《「天国の書」第13巻》

 

 

 

1921年6月12日
神がご自身の「いのち」を見出すその場所に、神は立ち止まり、永遠に住まわれます。

そのとき神は、天地創造のみ業においてではなく、ご自身の「いのち」のうちに憩われるのです。

魂こそが、神のご意志の中心でなければなりません。


いつもの状態にある私に、常に愛すべきイエスが、ご自身の聖なるご意志について語り続けてくださっています。


「愛する娘よ、わたしの意志から生まれなさい。

わたしはあなたを、星々で飾られた空にはしたくありません。

もしそうであったなら、わたしはそこに自分の業を見出すでしょうが、わたし自身を見出すことはできないため、それだけでは満足しないでしょう。

また、あなたを太陽にもしたくありません。

太陽であれば喜びを見出すでしょうし、わたしの光と熱の影を見出すこともできるだでしょうが、やはりわたし自身を見出すことはできないため、わたしはそこを通り過ぎてしまうでしょう。

さらに、あなたを花や植物や果実で彩られた大地にもしたくありません。

たとえそれがわたしを喜ばせるものであっても――そこにわたしの香りの息吹や、わたしの甘美さの痕跡、わたしの創造のみ手の妙技を見出すことができるとしても――要するに、わたしは自分のみ業を見出すだけで、わたしの『いのち』を見出すことはできないからです。

それゆえ、わたしはすべてを通り過ぎ、立ち止まることなくさまよい続けるでしょう。何を見出すために、でしょうか? 

わたしの『いのち』を見出すためです。

では、どこでわたしの『いのち』を見出すのでしょうか?

それは、わたしの意志のうちに生きる魂の中においてです。

だからこそ、わたしはあなたを空や太陽や花咲く大地にはしたくないのです。

わたしの意志の中心であってほしいのです。

わたしが自分の『いのち』を見出すその場所に、わたしは立ち止まり、永遠に住まうからです。

そのときはじめて、わたしは満ち足りることでしょう。

わたしは天地創造のときのように自分のみ業のうちに憩うのではなく、わたし自身の『いのち』のうちに憩うことになるのです。

知っておきなさい。

あなたのいのちは『フィアット(「然り、なれ」という神のみ旨)』でなければなりません。

わたしの『フィアット』があなたを光の中へ送り出しました。

あなたは創造主の『フィアット』を胎内に宿す気高い女王のように、そのおなじ『フィアット』の翼に乗って人生の野を歩まねばなりません。

そして、地上の至る所にわたしの意志の種を蒔き、わたしの『いのち』の拠点を他にいくつも築き上げたのち、天にあるわたしの『フィアット』へと戻ってくるのです。

わたしに忠実でありなさい。

そうすれば、わたしの意志があなたのいのちとなり、あなたを導く手となり、歩むための足となり、語るための口となるでしょう。

要するに、わたしの意志があなたのすべてを補い、満たすのです。」

 

 

 

1921年6月28日
神のご意志のうちに生きる魂は、神が行なうことをすべて行ないます。

真に統治するとは、神によって創造された何ものからも除外されないということです。


私は自分自身のすべてを神のご意志に注ぎ込んでいました。

すると、愛しいイエスが私にこう言われました。

 

「わたしの娘よ、わたしの意志のうちに生きる魂は、あらゆる人、あらゆるものの反映です。

彼らはすべてのものに反映されているため、その結果として、すべてのものの反映を受け取ります。

そして、わたしの意志はすべてのもののいのちであるため、彼らはわたしの意志のうちにあって、すべてのものにいのちを与えるべく駆け巡るのです。

ですから、無生物や植物でさえ彼らの反映を受け取り、彼らもまた全被造物の反映を受け取ります。

彼らはわたしが創造したすべてのものと調和し、わたしの意志のうちにあってすべてに与え、すべてと友であり、姉妹であり、すべてから愛と栄光を受け取るのです。

わたしの意志は彼らをわたしと切り離せないものとします。

それゆえ、わたしが行なうことは何であれ、彼らもまた行なうのです。

わたしの意志は、わたしと異なることを行なうということを知りません。

『わたしの意志の国』とは『統治すること』を意味します。

ですから彼らは皆、女王なのです。

しかし、真に統治するとは、わたしが創造した何ものからも除外されないということなのです。」

 

 

 

1921年7月14日
太陽があらゆる自然のいのちを形作るように、「神のご意志」は魂のいのちを形作ります。


私の意志が「永遠のご意志」の中に浸っていたとき、測り知れない光が私に理解を与え、次のように語りかけてきました。


「わたしの娘よ、わたしの意志の中に生きる者には、太陽にさらされた大地とおなじことが起こります。

あらゆる被造物の王である太陽はすべてのものの上にあり、自然界全体が、自らのいのち、美、そして豊穣さを形作るものを太陽に求めているかのように見えます。

花は太陽に、その美しさ、色、香りを求めます。

そして花が咲き開き、色や香りを身にまとい、自らのいのちを形作るために太陽から熱と光を受け取ろうと、その口を開くのです。

植物は太陽に、成熟と甘み、そして風味を求めます。

すべてのものが太陽からそのいのちを求めているのです。

わたしの意志は、太陽以上のものです。

魂がその燃えるような光線の中に入ると、いのちを受け取ります。
そしてわたしの意志の中で自らの行ないをくり返すにつれて、ある時はわたしの美しさを、ある時はわたしの甘みと豊穣さを、またある時はわたしの善と聖性を受け取っていくのです。
ですから、わたしの意志の光線に入るたびに、魂はさらに多くの神聖なる特質を受け取るのです。

ああ、なんと多くの異なる美しさ、なんと鮮やかな色彩、なんと多くの香りを魂は身につけることでしょう!

もし他の被造物がこれらの魂を見ることができたとしたら、彼らは地上に楽園を見出すことでしょう――それほどまでに、その美しさは偉大なのです。

彼らはわたしの反映であり、わたしの真の似姿なのです。」

 

 

 

1921年7月20日
水と「神のご意志」のたとえ


いつもの状態のまま、私はひどく苦い思いを抱き、心の中でこう言いました。

「私に残されているのは、ただあなたのご意志だけです。

私にはもう何も残っていません。

すべてが消え失せてしまいました」。

すると、私の内奥で働かれる愛しいイエスが私にこう言われました。

 

「娘よ、あなたに残されるべきものは、ただわたしの『意志』だけです。

それは水にたとえることができます。

水は海や川、井戸には豊かに存在しているように見えますが、それ以外の地表には水がないかのように思えます。

しかし実際には、水に浸されていない場所など地球上には一箇所もなく、水の助けなしに建てられた建物などひとつもなく、水が主要な役割を果たしていない食べ物もひとつも存在しません。

もし水がなければ、食べ物は乾ききってしまい、人は飲み込むことができないでしょう。

水が秘めている力はあまりにも強大で、もし海岸線という制約から解き放たれて自由に溢れ出せば、全地球を荒廃させ、恐怖に陥れることでしょう。

わたしの『意志』は、この水以上のものです。

確かに、ある場所や時代、状況においては、広大な海や川、井戸の中に凝縮されているかのように見えるでしょう。

しかし、最大のものから最小のものに至るまで、わたしの『意志』が流れ込み、主要な位置を占めていないものなど何ひとつないのです。

たとえそれが隠されていたとしても――ちょうど水が地中に隠れ、目には見えなくても植物を成長させ、その根にいのちを与えているように――そうなのです。

しかし、わたしの愛が『意志の時代』――被造物にとって最大の恵みをもたらす新しい時代――を到来させるとき、わたしの『意志』という海や川はあふれ出すでしょう。

そして、その巨大な波が立ち上がり、すべてをわたしの『意志』の中へと巻き込んでいくのです。

もはや隠されたままではなく、その轟く波は誰の目にも明らかとなり、すべての人に触れることになるでしょう。

その奔流に抗おうとする者は、いのちを失う危険にさらされることになるのです。

今、あなたにはわたしの『意志』だけが残されているのですから、あなたはあらゆる善の中で第一の地位を占める水のような存在となっています。

そして、わたしの『意志』がその岸辺からあふれ出すとき、わたしの『意志』の中に融合したあなたの意志は、天においても地においても、すべてのことにおいて第一の地位を占めることになるでしょう。

これ以上、何を望むというのですか?」

 

 

 

1921年7月26日
神のご意志は、魂にとって単なる「いのち」以上のものです。

 

 

愛するイエスは、ご自身の聖なるご意志について私に語り続けておられます。

 

「わたしの娘よ、もし太陽が宇宙の王であり、その光でわたしの威光を、その熱でわたしの愛と正義を象徴しているとするなら――実際、太陽は実りを生み出そうとしない大地に出会えば、その灼熱の息吹で大地を枯らし、不毛なものにしてしまうほどです――水は『大地の女王』と呼ぶことができます。

なぜなら、水はわたしの意志を象徴しており、水が入り込まない場所はなく、水を必要とせずに生きられる被造物は存在しないからです。

人は太陽なしでも生きられるかもしれませんが、水なしでは誰も生きることはできません。

水はあらゆるものに入り込みます。

人の血管や内臓にさえ、そして大地の深淵にさえ入り込むのです。

水は物言わぬ沈黙のうちに、絶え間なくその流れを続けます。

水は単なる女王であるだけでなく、大地の『魂』のようなものだと言えるでしょう。水がなければ、大地は死体のようなものになってしまうからです。

わたしの意志もまたおなじです。

それは単なる女王ではなく、すべての被造物にとって魂以上の存在です。

それは、あらゆる鼓動の、そして心のあらゆる繊維の『いのち』なのです。

わたしの意志は水のように、あらゆるものの内を流れています。

ある時は沈黙し、隠れ、またある時は脈打ち、目に見える形でです。

人はわたしの光、わたしの愛、わたしの恵みから自分を切り離すことはできるかもしれませんが、わたしの意志から切り離すことは決してできません。

それは、水なしで生きようとするものなのです。

確かに、水を憎む狂人はいるかもしれません。

しかし、たとえ憎み、愛さなかったとしても、その人は水を飲まざるを得ないでしょう。

水か、さもなくば死ぬか、そのどちらかです。

わたし意志についても同じことが言えるでしょう。

わたしの意志はすべてのもののいのちであるため、被造物は愛をもって、あるいは憎しみをもって、それを内に抱き続けることになります。

たとえ本意ではなくとも、血管を流れる血のように、わたしの意志を自らの内に流さざるを得なくなるのです。

そして、わたしの意志から自分を切り離そうとする者は、自らの魂を自ら殺める者のようになるでしょう。

それでもなお、わたしの意志は彼らを見捨てはしません。

わたしの意志が本来持っている恵みの道を彼らのためにたどることができない以上、彼らのために正義の道をたどることになるのです。

もし人が、わたしの意志を行なうこと、あるいは行わないことが何を意味しているのかのかを知っているなら、わたしの意志から、ほんの一瞬たりとも自らを切り離そうと考えるだけで、すべての者が皆、恐怖に震え上がることでしょう」

 

 

 

1921年8月9日
「神のご意志」においてなされた行ないの効果。

機械のたとえ。


いつもの状態のまま、私は自分自身の外に出て、広大な海の中にいることに気づきました。

そこにはひとつの機械があり、そのエンジンが動くと、機械のあらゆる側面から水が噴き出していました。

天へと昇ったその水の波は、すべての聖人や天使たちに降り注ぎ、永遠なる御方のみ座に達して、その御足もとに激しく注ぎ込まれ、再びおなじ海の深みへと降りていきました。

私はそれを見て驚き、心の中でこう言いました。

「この機械は何だろう?」

すると、まさにその海から発せられた光が私にこう告げました。

 

「その海はわたしの意志であり、機械はわたしの意志の中に生きる魂であり、エンジンは神の意志の中で働く人間の意志です。

魂がわたしの意志の中で特別な意向を抱くたびに、エンジンはその機械を動かします。

わたしの意志は、天の祝福された者たちにとっても、またこの機械にとってもいのちそのものなのですから、この機械から湧き出るわたしの意志が天に入り、光と栄光を放ちながら、すべての人々やわたしのみ座にまで降り注ぎ、そして地上の『わたしの意志』という海へと再び降りていき、旅路にある魂たちの益となることは、何ら不思議なことではありません。

わたしの意志は至る所にあり、その意志の中でなされた行ないもまた、天と地を問わず至る所へと流れていきます。

それらは過去へと流れます――わたしの意志は以前から存在していたからです。

現在へと流れます――わたしの意志はその活動を何ら失っていないからです。

そして未来へと流れます――それは永遠に存在するからです。

わたしの意志における行ないとは、なんと美しいことでしょう!

わたしの意志には常に新しい喜びが含まれているため、これらの行ないは、天の祝福された者たちにとっても新しい喜びとなります。

それらは、わたしの意志の中でなされなかった聖人たちの行ないの代わりとなり、すべての被造物にとって新しい恵みとなるのです。」

その後、私は愛するイエスにお会いできなかったためにひどく思い悩んでいましたが、私の内におられたイエスは私を腕に抱きしめ、こう言われました。

 

「わたしの娘よ、なぜそれほど思い悩むのですか? 

わたしこそが、その海そのものではありませんか。」

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

《「天国の書」第13巻》


I.M.I.

Fiat(フィアット)


1921年5月1日
人の意志は、創造主と被造物の間に隔たりを生じさせます。

しかし神のご意志のうちに生きる者にとっては、すべてが調和しています。


いつもの状態のまま、私は自分自身の外に出て行き、大勢の人々の中にいることに気づきました。

高い所には「御母なる女王」がおられ、人々に語りかけながら涙を流しておられました。

あまりに激しく泣かれたため、膝に抱えておられた一束のバラが、その涙で濡れるほどでした。

私は、御母が何をおっしゃっているのか理解できませんでしたが、人々が騒乱を起こそうとしており、天の御母が涙ながらに彼らに静まるよう懇願しておられることだけはわかりました。

やがて御母は、そのバラの花束の中から一輪を手に取り、大勢の人々の中にいる私を指さして、そのバラを私の方へ投げてくださいました。

私がそれを見ると、そのバラには愛する御母の涙の雫が宿っており、その涙は私に、諸民族の平和のために祈るよう促していました。

その後、私は愛するイエスと共におり、諸民族の平和のためにイエスに祈りを捧げていました。

そして、主は私をご自身のもとへと引き寄せ、ご自身の至聖なるご意志についてこう語りかけられました。

 

「わたしの娘よ、わたし意志には創造の力が宿っています。

わたしの意志が万物にいのちを与えたように、それを滅ぼす力もまた、わたしの意志にはあるのです。

それとおなじように、わたしの意志の中に生きる魂もまた、善にいのちを与え、悪を死に至らせる力を持っています。

その無限の広がりの中で、魂は過去へと遡り、わたしの栄光が欠けている場所、償われていない侮辱、わたしに捧げられていない愛があるところならどこへでも行き、わたしの栄光の欠如を満たします。

彼女はわたしのためにもっとも美しい償いを捧げ、すべての者の代わりにわたしに愛を捧げるのです

わたしの意志において彼女は現在に広がり、未来の世紀へと伸びていき、あらゆる場所で、すべての人のために、被造物がわたしに負っているものをわたしに捧げます。

わたしの意志に生きる魂の中に、わたしはわたしの力、わたしの愛、わたしの聖性の響きを感じます。

わたしは、わたしのひとつひとつの行ないの中に、彼女の行ないの響きを感じるのです。

彼女は至る所を――わたしの前を、わたしの後ろを、そしてわたしの内側さえも、駆け巡ります。

わたしの意志があるところには、彼女の意志もあります。

わたしの行ないが増え広がれば、彼女の行ないもまた増え広がります。

被造物と創造主の間に不調和をもたらすのは、ただ人間の意志だけです。

人間の意志によるたったひとつの行ないが、天と地の間に混乱を引き起こし、創造主と被造物の間に隔たりを生じさせるのです。

一方、わたしの意志に生きる者にとって、すべてが調和しています。

彼女の事柄とわたしの事柄は互いに調和し、わたしは地上で彼女と共にあり、彼女は天国でわたしと共にいます――関心事もひとつ、いのちもひとつ、意志もひとつなのです。

見なさい、被造物は何ひとつとしてわたしの意志から離れませんでした。

空は常に青く星に満ち、太陽は光と熱に満ちています。

すべての被造物は完全な調和の中にあり、それぞれが互いを支え合っています。

それは常に美しく、瑞々しく、若々しいのです。

決して老いることがなく、その美しさを少しも失うことがありません。

それどころか、日々いっそう威厳を増して立ち昇り、すべての被造物に甘美な魅力を与えているように見えます。

もし人がわたしの意志から離れていなかったなら、人もまたそのようになっていただでしょう。

そして、わたしの意志に生きる魂たちもまた、そのようです。

彼女たちは新しい天であり、新しい太陽、そして花々に満ちた新たな地球であり――それらはさらに、美と魅惑に満ち、いっそう多彩なものとなるでしょう。」

 

 

 

1921年5月21日
イエスは、自身のご意志のうちに生きる魂の中に憩いを見出されます。


いつものようにしていたとき、常に愛すべきイエスが私の腕の中に現われられ、憩おうとされているお姿を見せてくださいました。

私はイエスを胸に抱きしめ、こう申し上げました。

 

「私の愛する御方よ、私に一言おっしゃってください。

なぜ黙っておられるのですか?」

 

するとイエスは言われました。

 

「愛する娘よ、わたしには憩いが必要なのです。

あなたに多くのことを語った後、わたしはあなたのうちに、わたしのみ言葉がもたらす最初の実りを見たいのです。

あなたはわたしが教えたことを実行しなさい。

そうすればわたしは憩うことができるのです。

そしてあなたがわたしの教えを実践したなら、わたしは再び戻ってきて、より高く崇高な事柄をあなたに語るでしょう。

それは、あなたのうちにより美しい憩いを見出すためにです。

それに、もしわたしが自分の意志のうちに生きる魂の中で憩わないとしたら、一体誰の中に憩いを求めることができるでしょう?

 わたしの意志のうちに生きる魂だけが、わたしに憩いを与えることができるのです。わたしの意志のうちに生きることは、わたしのためのひとつの部屋を形作り、その意志のうちに行なわれる行ないは、わたしの寝台を形作ります。

くり返される行ないと、それを絶えずくり返すその不変の姿勢こそが、わたしの眠りを誘う子守歌であり、調べであり、安らぎの薬なのです。

しかし、わたしが眠っている間も、わたしはあなたを見守っています。

あなたの意志がわたしの意志のあふれ出たものとなり、あなたの思考がわたしの知性のあふれ出たものとなり、あなたの言葉がわたしの言葉のあふれ出たものとなり、あなたの心がわたしのみ心のあふれ出となるように。

それゆえ、たとえわたしが語るのを聞かなくとも、あなたはわたしの中に完全に融合しているため、わたしが望み、行なうこと以外には、何も望まず、何も考えず、何も行なわないようになるのです。

ですから、あなたがわたしの意志のうちに生きている限り、あなたのうちに起こるすべてのことはわたし自身であると確信しなさい。」

 

 

 

1921年6月2日
地上に来られた際、イエスはご自身の「ご意志」について、ほとんど、あるいはごくわずかしか語られませんでした。


私の愛するイエスがその至聖なるご意志について私に示されたことをすべて出版したいと言われ、私はひどく思い悩んでいました。

その苦悩のあまり、私は落ち着きを失っていました。

すると、愛するイエスが私の内奥でこう言われました。

 

「あなたが自分で勝手に判断しようというのですか?

 それはおもしろい考えです。

ある教師が自分の教えをたったひとりの生徒に書き取らせたからといって、その教えや、それによってもたらされる善を公表してはいけないというのですか?

それは不条理ですし、教師を悲しませることになるでしょう。

それに、そこにはあなた自身のものは何もありません。

すべてはわたしの教えなのです。

あなたはただの書記にすぎません。

それなのに、わたしがあなたを選んだという理由だけで、わたしの教えを、ひいてはわたしの栄光をも埋もれさせてしまおうというのですか?」

それでもなお、私は落ち着きませんでした。

すると、常に愛すべきイエスが私の内奥から現われられ、その腕を私の首に回してしっかりと抱きしめ、こう言われました。

 

「愛する娘よ、落ち着きなさい

落ち着いて、あなたのイエスを喜ばせなさい。」

そこで私は言いました。

 

「私の愛する御方、この犠牲はあまりにも辛すぎます。

あなたとわたしの間で交わされたすべてのことが世に出ると思うだけで、死ぬような思いがしますし、その苦しみに心は張り裂けそうです。

私が書き記したのは、ただ従うため、そしてあなたを不快にさせてはならないという恐れからだけでした。

それなのに、ごらんください。

従順であるということが、私をこれほど苦しい迷路に追い込んでいるのです

わたしのいのちよ、わたしを憐れみ、その聖なるみ手をこのことに添えてください。」

するとイエスは言われました。

 

「娘よ、もしわたしがこの犠牲を望むなら、あなたはそれを捧げる覚悟をしなければなりません。

わたしに対して何ひとつ拒んではならないのです。

さて、知っておきなさい。

わたしが地上に来たのは、天の教えを明らかにし、わたしの人間性やわたしの故郷、そして被造物が天に至るために保つべき秩序――一言で言えば『福音』――を知らせるためでした。

しかし、わたしは自分の『意志』については、ほとんど、あるいはごくわずかしか語りませんでした。

わたしはそれにはほとんど触れず、ただ、わたしが何よりも大切にしていたのは御父のご意志であるということだけを理解させたのです。

わたしはその性質や崇高さ、偉大さ、そして被造物がわたしの意志の中で生きることによって受ける大きな恵みについては、ほとんど何も言いませんでした。

なぜなら、被造物は天の事柄においてあまりにも幼く、何も理解できなかったからです。

私はただ、『み旨が天で行われる通り、地にも行われますように(Fiat Voluntas Tua, sicut in coelo et in terra)』と祈ることを教えただけでした。

それは、被造物がわたしのこのみ旨を知り、愛し、行ない、それによってそこに含まれる賜物を受け取るための心の準備を整えるためだったのです。

さて、わたしが当時行うべきであったこと――すべての人に与えるはずだったわたしの意志についての教え――を、わたしはあなたに与えました。

ですから、それを人々に知らせることは、わたしが地上に到来した目的を果たすために、わたし自身が行なうはずだったことを補うことにほかならないのです。

それなのに、わたしが地上に来た目的を果たすことを望まないのですか?

ですから、わたしに任せておきなさい。

わたしがすべてを見守り、すべてを整えます。

あなたはただわたしに従い、平安でいなさい。」

 

 

 

1921年6月6日
神が行なうことのできる最大の奇跡とは、神のご意志のうちに生きる魂です。

 

 

私は祝福されたイエスの「聖なるご意志」の中に自分を融合させながら、こう考えました。

「創造のみ業と贖いのみ業、どちらがより偉大で、より多様で、より複雑なのだろうか?」

すると、常に愛すべきイエスは私にこう言われました。

 

「わたしの娘よ、贖いのみ業は創造のみ業よりも偉大であり、より多様で複雑なものです。

いえ、それどころか、贖いのみ業の各々の行ないは、創造のみ業を取り囲む広大な海のようなものであり、それほどまでに偉大なのです。

贖いのみ業に取り囲まれた創造のみ業は、贖いのみ業という広大な海に囲まれた小さな小川に過ぎません。

さて、わたしの意志の中に生き、わたしの『み旨(意志)が行なわれますように(Fiat Voluntas Tua)』を自らのいのちとする者は、贖いのみ業というこの広大な海の中を流れ、それらと共に自らを広げ、拡大していきます。

そのあり方は、創造のみ業そのものを凌駕するほどです。

それゆえ、わたしの『フィアット(み旨)』のいのちだけが、創造のみ業に真の誉れと栄光を捧げることができます。

なぜなら、わが『フィアット』は至る所で増え広がり、限界を持たないからです。

一方、創造のみ業には限界があり、今の大きさよりも大きくなることはできません。

わたしの娘よ、わたしの全能の力が成し遂げることができる最大の奇跡、それはわたしの『フィアット』の中に生きる魂です。

聖にして広大、かつ永遠なるわたしの意志が、ある被造物の中に降り立ち、わたしの意志と彼女の意志をひとつに合わせ、わたしが彼女をわたしの中に融合させて、彼女の行なうあらゆること――たとえ極めて些細なことであっても――のいのちとなること、これを些細なことだと思いますか?

つまり、彼女の鼓動、言葉、思考、動作、呼吸は、その被造物の内におられる生ける神のものとなるのです。

外見上はひとりの被造物に見えても、彼女はその内に天と地を秘めています。

わたしの『フィアット』以上に偉大な恵み、これほど驚くべき奇跡、そしてこれほど英雄的な聖性を、わたしは与えることができないでしょう。

見なさい、創造のみ業は偉大であり、贖いのみ業はさらに偉大です。

しかし、被造物をわたしの意志の中に生きさせるわたしの『フィアット』は、その両方をも凌駕するのです。

実際、創造においてわたしの『フィアット』はわたしのみ業を創造し生み出しましたが、被造物の中にいのちの中心として留まることはありませんでした。

贖いのみ業においては、わたしの「フィアット」はわたしの人間性においていのちの中心として留まりましたが、被造物においていのちの中心として留まることはありませんでした

むしろ、彼らの意志がわたしの意志と結びつかなければ、彼らはわたしの贖いの実りを無にしてしまうのです。

しかし、わたしの「フィアット(「然り、なれ」という意志)」によって――すなわち被造物をわたしの意志のうちに生きさせることによって――わたしは被造物のいのちの中心としてとどまります。

それゆえ、以前にも言ったように、わたしはあなたにこうくり返します。

「フィアット・ヴォルンタス・トゥア(み旨が行われますように)」こそが、創造のみ業の真の栄光となり、贖いのみ業の豊かな実りを成就させるものとなるのです。

わたしがあなたに望むのは、ただ、わたしの「フィアット」があなたのいのちとなり、あなたがわたしの意志以外には何も見ないこと、それだけです。

なぜなら、わたしはあなたの生命の中心でありたいと願っているからです。」

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

《「天国の書」第12巻》

 

 

 

1921年3月12日
「神のご意志」は糧となる「穀粒」です。

ルイサは、それを包み守る「藁(わら)」です。


私は心の中でこう言いました。

「私の御母なる女王は、ご自身の胎内でイエスの人間性を形成するために、その血を捧げられました。

では私は、自分の中に『神のご意志のいのち』を形成するために、何を捧げればよいのだろうか?」

すると、愛すべきイエスは私にこう言われました。


「娘よ、あなたはわたしに『藁』を捧げなさい。

わたしがその『穀粒』となる『穂』を形成するためです。

そうすれば、わたしは自分の意志を、それを食したいと望むすべての魂を養う糧として与えるでしょう。

あなたは、その穀粒を保存する藁となるのです。」

 

これを聞いて、私は言いました。

 

「私の愛する御方よ、あなたに藁として仕えるという私の務めは、見栄えの悪いものです。

なぜなら藁は捨てられ、焼かれ、何の価値もないからです。」

 

するとイエスは言われました。


「しかし、藁は穀物の穂にとって必要なものです。

もし藁がなければ、穀粒は成熟することも増えることもできないでしょう。

そのあわれな藁は穀粒の衣となり、守り手となるのです。

もし焼けつくような太陽が照りつければ、藁は過剰な熱から穀粒を守り、しおれないようにします。

もし霜や雨、あるいは他の何かが穀粒を襲えば、藁はそのすべての災いを自ら引き受けます。

ですから、藁こそが穀粒のいのちであると言えるのです。

藁が捨てられ焼かれるのは、穀粒から切り離された時のことです。

わたしの意志という穀粒は、増えたり減ったりするものではありません。

どれほどそこから取られようとも、一粒たりとも減ることはないのです。

ですから、あなたの藁はわたしにとって必要なものとなります。

それはわたしにとって衣となり、守り手となり、わたしの意志の権利を守るものとなるでしょう。

それゆえ、あなたがわたしから引き離されるという危険は決してないのです。」

 

しばらくして、主は戻ってこられました。

そこで私は主にこう申し上げました。

 

「私のいのちであるイエスよ、もしあなたの『ご意志』のうちに生きる魂が虹となるのなら、その平和の虹はどのような色を帯びているのでしょうか?」

 

すると、限りない善意に満ちたイエスは、こうおっしゃいました。

 

「その特質と色は、完全に神聖なものとなるでしょう。

それらは、愛、善、知恵、力、聖性、慈悲、正義という、最も美しく輝かしい色を放つことになります。

これら多様な色は夜の闇を照らす光のようであり、その力によって、被造物の心に『日』を昇らせるのです。」

 

 

 

1921年3月17日
イエスはルイサを、ご自身の「人間性」が地上で担っていた務めから、ご自身の「ご意志」がその「人間性」の内において担っていた務めへと移行させられます。


私は愛するイエスにこう申し上げた。

 

「どうしてなのかわかりませんが、あなたの聖なるご意志によって与えてくださるとおっしゃるものが増えれば増えるほど、私は自分をみじめで醜いものだと感じるのです。

もっと気分が良くなるはず、もっと善くなるはずなのに、実際は全く逆なのです。」

するとイエスは私にこう言われました。

 

「娘よ、あなたの内でわたしの意志という『穀粒』が育てば育つほど、あなたは自分の『藁(わら)』のみじめさを強く感じるようになるのです。

実際、穂が形成されはじめるとき、穀粒と藁はひとつのものですが、穂のいのちが形成され続け、穀粒が成熟するにつれて、藁は穀粒から離れ、ただ穀粒を守るものとして残るようになります。

それゆえ、あなたがみじめさを感じれば感じるほど、わたしの意志という穀粒があなたの内で形成され、完全な成熟に近づいているということなのです。

あなたの内にある藁とは、あなたの弱い本性にほかなりません。

その本性は、わたしの意志の聖性と気高さと共に生きることで、自らのみじめさをいっそう強く感じるのです。」

そしてイエスはこう付け加えられました。

 

「愛する者よ、これまであなたは、わたしの人間性が地上で担っていた務めを、わたしのみ前で行なってきました。

今、わたしはあなたの務めを変え、より気高く、より広大な別の務めを与えたいと思っています。

それは、わたしの人間性の内においてわたしの意志が担っていた務めです。

これがいかに高く、崇高なものであるかを見てみなさい。

わたしの人間性にははじまりがありますが、わたしの意志は永遠です。

わたしの人間性は限られ、境界がありますが、わたしの意志には限界も境界もなく、計り知れないほど広大です。

これ以上に気高く、優れた務めをあなたに与えることはできません。」

これを聞いて、私は言いました。

 

「愛するイエスよ、なぜ私にそのような務めを与えようとなさるのか、その理由が見当たりません。

それに、そのような大きな恵みを受けるに値するようなことを、私は何ひとつしていないのです。」

 

するとイエスは言われました。

 

「その理由は、すべてわたしの愛、あなたの小ささ、そして、ただイエスだけを慕う赤子のようにわたしの腕の中で生きているということ、さらには、わたしが求めたどんな犠牲も決して拒まなかったという事実にあるのです。 

わたしは、偉大に見えるものに心を動かされることはありません。

なぜなら、偉大に見えるものには。常に人間的なものが混じっているからです。

しかし、小さなもの――外見上は小さくとも、それ自体は偉大なもの――には心を動かされます。

そして、あなたは、わたしが自分の『意志』においてあなたに特別な使命を授けようとしていたことを理解しているはずでし。

絶えずあなたにわたしの意志について語り、その驚くべき効果を理解させたこと――これほどまでに誰かに対して行なったことは、これまで一度もありませんでした……。

わたしはあなたに対して、医学であれ歴史であれ、あるいは他の何であれ、弟子を完璧な者にしようと望む教師のように振る舞いました。
教師は他のことなど何も語れないかのように、ひたすらその点についてくり返し説くものです。

わたしもあなたに対してそうしました。
他のすべてのことを知らないかのように、『神の意志の教師』としての態度をとったのです。

そしてあなたを十分に指導した後、わたしはあなたの使命を明らかにし、地上における『ご意志が行われますように(Fiat Voluntas Tua)』の成就が、あなたからはじまることを示しました。

勇気を持ちなさい、娘よ。

あなたが気落ちしているのが見えます。
恐れてはいけません。

わたしの意志のすべてが、あなたの助けとなり、支えとなるでしょうから」。

 

そう言いながら、主はご自分のみ言葉を裏付けられるかのように、その手でわたしの頭や顔、そして心をやさしく撫でられました。

そして、主は姿を消されました。

 

 

 

1921年3月23日
「神のご意志」は魂を小さくします。

ルイサはすべての者の中で最も小さいのです。


いつもの状態にあった私は、イエスと共に自分自身の外にいることに気づき、こう申し上げました。

 

「私の愛する御方よ、私があなたのご意志に入るために行なっていることを聞いてください。

それがお気に召すかどうか、見ていただきたいのです」。

 

そこで私は、ご意志に入る際にいつも唱えている言葉を口にしました――それについては別の場所ですでに述べましたので、ここではくり返す必要はないでしょう。

するとイエスは私に口づけをされ、私の言葉をよしとしてくださいました。

そしてこう言われました。

 

「娘よ、わたしの意志には、魂を小さくするという特別な力があります。

魂を極めて小さくし、わたしの意志からいのちを注いでもらわなければ生きていけないことを痛感するほどにするのです。

その小ささゆえに、わたしの意志がその行ないや歩みを授けてくれなければ、彼らは何ひとつ行ないも歩みもできません。

ですから、彼らは完全にわたしの意志に頼って生きるのです。

なぜなら、その小ささゆえに、彼らは自分自身のものや自己愛といった『荷物』を何ひとつ持っていないからです。

むしろ、彼らはすべてをわたしの意志から受け取ります――それを自分のために蓄えるのではなく、わたしに捧げるためです。

そして、あらゆるものを必要としているがゆえに、彼らはわたしの御旨の中に融合して生きるのです。

聞きなさい。

わたしは幾度となく地上を巡り、すべての被造物をひとりひとり見つめて、誰が最も小さいかを探し求めました。

多くの者の中から、わたしはあなたを見つけました――すべての者の中で最も小さいあなたを。

わたしはその小ささを気に入り、あなたを選びました。

わたしはあなたを天使たちに委ねました。

それは、彼らにあなたを守らせるためですが、それはあなたを大きくするためではなく、その小ささを保たせるためでした。

そして今、わたしはわたしの意志を成就させるという偉大なみ業をはじめたいと思います。

これによってあなたが偉大になることはないでしょう。

それどころか、わたしの意志はあなたをさらに小さくするでしょう。

そしてあなたは、あなたのイエスの小さな娘――わたしの意志の小さな娘――であり続けるのです。」

 

 

 

1921年4月2日
「神のご意志」において活動する魂は、すべての者のために捧げ、すべての者のために受け取ります。


私の貧しい心は、まるで打ちのめされたかのように呆然としており、感じていることを書き記す言葉が見つかりません。

もし私のイエスが私に書かせたいと望まれるなら、光によって私に注ぎ込まれることを、言葉として語ってくださるでしょう。

ただおぼえているのは、イエスが来られたときにこう言われたことです。

 

「わたしの娘よ、わたしの意志の中で祈り、愛し、償い、わたしに口づけし、わたしを崇める者において、わたしはあたかもすべての者がわたしに祈り、愛しているかのように感じます。

実際、わたしの意志はすべてを、そしてすべての人をその意志の中に包み込んでいるのですから、その魂はすべての者の口づけ、愛、崇拝をわたしに捧げることになります。そしてその魂の中にすべての人を見つめながら、わたしは、本来ならすべての人に与えるべきだけの口づけと愛を、その魂に与えるのです。

わたしの意志において魂は、わたしがすべての人に十分に愛され、口づけされ、崇められ、祈られるのを見ない限り、満足することはありません。

わたしの意志においては、物事を中途半端にすることはできず、完全なものでなければなりません。

そして、わたしの意志において活動する魂に、わたしは些細なものを与えることはできません。

むしろ、すべての人に十分なほどに満ち足りた、計り知れないものを与えるのです。わたしの意志において活動する魂に対して、わたしは10人の人間に仕事をさせようとした人のように振る舞います。

さて、その10人のうちのたったひとりがその仕事を引き受けると申し出て、他の者たちは皆拒否したとします。

それならば、そのひとりに、本来なら10人全員に与えるべきものをすべて与えるのは、公平なことではないでしょうか?

そうでなければ、わたしの意志において活動する者と、自分の意志において活動する者との間に、一体どんな違いがあるというのでしょうか?」

 

 

 

1921年4月23日
神の愛は、被造物のあらゆる悪に打ち勝つでしょう。

神は神聖なるご意志の中で行われた魂の行ないを通して、被造物の行ないをご覧になるのです。


私は今、極めて苦しい日々を過ごしています。

私の愛すべきイエスは、ご自身をほとんど隠してしまわれました。

なんという大きな苦しみ、なんと激しい責め苦でしょう!

私の心はただ、天空を超えた彼方、主のご意志の中にあり、この聖なるご意志を天空の下、人々のただ中へと運び、ひとりひとりに彼ら自身の「いのち」として与えたいと願っています。

私の心は、神聖なるご意志とすべての人々の人間的な意志とをひとつにするために、その間で葛藤しています。

さて、私が苦しみの極みにあったとき、私の優しいイエスが私の内奥でかすかに動かれ、両手を差し出して私の手をその手に取ると、内なる声でこう言われました。

 

「わたしの娘よ、勇気を持ちなさい。

わたしは来ます、必ず来ます。

あなたは、わたしの意志以外のことには一切関わらないようにしなさい。

地上のことは放っておきましょう。

彼らは悪を行なうことに疲れ果てるでしょう。

彼らは至る所で恐怖や戦慄、殺戮を撒き散らし続けるでしょうが、やがて終わりが訪れます。

わたしの愛が、彼らのあらゆる悪に打ち勝つのです。

ですから、あなたの意志をわたしの意志の中に置きなさい。

そしてあなたの行ないによって、すべての人々の頭上に第二の天を広げるのです。

そうすれば、わたしはあなたの『神聖な行ない』を通して被造物の行ないを見るでしょう――それらはすべてわたしのご意志から発しているがゆえに『神聖』なのです。

そしてあなたはわたしの永遠のご意志を天空の下へと降らせ、人間の意志による悪に打ち勝つよう促すことになるのです。

ですから、もしわたしの意志が降り、わたしの愛が勝利することを望むなら、あなたは天空を超えて昇ってそこに留まり、わたしの意志の中で自らの行ないを広げなければなりません。

そうすれば、わたしたちは共に降りていき、わたしの意志と愛をもって被造物に働きかけ、彼らがわたしたちに抵抗できないほどに彼らを圧倒することでしょう。

ですから、今は彼らに好きなようにさせておきなさい。

わたしの意志の中に生き、忍耐しなさい。」

 

 

 

1921年4月26日
「神のご意志」が被造物に対して仕掛ける戦い


私は苦しみの状態の中にいます。

愛するイエスはほんの少しの間おいでになり、私を強くご自身の方へ引き寄せながら、こう言われました。


「娘よ、くり返して言います。

地上に目を向けてはなりません。

彼らには好きなようにさせておきなさい。

彼らが戦いを望むなら、そうさせておけばよいのです。
彼らが疲れ果てたとき、わたしもまた、わたしの戦いを仕掛けることになるでしょう。

悪を行なうことへの倦怠感、幻滅、失望、そして被った喪失の数々が、彼らをわたしの戦いを受け入れる心構えへと導くはずです。

わたしの戦い、それは愛の戦いです。

わたしの意志が天から彼らの中へと降りて来ます。

わたしの意志の中で行なわれたあなたや他の人々のすべての行ないが、被造物に対して戦いを挑むことになるでしょう――しかし、それは流血を伴う戦いではありません。

それらは愛の武器をもって戦い、彼らに贈り物や恵み、そして平和を与えるのです。それらは、恩知らずな人間を驚嘆させるような、驚くべきものをもたらすでしょう。天の軍勢であるこのわたしの意志は、神の武器をもって人間を当惑させ、圧倒し、そして彼らに光を与えます。

それは悪を見るための光ではなく、わたしが彼らを豊かにしようと望んでいる贈り物や富を見るための光です。

わたしの意志の中で行なわれた行ないは、それらの中に『創造の力』を宿しており、人間の新たな救いとなるでしょう。

そして天から降りてきて、地上にあらゆる善をもたらすのです。

それらは新しい時代を、そして人間の不義に対する勝利をもたらすでしょう。

それゆえ、わたしの意志の中での行ないを増やし、武器や贈り物、恵みを形作りなさい。

そうすれば、それらが被造物の中へと降りていき、彼らに対して愛の戦いを仕掛けることができるようになるからです。」

 

それから、主はより痛ましい口調でこう付け加えられました。

 

「わたしの娘よ、わたしに起こることは、あわれな父親の身に起こることとおなじです。

その父親の邪悪な子どもたちは、彼を侮辱するだけでなく、彼を殺そうとさえします。

もし彼らがそうしないとしたら、それは単にできないからにすぎません。

さて、子どもたちが父親を殺そうとしているのですから、彼らが互いに殺し合い、敵対し、自らを困窮させ、ついには皆が死に瀕するような状態に陥るのも不思議ではありません。

さらに悪いことに、彼らは自分たちに父親がいることさえ忘れてしまっているのです。

では、この父親はどうするでしょうか?

自分の子どもたちに追放され、彼らが争い、傷つけ合い、飢え死にしようとしている間も、父親は子どもたちのために新たな富や贈り物、そしていやしの手立てを得ようと懸命に働きます。

そして、子どもたちが破滅寸前であるのを見ると、彼らをより豊かにするためにその中へと入っていき、傷をいやす手立てを差し出し、すべての人に平和と幸福をもたらすのです。

すると、これほど大きな愛に心を打たれた子どもたちは、永続的な平和のうちに父親と結ばれ、彼を愛するようになるでしょう。

わたしにもそれとおなじことが起こるのです。

ですから、わたしはあなたに、わたしの『意志』の忠実な娘として、その『意志』の中にいてほしいと願っているのです。

そして、被造物たちに与えるべき新たな富を得るために、わたしと共に働いてほしいのです。

ですからわたしに対して忠実であり、他のことには一切心を向けないようにしなさい。」
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

《「天国の書」第12巻》

 

 

 

1921年2月22日
第三の「フィアット(Fiat)」は被造物に、彼らをほとんど本来の状態へと立ち返らせるほどの恵みを与えるでしょう。

そして神は、最後の「フィアット」において永遠の休息に入られるのです。


私はいつもの状態にあり、愛しいイエスは沈黙しておられました。

私は主に言いました。

 

「私の愛する御方よ、なぜ何もおっしゃらないのですか?」

 

するとイエスは言われました。

 

「娘よ、語った後に沈黙するのはわたしのいつものやり方なのです。

わたしは自分のみ言葉の中で、すなわちわたしから出たその業の中で休息したいのです。

わたしは天地創造のときにもそうしました。

わたしが『フィアット・ルクス(光あれ)』と言ったときに光が生じ、他のすべてのものにも『フィアット』と言って、それらにいのちが吹き込まれた後、わたしは休息したいと望みました。

そしてわたしの永遠の光は、時の中で生み出された光の中に休息しました。

わたしの愛は、わたしが全創造物に注ぎ込んだ愛の中に休息し、わたしの美しさは、わたし自身の美しさにならって形作った全宇宙の中に休息しました。

わたしの知恵と力もまた休息しました。

それらによってわたしは万物を秩序づけましたが、その知恵と力があまりに素晴らしかったので、わたし自身がそれを見てこう言ったほどです。

『わたしから出たこのみ業はなんと美しいことでしょう。

わたしはその中で休息したいのです』と。

魂に対しても、わたしはおなじことをします。

語り終えた後、わたしは休息し、自分の言葉がもたらす結果を喜びたいのです。」

その後、主はこう付け加えられました。

 

「共に『フィアット』と言いましょう。」

 

すると、天と地、万物が至高の威光への崇敬で満たされました。

そして主は再び「フィアット」と唱えられました。

するとイエスの御血、御傷、そして苦しみが立ち上り、無限に増し加わっていきました。

さらに三度目に「フィアット」と唱えられると、この「フィアット」は被造物すべての意志の中に広がり、彼らを聖なるものとしていきました。

すると、主は私にこう言われました。

 

「娘よ、これら三つの『フィアット(聖なる意志の宣言)』とは、創造のフィアット、贖いのフィアット、そして聖化のフィアットのことです。

人を創造する際、わたしは彼に知性、記憶、意志という三つの力を授けました。

そして、これら三つのフィアットによって、わたしは人の聖化のみ業を成し遂げるのです。
創造のフィアットにおいて、人の知性はあたかも陶酔したかのような状態になります。

彼はわたしについて、また彼に対するわたしの愛について、多くのことを理解するようになります。

なぜなら、わたしは自らを知らしめ、愛されるために愛を彼に与えようとして、すべての被造物の中に隠れているからです。

贖いのフィアットにおいて、人の記憶は、罪の状態にある人を助け救うために多大な苦難を忍んだわたしの愛の極みによって、あたかも魅了されたかのような状態になるります。

第三のフィアットにおいて、わたしの愛はさらにその力を発揮しようとします。

わたしは人の意志に働きかけたいと望んでいます。

わたしの意志を人の意志の支えとして置きたいのです。

そうすれば、人の意志は単に陶酔し魅了されるだけでなく、永遠の意志によって支えられることになるでしょう。

そして、わたしの意志があらゆることにおいて人の支えとなるとき、人はもはやそこから逃れることができなくなるほどになるでしょう。

わたしの意志が地上で支配するようになるまで、人類の世代は終わることはありません。

わたしの贖いのフィアットは、創造のフィアットと聖化のフィアットの中間に位置することになります。

これら三つは互いに織り合わさり、人の聖化を成し遂げるのです。

第三のフィアットは被造物に、あたかも本来の状態へと立ち返らせるような恵みを与えるでしょう。

そしてそのとき、わたしから出たままの姿の人間を見たとき、はじめてわたしのみ業は完成し、わたしはこの最後のフィアットにおいて永遠の安息に入るのです。

わたしの意志に生きることだけが、人に本来の状態を取り戻させます。

それゆえ、心してわたしと共に、被造物の聖化を完成させるためにわたしを助けなさい。」

これを聞いて、私は言いました。

 

「イエスよ、私の愛する御方よ、私はあなたのように行なうことも、あなたが教えてくださるようにすることもできません。 

そして、もし私があなたのお望みになることをうまく行なえなかったら、あなたに咎められるのではないかと恐れています。」

 

すると、限りない善であられる主はこう仰いました。

 

「わたしが命じることを、あなたが完璧に行なえないことはわたしも知っています。ですから、あなたの力が及ばないところは、わたしが補ってあげましょう。

とはいえ、わたしがあなたを惹き寄せ、なすべきことを理解させることが必要です。そうすれば、すべてはできなくとも、できることは行なえるようになるからです。

わたしがあなたに語りかけるとき、あなたの意志はわたしの意志と結びついています。

あなたはわたしが命じることを行ないたいと願っており、私はそのことを、あなたがすべてを行なったのとおなじこととみなすのです。」

 

そこで私は尋ねました。

 

「この『神のご意志のうちに生きる』という生き方を、どのように広め、人々に教えればよいのでしょうか。

また、誰がそれを受け入れる心構えを持つのでしょうか。」

 

するとイエスは仰いました。

 

「娘よ、たとえわたしが地上に降りたことによって誰も救われなかったとしても、御父の栄光を現わすというみ業はすでに完遂されていたでしょう。

今もおなじことです。

たとえ誰もこの賜物を受け入れようとしなかったとしても――実際にはそうはなりませんが――あなたひとりで十分であり、あなたは、わたしがすべての被造物から求めている完全な栄光をわたしに捧げることになるでしょう。」

 

 

 

1921年3月2日
イエスは、ご自身の「ご意志の時代」を準備するために、ルイザの「犠牲者」としての状態を変えられます。

私がいつもの状態にあったとき、常に愛すべきイエスが来られて、私にこう言われました。

 

「わたしの娘よ、第三のフィアット――すなわち『み旨が天に行なわれる通り、地にも行われますように(Fiat Voluntas Tua)』というわたしの意志――は、大洪水の後に空に現われた虹のようなものとなるでしょう。

あの虹は平和の虹として、洪水が止んだことを人間に確信させるものでした。

第三のフィアットもまた、そのようなものとなるのです。

それが知られるようになるにつれて、愛に満ち、私心のない魂たちが、わたしのフィアットのうちに生きるようになるでしょう。

彼らは虹――平和の虹――のようになり、天と地を和解させ、地を覆い尽くす数多くの罪の洪水を払いのけることでしょう。

これらの平和の虹は、第三のフィアットを自らのいのちとするでしょう。

それゆえ、わたしの『み旨が天に行なわれる通り、地にも行われますように』という祈りは、彼らのうちに成就するのです。

そして第二のフィアットがわたしを地上に呼び寄せ、人々の間に住まわせたように、第三のフィアットはわたしの意志を魂の内に呼び寄せ、その意志は『天に行なわれる通り、地にも行われるように』彼らのうちに支配するようになるでしょう。」

 

その後、私が主の不在を悲しんでいると、主はこう付け加えられました。

 

「娘よ、元気を出しなさい。

そして、わたしの『意志』の中に入りなさい。

わたしは数え切れないほど多くの人々の中からあなたを選びました。

それは、あなたの中でわたしの『意志』を完全に成就させるためであり、また、あなたが平和の虹のようになって、その七色で人々を惹きつけ、わたしの『意志』のうちに生きるよう導くためです。

ですから、地上のことは脇に置いておきなさい。

これまでわたしは自らの正義をなだめ、より大きな懲罰が地上に下るのを防ぐために、あなたをわたしのそばに留めておきました。

しかし今は、人間の悪の流れをそのままにしておきなさい。

わたしはあなたに、わたしのそばで、わたしの『意志』のうちに留まり、「わたしの『意志』の時代」を準備することに専念してほしいのです。

あなたがわたしの『意志』の道を歩み進むにつれて、平和の虹が形作られるでしょう。

その虹は、神の『意志』と人間の意志とを結ぶ絆となるのです。

それによって、わたしの『意志』は地上でいのちを得ることになります。

そしてここからわたしの祈り、すなわち全教会が捧げる『御国が来ますように。み旨が天に行われる通り、地にも行われますように』という祈りの成就がはじまるのです。」

 

 

 

1921年3月8日
おとめ(マリア)は、その愛をもって「みことば)」を呼び寄せ、自らの胎内で受肉させました。

ルイサもまた、その愛をもって、そして神のご意志と自らをひとつに融合させることによって、神のご意志を呼び寄せ、自らの内に地上の生を営ませるのです。

 

 

祈りの中で、私は自分自身のすべてを「神のご意志」へと融合させていました。

すると、愛しいイエスが私の内から現われられ、私の首に腕を回してこう言われました。

 

「娘よ、わたしの御母は、その愛と祈り、そして自己の無化によって、わたしを天から地上へと呼び寄せ、その胎内に受肉させました。

あなたもまた、その愛と、わたしの意志の中に絶えず自分を融合させる行為によって、わたしの意志を呼び寄せ、あなたという存在を通して地上にそのいのちを宿らせることになるでしょう。

そしてあなたは他の被造物の中にも、わたしのいのちを与えることになるのです。

しかし、知っておきなさい。

御母がわたしを天から地上に、その胎内へと呼び寄せたとき、その行為は二度とくり返されることのない唯一無二のものであったため、わたしは彼女をあらゆる恵みで豊かに満たしました。

わたしは彼女に、すべての被造物の愛を合わせたものさえ凌駕するほどの愛を授けました。

特権においても、栄光においても、あらゆる点において、彼女に最高の地位を与えたのです。

言ってみれば、永遠なる方であるわたし自身が、ある一点に凝縮され、奔流となって、あるいは広大な海となって彼女に注ぎ込まれたのです。

それほどまでに、他のすべてのものは彼女より低い位置にあるのです。

あなたがわたしの意志を自分の中に呼び寄せるとき、それもまた唯一無二の行為となるでしょう。

ですから、あなたの中に宿るべきわたしの意志の尊厳にふさわしいものとするために、わたしはあなたに、他のすべての被造物を凌駕するほどの恵みと愛を注がねばなりません。

わたしの意志は万物に対して至高の権威を持ち、永遠であり、広大無辺であり、無限であるからです。

わたしは、わたしの意志のいのちがはじまり、そして完成を迎えることになるその人に、これらを伝えなければなりません。

つまり、わたしの意志とおなじ特質を授けて豊かにし、万物に対する至高の地位を与えるのです。

わたしの永遠の意志は、過去、現在、未来を捉え、それらを一点に集約して、あなたの中に注ぎ込むでしょう。

わたしの意志は永遠であり、永遠性を見出すところにいのちを宿らせたいと望みます。

広大無辺であり、その広大さの中にいのちを求めます。

無限であり、無限を見出したいと望みます。

もしわたしがこれらすべてをあらかじめあなたの中に注ぎ込まなければ、どうしてそれらを見出すことができるでしょうか?」

 

それを聞いて、私は恐れおののきました――私がこれを書き記したのは、ただ従順に従わざるを得なかったからです――そして私はこう言いました。


「イエスよ、何をおっしゃるのですか? 

あなたは私を混乱させ、塵に等しいほどに辱めようとなさるのですか。

おっしゃることを受け入れることさえできないように感じます……全身がすくむような恐怖をおぼえます。」

 

すると、主はこう付け加えられました。

 

「わたしがあなたに語ることは、わたし自身のためのものです。

それは、わたしの『意志』の聖性と尊厳のために必要なことなのです。

わたしは、自分に属するものがそこに見当たらないような場所には、自らを低くして留まるようなことはしません。

あなたはこれほど偉大な善の『預かり手』となるのですから、それを何としても大切に守り抜かなければなりません。

ですから、勇気を出して、恐れてはなりません。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

《「天国の書」第12巻》

 

 

 

1921年1月24日
第三の「フィアット(Fiat)」は、創造の「フィアット」の栄光と誉れを完成させ、贖いの「フィアット」の結実を確証し、発展させるものとなるでしょう。

これら三つの「フィアット」は、地上において至聖なる三位一体を秘めることになります。

 


私はこの祝福された「フィアット」について思いを巡らせ、打ちのめされるような思いでいましたが、愛すべきイエスは、私の当惑をさらに深めようとなさいました。

主は私をからかおうとなさっているかのようでした。

驚くべき、ほとんど信じがたいことを私に示し、私が当惑し、さらに打ちのめされる様子を楽しんでおられるのです。

さらに悪いことに、私は従順の務めによってそれらを書き記さねばならず、それが私をいっそう苦しめました

そのような中、私が祈っていると、愛しいイエスはご自身の額を手で支えながら、その額を私の額に寄り添わせてくださいました。

そして、その額から発せられる光が私にこう告げました。

 

「わたしの娘よ、第一の『フィアット』は、被造物の介入なしに創造において発せられました。

第二の『フィアット』は贖いにおいて発せられました。

その際、わたしは被造物の介入を望み、第二の『フィアット』を成就させるために、わたしの御母を選びました。

今、その両方を成就させるために、わたしは第三の『フィアット』を発したいと望んでおり、それをあなたを通して発したいと思っています。

わたしは第三の『フィアット』の成就のために、あなたを選んだのです。

この第三の『フィアット』は、創造の『フィアット』の栄光と誉れを完成させ、贖いの『フィアット』の結実を確証し、発展させるものとなるですぴ。

これら三つの『フィアット』は地上において至聖なる三位一体を秘めることになり、わたしは天におけるのと同様に、地上においても『フィアット・ヴォルンタス・トゥア(御旨が行われますように)』を実現するでしょう。

これら三つの『フィアット』は切り離すことのできないものであり、それぞれが互いのいのちとなります。

それらはひとつでありながら三位一体であり、しかし互いに区別されるものとなるのす。

わたしの愛がそれを望み、わたしの栄光がそれを求めています。

創造の力という胎内から最初のふたつの『フィアット』を解き放ったように、今、第三の『フィアット』を解き放とうとしています。

なぜなら、わたしの愛はもはやそれを内に留めておくことができないからです。

これは、わたしから出たみ業を完成させるためです。

さもなければ、創造と贖いの業は不完全なものとなってしまうでしょう。」


これを聞いて、私は当惑しただけでなく、呆然としてしまい、心の中でこう言いました。

「こんなことが本当にあり得るのだろうか?」

あまりにも多くのことがありました。

もし、主が本当に私をお選びになったのだとしたら、それはイエスのいつもの「愚かさ」のひとつに思えます。

それに、半ば不自由な体で寝たきりとなり、何の取り柄もない私に、一体何ができ、何を言えるというのでしょう?

天地創造と贖いにおける、あの無数かつ無限の「フィアット(ご意志のままに)」に、果たして私が向き合うことなどできるでしょうか?

私の「フィアット」もまた、あのふたつの「フィアット」とおなじものなのですから、私はそれらと共に走り、それらと共に自らを増し加え、それらが行なう善を行ない、それらとひとつに絡み合わなければならないのです……。

 

「イエスよ、ご自分が何をなさろうとしておられるのか、よくお考えになってください!

私には、これほどの務めは荷が重すぎます」。

 

……ですが、私が口にした数々のとりとめのない言葉を、誰がすべて語り尽くせるというのでしょうか。

すると、愛するイエスが戻ってこられ、私にこう言われました。

 

「娘よ、心を静めなさい。

わたしは自分が望む者を選ぶのです。
そして、知っておきなさい。

わたしはすべてのみ業を、わたし自身とひとりの被造物との間ではじめ、それからそれを広めていくのです。

実際、わたしの創造の『フィアット(「あれ」というみ言葉)』を最初に目撃したのは誰だったでしょうか?

それはアダムであり、そしてエヴァでした。

決して大勢の人々ではありませんでした。

何年も何年も経ってはじめて、群衆や多くの人々がそれを目撃するようになったのです。

第二の『フィアット』においては、わたしの御母だけが目撃者でした。

聖ヨセフでさえ何も知らなかったのです。

そして御母は、あなた以上の状況に置かれていました。

御母が自らの内に感じたわたしのみ業の創造的力の偉大さはあまりに大きく、御母は戸惑い、誰にもそれを口にする力さえ感じられなかったほどでした。

もし聖ヨセフがそれを知ったとしたら、それはわたしが彼に明かしたからです。

こうして、この『フィアット』は御母の処女の胎内で種のように芽生え、それを増やすための穂が形成され、やがて日の目を見たのです。

しかし、目撃者は誰だったでしょうか?

それは、ごくわずかでした。

ナザレの部屋では、愛する御母と聖ヨセフだけが目撃者だったのです。

その後、わたしの至聖なる人間性が成長すると、わたしは外へ出て自分を知らせましたが、すべての人に対してではありませんでした。

その後、それはさらに広まり、これからも広まっていくでしょう。

第三の『フィアット』もそのようになるでしょう。

それはあなたの内で芽生え、穂が形成され、司祭だけがそれを知ることになるでしょう。

やがて少数の魂が知り、そしてそれは広まっていくのです。

それは広まり、創造や贖いとおなじ道をたどるでしょう。

あなたが打ち砕かれていると感じれば感じるほど、第三の『フィアット』の穂はあなたの内で成長し、実り豊かになるのです。

ですから、注意深く、忠実でありなさい。」

 

 

 

1921年2月2日
第三の「フィアット(Fiat)」は、他のふたつの「フィアット」と共に働かなければなりません。

これら三つの「フィアット」は、等しい価値と力を有しています。
なぜなら、それらには「創造の力」が宿っているからです。



いつものように、私は自分自身のすべてを「神のご意志」へと融合させながら、心の中でこう言いました。

 

「私のイエスよ、私はあなたを愛したいのです。

それも、過去および未来のすべての世代の愛を埋め合わせるほどの、大きな愛をもってです。

しかし、すべての人のために愛することができるほどの愛を、誰が私に与えてくれるというのでしょう? 

私の愛する御方よ、あなたのご意志の中には『創造の力』があります。 

……ですから、あなたの『ご意志』の中で、私は、すべての被造物が私たちの創造主である神に捧げるべき愛のすべてを埋め合わせ、さらにはそれを凌駕するほどの愛を自ら生み出したいのです……」

そうしながら、私はこう言いました。

 

「なんて馬鹿げたことを言っているのでしょう」。

 

すると、私の内な御方である愛しいイエスが、こう仰いました。

 

「娘よ、確かにわたしの『意志』には創造の力があります。

何十億もの星々が、たったひとつの『フィアット(「あれ」という創造の言葉)』から生まれたのです。

魂に注がれる何十億もの恵みのみ業もまた、わたしの御母の『フィアット・ミヒ(「お言葉通りになりますように」)』から生まれています。

そこから贖いがはじまったのです。

これらの恵みの業は、星々よりも美しく、輝かしく、多様なものです。

星は固定されていて増えることはありませんが、恵みのみ業は無限に増え広がります。

それらはあらゆる瞬間に駆け巡り、被造物を惹きつけ、喜びを与え、強め、いのちを与えます。

ああ、もし被造物が恵みの超自然的な秩序を見ることができたなら、彼らはその調和を聞き、その魅惑的な光景を目にして、そここそが自分たちの楽園だと信じることだでしょう。

そして、第三の『フィアット』もまた、他のふたつの『フィアット』と共に走らなければなりません。

それは無限に増え広がり、あらゆる瞬間に、わたしの懐から解き放たれる恵みのみ業の数だけ、業を捧げなければなりません。

また、創造の『フィアット』によって解き放たれた星の数、水の滴の数、あらゆる被造物の数とおなじだけの業を捧げねばならないのです。

それはそれらとひとつに溶け合い、こう言うのです。

『あなた方がこれだけの数であるならば、私もまたおなじだけの数だけ業を行ないます』と。

これら三つの『フィアット』は、おなじ価値と力を持っています。

あなたは消え去り、働くのは『フィアット』そのものとなります。

だからこそ、あなたもまた、わたしの全能の『フィアット』の中でこう言えるのです。

『私は、すべての人とすべてのもののために埋め合わせができるほどの愛、崇拝、祝福、そして神への栄光を生み出したいのです』と。

あなたの業は天と地を満たし、創造と贖いの業と共に増え広がり、それらとひとつになるでしょう。

これらすべては、ある人々には驚くべきこと、信じがたいことに思えるかもしれません。

けれども、もしそう思うなら、彼らはわたしの創造の力を疑うことになるでしょう。そしてわたしがそれを望み、この力を与える以上、あらゆる疑いは消え去ります。

わたしは自分の望むことを行ない、望む者に与える自由がないとでもいうのでしょうか?

よく聞きなさい。

わたしはあなたと共にいます。

わたしの創造の力であなたを包み込み、あなたを通してわたしの望むことを成し遂げるのです」

 

 

 

1921年2月8日
世がイエスを地上から追い出そうとしている一方で、主は「愛の時代」、すなわち主の「第三のフィアット(ご意志の成就)」の時代を準備しておられます。


今朝、ご聖体拝領の後、私の心の中で、常に愛すべきイエスがこう言われるのを聞きました。

 

「ああ、不義な世よ。

あなたはわたしを地上から追い出し、社会や学校、会話、あらゆる場所からわたしを締め出そうとあらゆる手を尽くしています。

あなたは聖堂や祭壇を打ち壊し、わたしの教会を破壊し、わたしの僕たちを殺そうと画策しているのです。

しかしその一方で、わたしはあなたたちのために『愛の時代』、すなわちわたしの『第三のフィアット』の時代を準備しています

あなたたちはわたしを追い出そうとして自らの道を突き進むでしょうが、わたしは『愛』によってあなたたちを当惑させるでしょう。

わたしは後ろからあなたたちを追い、前からあなたたちに向かって行き、愛によってあなたたちを当惑させます。

そして、あなたたちがわたしを追い出したその場所に、わたしは自らの王座を築き、以前にも増して、しかも驚くべき方法で統治するでしょう。

あまりのことに、あなたたち自身が、わたしの愛の力に縛られたかのように、わたしの王座の足もとにひれ伏すことになるほどになるのです。」


それから主はこう付け加えられました。

 

「ああ、わたしの娘よ。

被造物はますます激しく悪に走っています!

彼らはどれほど多くの破滅の企てを準備していることでしょう!

彼らは悪そのものを使い果たしてしまうほどのところまで行くでしょう。

しかし、彼らが自らの道を歩むことに没頭している間、わたしは『ご意志(フィアット・ヴォルンタス・トゥア)が行われますように』という祈りが完成し成就すること、そしてわたしの意志が地上で統治すること――それも全く新しい方法で――に専念します。

わたしは『第三のフィアット』の時代を準備することに専念します。

その時代には、わたしの愛が驚くべき、かつてない方法でその輝きを放つことになるでしょう。

ああ、そうです。

わたしは愛によって人間を完全に当惑させたいのです!

ですから、よく聞いておきなさい。

この天上の、そして神聖なる『愛の時代』を準備するにあたり、わたしはあなたにわたしと共にいてほしいのです。

わたしたちは互いに手を貸し合い、共に働くことになるでしょう」

 

そうして主は私の口もとに近づかれ、全能の息吹を吹き込まれると、私は新しいいのちが自分の中に注ぎ込まれるのを感じました。

そして主は姿を消されました。

 

 

 

1921年2月16日
「神のご意志」に入るために、被造物に必要なことは、ただ自分の意志という小さな石を取り除くことだけです。


私が「聖なる神のご意志」について思いを巡らせていたとき、愛するイエスがこう言われました。

 

「娘よ、わたしの意志に入るために、道も、扉も、鍵も存在しません。

なぜなら、わたしの意志は至る所にあるからです。

それは足の下にも、右にも、左にも、頭上にも――あらゆる場所に流れています。

被造物に必要なのは、ただ自分の意志という小さな石を取り除くことだけです。

その石があると、たとえわたしの意志の中にいたとしても、その意志にあずかることも、その恵みや効果を享受することもできず、わたしの意志の中でまるで異邦人のようになってしまうからです。

実際、それはまるで岸辺から流れてくる水を、小さな石がせき止めて別の場所へ流れないようにしているようなものです。

石が水の流れを妨げているのです。

しかし、もし魂がその『自分の意志』という小さな石を取り除くなら、その瞬間に魂はわたしの中に流れ込み、わたしも魂の中に流れ込むでしょう。

魂は、力、光、助けなど、望むものすべてを自由に用いることができるようになるでしょう。

道も扉も鍵も必要ないというのは、そういうことです。

ただ望むだけで、すべてが成し遂げられるのです。

わたしの意志がすべてを担い、魂に欠けているものをすべて与え、わたしの意志の果てしない広がりの中を歩ませてくれるでしょう。

他の徳については、これとは全く事情が異なります。

どれほどの努力、どれほどの戦い、どれほど長い道のりが必要なことでしょう!

 徳が微笑みかけてくれているように見えても、激しい情念や誘惑、あるいは予期せぬ出来事に遭遇すると、また道の振り出しへと押し戻されてしまうからです。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

《「天国の書」第12巻》

 

 

 

1921年1月5日
「神のご意志」のうちに行なわれる魂の真の生活とは、イエスのいのちの中に自らのいのちを形成することにほかなりません。


いつもの状態で祈っていたときのことです。

私は祈りながら「神のご意志」の中に入ろうと志しました。

そして、過去・現在・未来のすべてを包含する「神のご意志」の中に存在するすべての物を自らのものとし、また自らをすべての物の冠として、すべての者の名において、崇敬と愛と償いなどを神のみ前に捧げました。

そして私の愛すべきイエスは、私の内奥でこう語りかけられました。

 

「わたしの娘よ、わたしの『意志』の中で営まれる魂の真の生とは、何よりもまず、魂が自らの生をわたしの生になぞらえて形作り、その行ないすべてにわたしのあり方を映し出すことにほかなりません。

わたしは内的なものであれ外的なものであれ、自らのあらゆる行ないを、わたしの『意志』の中で飛翔させること以外は何も行ないませんでした。

わたしは自分のみ心のあらゆる思考を飛翔させました。

そして、わたしの『意志』の中に存在していた被造物のあらゆる思考の上をわたしの思考が飛び越え、すべてを包み込むことで、それはあたかも人間のひとりひとりの治世の冠となり、被造物から発せられる思考のすべてが持つ崇敬、礼拝、栄光、愛、そして償いを、御父なる神の威光へと捧げたのです。

わたしのまなざし、言葉、動作、歩みについてもおなじです。

さて、わたしの『意志』の中で生きるためには、魂は自らの心をわたしのみ心になぞらえ、自らのまなざし、言葉、動作をわたしのそれらになぞらえて形作らねばなりません。

そうすることで、魂は自らの本来の形を失い、わたしの形を身にまとうことになります。

つまり、人間的な自己に絶えず死を与え、神聖なる『意志』に絶えずいのちを与えること以外は何も行わなくなるのです。

こうして魂は、自らの内にわたしの『意志』の生を完成させることができます

そうでなければ、この驚くべき奇跡、すなわちわたしの形に完全に模されたこの生は、決して全うされることはないでしょう。

永遠かつ広大なわたしの『意志』だけが、魂にすべてを見出させるのです。

それは過去と未来をひとつの点に集約します。

そして魂はその一点において、鼓動するすべての心、生きているすべての精神、そして現に働いているわたしのすべてのみ業を見出すのです。

魂はわたしの『意志』を自らのものとし、すべてを行ない、すべての者のために償い、すべての者のために愛し、あたかも全人類がひとつの存在であるかのように、すべての人に、そしてひとりひとりに善を施すのです。

これほどの境地に誰が到達できるでしょうか。

いかなる徳も、いかなる英雄的行為も、さらには殉教でさえも、わたしの『意志』の前には及びません。

すべては、わたしの『意志』の中でなされたみ業の背後に留まるのです。

ですから心して、わたしの『意志』の使命をあなたの中で成就させなさい。」

 

 

 

1921年1月7日
「ご意志の子ども「たち」である初穂――人間的な領域ではなく、神的な領域に生きる者たち――に向けられたイエスの微笑み。


いつものように過ごしていたとき、愛すべきイエスが来られ、その腕を私の首に回されました。

そして私の心臓の近くに身を寄せ、ご自身の胸を両手で支えながらそれを私の心に押し当てられると、そこから乳の奔流が流れ出しました。

イエスはその乳の奔流で私の心を満たし、こう言われました。

 

「娘よ、わたしがどれほどあなたを愛しているかわかりますか。

わたしはあなたの心を、恵みと愛の乳で満たしたかったのです。

そうすれば、あなたが語り、行なうことのすべては、わたしがあなたを満たしたその恵みの溢れ出るものとなるからです。

あなたは何もせず、ただ自分の意志をわたしの意志に委ねるだけでよいのです。

そうすれば、わたしがすべてを行ないます。

あなたはただ、わたしの声の響きとなり、わたしの意志を運ぶ者となり、人間的なやり方での徳を打ち砕き、永遠かつ広大で無限の点に基礎を置く神的なやり方での徳を回復させる者となるのです」。

 

そう言われると、イエスは姿を消されました。

しばらくしてイエスが戻ってこられたとき、私は自分自身が完全に無に帰したような感覚に陥っていました。

特に、ここでは述べる必要のないある事柄について考えていたためです。

苦悩が極みに達し、私は心の中でこう言いました。

 

「どうしてこんなことが……。

私のイエスよ、どうかこれを許さないでください! 

もしかするとあなたは、この犠牲の『意志』は望まれても、その『実行』までは望んでおられないのかもしれません。

それに、今のこの過酷な状況にあっては、私はただ天国だけを慕い求めているのですから」。

 

すると、私の内側から出てこられたイエスが、激しくすすり泣きはじめられました。

そのすすり泣きが天と地に響き渡るのが聞こえました。

しかし、泣き止もうとされたその瞬間、今度は微笑みが浮かび上がり、そのすすり泣きとおなじように、天と地にその響きが広がっていきました。

私は恍惚とした状態のままであり、私のイエスは私にこう言われました。

 

「愛する娘よ、この悲しい時代に被造物がわたしに与えている大きな悲しみ――それはわたしを泣かせるほどのものであり、神の涙であるがゆえに天と地に響き渡るものですが――その後に、天と地を喜びで満たす『微笑み』が訪れるでしょう。

この微笑みは、わたしが『初穂』――すなわちわたしの『意志』に生きる子どもたち――を目にするとき、わたしの唇に浮かぶことになります。

彼らは人間の領域ではなく、神的な領域に生きているのです。

わたしは彼ら全員が、永遠かつ広大で無限の『意志』の印を帯びているのを見るでしょう。

天にのみいのちを持つあの永遠の『点』が地上へと流れ込み、その無限の原理と神的な働き、そして単一の『行ない』のうちに数多の『行ない』を増幅させる力をもって、魂を形作っていくのを見るのです。

天地創造が『フィアット(「成れ」という神のみ言葉)』から生じたように、天地の完成もまた『フィアット』においてなされるでしょう。

わたしの『意志』の子どもたちだけが、『フィアット』においてすべてを成し遂げるのです。

そして、彼らのうちにいのちを持つわたしの『フィアット』を通して、わたしはすべての人とすべての事柄のために、完全な愛、栄光、償い、感謝、そして賛美を受けることになるでしょう。

娘よ、物事はそれが生じた場所へと回帰するものです。

すべては『フィアット』から生じ、すべては『フィアット』においてわたしのもとへと帰るのです。

彼らの数は少ないでしょうが、『フィアット』において、彼らはわたしにすべてを捧げることになるでしょう。」

 

 

 

1921年1月10日
至聖なるおとめマリアの「フィアット(お言葉通りになりますように)」。

神はご自身のご意志において二度目の「はい」を望んでおられます。

ルイサの「フィアット」。


私は上記の記述について思い悩み、心の中​​でこう言いました。

 

「イエスが私に何を望んでおられるのかわかりません。

そうです、主は私がどれほど出来が悪く、何ひとつまともにできない人間であるかをご存じなのですから」。

 

すると、私の内側でイエスがこう仰いました。

 

「娘よ、思い出してみなさい。
何年か前に、わたしはあなたに『わたしの意志の中で生きたいですか』と尋ねました。

わたしはあなたにわたしの意志の中にいてほしかったからこそ、あなた自身の『はい』をわたしの意志の中で唱えてほしかったのです。

その『はい』は、永遠の点と、決して終わることのない意志とに結びつけられていました。

その『はい』はわたしの意志の中心にあり、無限の広大さに囲まれています。

ですから、そこから出ようとしても、道を見つけることさえままならないのです。
ですから、あなたが小さな抵抗を示したり、不満を抱いたりするのを見て、わたしは微笑み、楽しんでいます。

なぜなら、あなたはまるで自らの意志で海の深みに縛り付けられている人々のようだからです。

彼らは外に出ようとしても、水以外何も見つけられません。
海の深みに縛られているがゆえに、外に出ようとすることに煩わしさを感じ、かえって平穏と幸福を保つために、さらに深く海の底へと身を沈めていくのです。

それとおなじように、あなたが外に出ようとして戸惑い、しかし自らの『はい』に縛られてそれもできず、わたしの意志の深みへとさらに身を沈めていくのを見て、わたしは微笑み、楽しんでいるのです。

それに、わたしの意志の中から動くことが、些細で容易なことだとでも思っているのですか?
そうすれば、あなたは永遠の点を動かそうとすることになるのです。

もし永遠の点を動かすことが何を意味するのかを知ったなら、あなたは恐ろしさのあまり震え上がるでしょう。」

 

そして、主はこう付け加えられました。

 

「わたしは、愛する御母から、わたしの『フィアット(み旨のままに)』への最初の『はい』を求めました。

ああ、わたしの『意志』における母の『フィアット』の力とは、なんと偉大なものでしょう!

 神聖なる『フィアット』が御母の『フィアット』と出会った瞬間、ふたつはひとつとなりました。

わたしの『フィアット』は御母を高め、神聖なものとし、御母を包み込み、人の手を一切介することなく、神の御子であるわたしを御母の胎内に宿らせたのです。

御母は、わたしの『フィアット』においてのみ、わたしを宿すことができました。

わたしの『フィアット』は、神聖なあり方で、広大さ、無限性、そして豊饒さを御母に与えました。

それゆえに、広大で永遠、かつ無限なる御方が、御母の胎内に宿ることができたのです。

御母が『フィアット・ミヒ(お言葉どおりになりますように)』と口にしたその瞬間、御母はわたしを自らのものとしただけでなく、すべての被造物とあらゆる被造物を自らのうちに包み込みました。

御母は自らのうちにすべての被造物のいのちを感じ取り、その瞬間から、すべてのものの御母、そして女王として振る舞いはじめたのです。

御母のこの『はい』には、どれほど多くの驚くべき奇跡が秘められていることでしょう。

もしそのすべてを語ろうとすれば、あなたはいつまでも聞き入ることになるでしょう。

さて、わたしは今、わたしの『意志』において、あなたからもふたつ目の『はい』を求めました。

そしてあなたは、震えながらもそれを口にしました。

わたしの『意志』におけるこの『はい』は、その驚くべき奇跡を成就させ、神聖なる形でその実を結ぶことになるでしょう。

さあ、わたしに従いなさい。

わたしの『意志』という広大な海にもっと深く身を投じるのです。

そうすれば、すべてをわたしが計らいます。

わたしの御母は、わたしがいかにして御母の胎内に受肉するかなどとは考えもしませんでした。

ただ『フィアット・ミヒ』と言っただけで、受肉の具体的なあり方はすべてわたしが担ったのです。

あなたもまた、そのようにするのです。」

 

 

 

1921年1月17日
至聖なるおとめが発した「フィアット(Fiat:お言葉通りになりますように)」には、創造の「フィアット」とおなじ力がありました。

第三の「フィアット」とは、イエスが教えられた祈り――「み心が天に行なわれるごとく、地にも行なわれますように(Fiat Voluntas Tua sicut in Coelo et in Terra)」――の成就であり、完成となるでしょう。


私は、自分の貧しい心が神のご意志という広大な海に浸されているのを感じました。至る所に「フィアット」の印が見えました。

太陽の中にもそれが見え、太陽における「フィアット」の響きが私に神の愛を運んでくるように思われました。

その愛は私を貫き、傷つけ、閃光のように駆け巡りました。

そして私は、太陽の「フィアット」の翼に乗って永遠なる御方のもとへと昇り、全人類の名において、至高の威光を貫き、傷つけ、閃光のように駆け巡ったその愛をお捧げしました。

「あなたは『フィアット』によって私にこのすべての愛を与えてくださいました。

そして、この『フィアット』においてのみ、私はそれをあなたにお返しすることができるのです」と私は申し上げました。

星々を見上げると、そこにも「フィアット」が見えました。

その優しく穏やかな輝きの中で、この「フィアット」は私に、罪の夜にあってもなお、平和をもたらす愛、甘美な愛、隠された愛、そして憐れみ深い愛を運んできてくれました。

そして私は、星々の「フィアット」と共に、すべての人の名において、永遠なる御方の玉座へと愛を捧げました。

それは、天と地の間に平和をもたらす愛、愛する魂たちの甘美な愛、多くの人々の隠された愛、そして罪を犯した後に神のもとへと立ち返る被造物の愛でした。

しかし、全被造物の中に散りばめられた数多くの「フィアット」において私が理解し、行なったことのすべてを、誰が語り尽くすことができるでしょうか。

あまりにも長くなってしまいますので、ここで筆を置くことにします。

その時、愛するイエスは私の両手をそのみ手で包み込み、しっかりと握りしめながら、こう言われました。

 

「わたしの娘よ、『フィアット(神のご意志)』はいのちに満ち溢れています。

いえ、それどころか、それこそが『いのち』そのものなのです。

だからこそ、あらゆるいのちも万物も、この『フィアット』の内から生じているのです。

天地万物の創造は、わが『フィアット』から発しました。

それゆえ、あらゆる被造物の中に『フィアット』の刻印を見ることができます。

贖罪のみ業は、わたしの愛する御母がわたしの『意志』において唱えた『フィアット・ミヒ(お言葉どおりになりますように)』から生じました。

それは、わたしの創造の『フィアット』とおなじ力を帯びていたのです。

したがって、贖罪のみ業において、御母の『フィアット・ミヒ』の刻印を伴わないものは何ひとつありません。

わたしの人間性そのものも、わたしの歩みも、言葉も、行ないも、すべて御母の『フィアット・ミヒ』によって刻印されていました。

わたしの苦しみも、御傷も、茨の冠も、十字架も、そして御血も、御母の『フィアット・ミヒ』の刻印を帯びていました。

なぜなら物事はすべて、その起源の刻印を宿しているからです。

時におけるわたしの起源は、汚れなき御母の『フィアット・ミヒ』でした。

それゆえ、わたしのすべてのみ業は、御母の『フィアット・ミヒ』の刻印を帯びているのです。

なので、御母の『フィアット・ミヒ』は、聖体のホスチアのひとつひとつの中にも存在しています。

人が罪から立ち直る時も、新生児が洗礼を受ける時も、天が開かれて魂を迎え入れる時も、すべてに御母の『フィアット・ミヒ』が刻印され、すべてにそれが寄り添い、そしてすべてがそこから生じているのです。

ああ、『フィアット』の力よ!

 それは絶えず立ち上がり、増し加わり、あらゆる善の生命となるのです

 

今、わたしがあなたに『フィアット(Fiat)』――わたしの『意志』における『はい』――を求めた理由を話しましょう。

わたしは、わたしが教えたあの祈り――『み心が天に行なわれるごとく、地にも行われますように』という、何世紀にもわたり、幾世代にもわたって唱えられてきたあの祈り――が、成就し完成することを望んでいるのです。

だからこそ、わたしはわたしの『意志』におけるもうひとつの『はい』、すなわち創造の力を宿したもうひとつの『フィアット』を求めたのです。

わたしは、あらゆる瞬間に立ち上り、すべての人の中で増え広がっていくような『フィアット』を望んでいます。

わたしはあるひとつの魂の中に、わたしの玉座へと昇り、その創造の力によって『天に行なわれるごとく、地にもみ心が行われる』といういのちを地上にもたらす、わたし自身の『フィアット』を求めているのです。」

これを聞いて驚き、打ちのめされた思いで、私は言いました。

 

「イエスよ、何をおっしゃるのですか? 

私がいかに出来が悪くて、何ひとつできない人間であるかを、あなたはご存じでしょう」

 

すると主は仰いました。

 

「娘よ、わたしの最も偉大なみ業のために、最も卑しく、無能で、貧しい魂を選ぶのがわたしの常なのです。

わたしの御母でさえ、その外的な生活には何も特別なところはありませんでした。

奇跡もなければ、他の女性と区別されるようなしるしも何ひとつなかったのです。

彼女の唯一の際立った点は、完全なる徳でしたが、それに目を留める人はほとんどいませんでした。

他の聖人たちには奇跡という際立った特徴を与え、またある者たちには私の聖痕(せいこん)を授けましたが、御母には何一つ――本当に何ひとつ――与えられませんでした。

それにもかかわらず、彼女こそは驚異の中の驚異、奇跡の中の奇跡であり、真に完全な『十字架に架けられた者』だったのです。

彼女に並ぶ者は誰もいないのです。

私はよく、ふたりの召使いを持つ主人のように振る舞います。

ひとりは力強い巨人のようで、何でもそつなくこなします。

もうひとりは小柄で無能で、何ひとつ役に立たず、重要な務めなど任せられそうにありません。

主人が彼を雇い続けているとしても、それは慈悲心からか、あるいは単なる面白半分に過ぎないでしょう。

さて、別の町へ大金――百万、あるいは十億もの金額――を届けなければならないとき、主人はどうするでしょうか? 

彼は小柄で無能なほうの召使いを呼び、その大金を彼に託すのです。

そして心の中でこう思っています。

『もし巨人にそれを渡せば、皆の注目が彼に集まってしまうだろう。

盗賊に襲われ、奪われてしまうかもしれない。』

もし彼がその怪力で身を守ろうとすれば、傷を負うかもしれません。

彼に能力があることはわかっていますが、彼を危険にさらしたくはないのです。

一方、この「小さな者」には誰も目を向けないでしょう。

彼には何の力もないと見なされているからです。

これほど多額のものを彼に託すなどとは、誰も思いもしないでしょう。

ですから、彼は無事に帰ってくることができるのです。

あの力のないあわれな者は、あの巨漢を使うこともできたはずなのに、主人が自分を信頼してくれたことに驚き、震えながら、しかし謙虚な態度で、その大金を預けに行くでしょう。

誰も彼に一瞥さえくれないうちに

そして彼は、以前にも増して震え、謙虚な姿で主人のもとへ無事に戻ってくるのです。

わたしもそれとおなじようにします。

成し遂げたい業が大きければ大きいほど、わたしは、卑しく、貧しく、無知で、人目を引くような外見を持たない魂を選びます。

その魂の卑しいありようこそが、わたしの業を安全に守るものとなるからです。

自尊心や自己愛という名の盗賊たちは、その魂の無力さを知っているため、彼女に目を留めることはないでしょう。

そして彼女は謙虚に震えながら、自分自身は何ひとつ成し遂げたわけではなく、すべてはわたしが彼女のうちに行ったのだと自覚しながら、わたしから託された務めを遂行するのです」