ業を見出すだけで、わたしの『いのち』を見出すことはできないからです。
それゆえ、わたしはすべてを通り過ぎ、立ち止まることなくさまよい続けるでしょう。何を見出すために、でしょうか?
わたしの『いのち』を見出すためです。
では、どこでわたしの『いのち』を見出すのでしょうか?
それは、わたしの意志のうちに生きる魂の中においてです。
だからこそ、わたしはあなたを空や太陽や花咲く大地にはしたくないのです。
わたしの意志の中心であってほしいのです。
わたしが自分の『いのち』を見出すその場所に、わたしは立ち止まり、永遠に住まうからです。
そのときはじめて、わたしは満ち足りることでしょう。
わたしは天地創造のときのように自分のみ業のうちに憩うのではなく、わたし自身の『いのち』のうちに憩うことになるのです。
知っておきなさい。
あなたのいのちは『フィアット(「然り、なれ」という神のみ旨)』でなければなりません。
わたしの『フィアット』があなたを光の中へ送り出しました。
あなたは創造主の『フィアット』を胎内に宿す気高い女王のように、そのおなじ『フィアット』の翼に乗って人生の野を歩まねばなりません。
そして、地上の至る所にわたしの意志の種を蒔き、わたしの『いのち』の拠点を他にいくつも築き上げたのち、天にあるわたしの『フィアット』へと戻ってくるのです。
わたしに忠実でありなさい。
そうすれば、わたしの意志があなたのいのちとなり、あなたを導く手となり、歩むための足となり、語るための口となるでしょう。
要するに、わたしの意志があなたのすべてを補い、満たすのです。」
1921年6月28日
神のご意志のうちに生きる魂は、神が行なうことをすべて行ないます。
真に統治するとは、神によって創造された何ものからも除外されないということです。
私は自分自身のすべてを神のご意志に注ぎ込んでいました。
すると、愛しいイエスが私にこう言われました。
「わたしの娘よ、わたしの意志のうちに生きる魂は、あらゆる人、あらゆるものの反映です。
彼らはすべてのものに反映されているため、その結果として、すべてのものの反映を受け取ります。
そして、わたしの意志はすべてのもののいのちであるため、彼らはわたしの意志のうちにあって、すべてのものにいのちを与えるべく駆け巡るのです。
ですから、無生物や植物でさえ彼らの反映を受け取り、彼らもまた全被造物の反映を受け取ります。
彼らはわたしが創造したすべてのものと調和し、わたしの意志のうちにあってすべてに与え、すべてと友であり、姉妹であり、すべてから愛と栄光を受け取るのです。
わたしの意志は彼らをわたしと切り離せないものとします。
それゆえ、わたしが行なうことは何であれ、彼らもまた行なうのです。
わたしの意志は、わたしと異なることを行なうということを知りません。
『わたしの意志の国』とは『統治すること』を意味します。
ですから彼らは皆、女王なのです。
しかし、真に統治するとは、わたしが創造した何ものからも除外されないということなのです。」
1921年7月14日
太陽があらゆる自然のいのちを形作るように、「神のご意志」は魂のいのちを形作ります。
私の意志が「永遠のご意志」の中に浸っていたとき、測り知れない光が私に理解を与え、次のように語りかけてきました。
「わたしの娘よ、わたしの意志の中に生きる者には、太陽にさらされた大地とおなじことが起こります。
あらゆる被造物の王である太陽はすべてのものの上にあり、自然界全体が、自らのいのち、美、そして豊穣さを形作るものを太陽に求めているかのように見えます。
花は太陽に、その美しさ、色、香りを求めます。
そして花が咲き開き、色や香りを身にまとい、自らのいのちを形作るために太陽から熱と光を受け取ろうと、その口を開くのです。
植物は太陽に、成熟と甘み、そして風味を求めます。
すべてのものが太陽からそのいのちを求めているのです。
わたしの意志は、太陽以上のものです。
魂がその燃えるような光線の中に入ると、いのちを受け取ります。
そしてわたしの意志の中で自らの行ないをくり返すにつれて、ある時はわたしの美しさを、ある時はわたしの甘みと豊穣さを、またある時はわたしの善と聖性を受け取っていくのです。
ですから、わたしの意志の光線に入るたびに、魂はさらに多くの神聖なる特質を受け取るのです。
ああ、なんと多くの異なる美しさ、なんと鮮やかな色彩、なんと多くの香りを魂は身につけることでしょう!
もし他の被造物がこれらの魂を見ることができたとしたら、彼らは地上に楽園を見出すことでしょう――それほどまでに、その美しさは偉大なのです。
彼らはわたしの反映であり、わたしの真の似姿なのです。」
1921年7月20日
水と「神のご意志」のたとえ
いつもの状態のまま、私はひどく苦い思いを抱き、心の中でこう言いました。
「私に残されているのは、ただあなたのご意志だけです。
私にはもう何も残っていません。
すべてが消え失せてしまいました」。
すると、私の内奥で働かれる愛しいイエスが私にこう言われました。
「娘よ、あなたに残されるべきものは、ただわたしの『意志』だけです。
それは水にたとえることができます。
水は海や川、井戸には豊かに存在しているように見えますが、それ以外の地表には水がないかのように思えます。
しかし実際には、水に浸されていない場所など地球上には一箇所もなく、水の助けなしに建てられた建物などひとつもなく、水が主要な役割を果たしていない食べ物もひとつも存在しません。
もし水がなければ、食べ物は乾ききってしまい、人は飲み込むことができないでしょう。
水が秘めている力はあまりにも強大で、もし海岸線という制約から解き放たれて自由に溢れ出せば、全地球を荒廃させ、恐怖に陥れることでしょう。
わたしの『意志』は、この水以上のものです。
確かに、ある場所や時代、状況においては、広大な海や川、井戸の中に凝縮されているかのように見えるでしょう。
しかし、最大のものから最小のものに至るまで、わたしの『意志』が流れ込み、主要な位置を占めていないものなど何ひとつないのです。
たとえそれが隠されていたとしても――ちょうど水が地中に隠れ、目には見えなくても植物を成長させ、その根にいのちを与えているように――そうなのです。
しかし、わたしの愛が『意志の時代』――被造物にとって最大の恵みをもたらす新しい時代――を到来させるとき、わたしの『意志』という海や川はあふれ出すでしょう。
そして、その巨大な波が立ち上がり、すべてをわたしの『意志』の中へと巻き込んでいくのです。
もはや隠されたままではなく、その轟く波は誰の目にも明らかとなり、すべての人に触れることになるでしょう。
その奔流に抗おうとする者は、いのちを失う危険にさらされることになるのです。
今、あなたにはわたしの『意志』だけが残されているのですから、あなたはあらゆる善の中で第一の地位を占める水のような存在となっています。
そして、わたしの『意志』がその岸辺からあふれ出すとき、わたしの『意志』の中に融合したあなたの意志は、天においても地においても、すべてのことにおいて第一の地位を占めることになるでしょう。
これ以上、何を望むというのですか?」
1921年7月26日
神のご意志は、魂にとって単なる「いのち」以上のものです。
愛するイエスは、ご自身の聖なるご意志について私に語り続けておられます。
「わたしの娘よ、もし太陽が宇宙の王であり、その光でわたしの威光を、その熱でわたしの愛と正義を象徴しているとするなら――実際、太陽は実りを生み出そうとしない大地に出会えば、その灼熱の息吹で大地を枯らし、不毛なものにしてしまうほどです――水は『大地の女王』と呼ぶことができます。
なぜなら、水はわたしの意志を象徴しており、水が入り込まない場所はなく、水を必要とせずに生きられる被造物は存在しないからです。
人は太陽なしでも生きられるかもしれませんが、水なしでは誰も生きることはできません。
水はあらゆるものに入り込みます。
人の血管や内臓にさえ、そして大地の深淵にさえ入り込むのです。
水は物言わぬ沈黙のうちに、絶え間なくその流れを続けます。
水は単なる女王であるだけでなく、大地の『魂』のようなものだと言えるでしょう。水がなければ、大地は死体のようなものになってしまうからです。
わたしの意志もまたおなじです。
それは単なる女王ではなく、すべての被造物にとって魂以上の存在です。
それは、あらゆる鼓動の、そして心のあらゆる繊維の『いのち』なのです。
わたしの意志は水のように、あらゆるものの内を流れています。
ある時は沈黙し、隠れ、またある時は脈打ち、目に見える形でです。
人はわたしの光、わたしの愛、わたしの恵みから自分を切り離すことはできるかもしれませんが、わたしの意志から切り離すことは決してできません。
それは、水なしで生きようとするものなのです。
確かに、水を憎む狂人はいるかもしれません。
しかし、たとえ憎み、愛さなかったとしても、その人は水を飲まざるを得ないでしょう。
水か、さもなくば死ぬか、そのどちらかです。
わたし意志についても同じことが言えるでしょう。
わたしの意志はすべてのもののいのちであるため、被造物は愛をもって、あるいは憎しみをもって、それを内に抱き続けることになります。
たとえ本意ではなくとも、血管を流れる血のように、わたしの意志を自らの内に流さざるを得なくなるのです。
そして、わたしの意志から自分を切り離そうとする者は、自らの魂を自ら殺める者のようになるでしょう。
それでもなお、わたしの意志は彼らを見捨てはしません。
わたしの意志が本来持っている恵みの道を彼らのためにたどることができない以上、彼らのために正義の道をたどることになるのです。
もし人が、わたしの意志を行なうこと、あるいは行わないことが何を意味しているのかのかを知っているなら、わたしの意志から、ほんの一瞬たりとも自らを切り離そうと考えるだけで、すべての者が皆、恐怖に震え上がることでしょう」
1921年8月9日
「神のご意志」においてなされた行ないの効果。
機械のたとえ。
いつもの状態のまま、私は自分自身の外に出て、広大な海の中にいることに気づきました。
そこにはひとつの機械があり、そのエンジンが動くと、機械のあらゆる側面から水が噴き出していました。
天へと昇ったその水の波は、すべての聖人や天使たちに降り注ぎ、永遠なる御方のみ座に達して、その御足もとに激しく注ぎ込まれ、再びおなじ海の深みへと降りていきました。
私はそれを見て驚き、心の中でこう言いました。
「この機械は何だろう?」
すると、まさにその海から発せられた光が私にこう告げました。
「その海はわたしの意志であり、機械はわたしの意志の中に生きる魂であり、エンジンは神の意志の中で働く人間の意志です。
魂がわたしの意志の中で特別な意向を抱くたびに、エンジンはその機械を動かします。
わたしの意志は、天の祝福された者たちにとっても、またこの機械にとってもいのちそのものなのですから、この機械から湧き出るわたしの意志が天に入り、光と栄光を放ちながら、すべての人々やわたしのみ座にまで降り注ぎ、そして地上の『わたしの意志』という海へと再び降りていき、旅路にある魂たちの益となることは、何ら不思議なことではありません。
わたしの意志は至る所にあり、その意志の中でなされた行ないもまた、天と地を問わず至る所へと流れていきます。
それらは過去へと流れます――わたしの意志は以前から存在していたからです。
現在へと流れます――わたしの意志はその活動を何ら失っていないからです。
そして未来へと流れます――それは永遠に存在するからです。
わたしの意志における行ないとは、なんと美しいことでしょう!
わたしの意志には常に新しい喜びが含まれているため、これらの行ないは、天の祝福された者たちにとっても新しい喜びとなります。
それらは、わたしの意志の中でなされなかった聖人たちの行ないの代わりとなり、すべての被造物にとって新しい恵みとなるのです。」
その後、私は愛するイエスにお会いできなかったためにひどく思い悩んでいましたが、私の内におられたイエスは私を腕に抱きしめ、こう言われました。
「わたしの娘よ、なぜそれほど思い悩むのですか?
わたしこそが、その海そのものではありませんか。」





