《神のご意志の 広大な海の中で さらに深く①》

 

Drop Book Series(一滴の雫の本・シリーズ)Ⅱ

 

 

 

この本は、『神のご意志という広大な海の一滴(A Drop in the Immense Sea of​​ the Divine Will)』の続編です。

その目的は、ルイサ・ピッカレータを「神のご意志」のより深い領域へと導くために、イエスが彼女に与えられた数々の助言や教えに光を当てることにあります。

ルイサの著作は膨大であり、「神のご意志」に関する貴重な情報の宝庫であると同時に、時には圧倒されるほどの量でもあります。

この本では、その中からいくつかの箇所を抜き出し、イエスがルイサに――ひいては私たちに――与えてくださった尊い「光」を抽出しています。

ここで取り上げる「光」は、「神のご意志」に関する真理という広大な海の中のほんの一滴にすぎませんが、それらはなにものにも代えがたい尊い一滴なのです。

 

『Drop』の続編となる本作の新たな特徴として、「エンジェル・ライト(Angel lights)」が挙げられます。

これらは、ルイサの著作から引用された一節です。

実際にその一節を読んでいただければお分かりになるように、『Drop』の本文は、それぞれの箇所に含まれる真理のほんの一部に触れているに過ぎません。

その一節一つひとつをテーマに、一冊の本が書けるほどの深みがあるのです。

 

『Drop』シリーズの第1作と同様、この本に記された内容は著者らの解釈に基づくものであり、著作権で保護された神学的論文ではありません。

本書は「神のご意志」に照らして読み、他の方に渡すために自由にコピーを作成してください。

追加の部数は、販売元から購入することができます

 

 

 

§ § §

 

 

 

多くの人々は、なぜ自分がこの地上に存在するのかについて、何ら考えることなく、日々の生活を送っています

 

もし神のご意志のうちに生きるなら、あなたは明確な目的意識を持つようになるでしょう。

神は地上に神の国を回復するというご自身の計画に、あなたをあずからせてくださっているのです。

神のご意志に全面的に身を捧げるようになれば、日々のあらゆる瞬間が、神のご計画の成就のために用いられるようになります。

しかし、そのように全面的に身を捧げる境地に達するには、あなた自身による多くの犠牲と懸命な努力が必要となります。

 

神は私たちが皆、神のご意志に全面的に生きることを望んでおられます。
ですから、唯一の問い掛けは「あなたが何を望むのか?」ということです。

神のご意志に生きるというこの賜物を深く理解すればするほど、その問いに答えることは容易になります。

神が私たちに与えることのできる賜物の中で、これに勝るものはありません。

神はご自身の神性を私たちにわかち与え、ご自身そのものを与えてくださっているのです。

 

では、「神のご意志)」について、何を知っておく必要があるのでしょうか?

実のところ、神のご意志について知り得るすべてのこと知ることは、私たちには決してできません。

神は無限のお方ですから、私たちは永遠にわたって、そのことについて学び続けていくことになるのです。

それでは、どこからはじめればよいのでしょうか?

 

ルイサ・ピッカレータは、「神のご意志の賜物」について全36巻に及ぶ著作を残しました。

彼女の著作のどの部分であれ、読めば読むほど、またくり返し読み返すほどに、神のご意志についてより深く知ることができるでしょう。

しかしルイサ自身は、神のご意志に関する自らの著作を、海から上がってきた人の体から滴り落ちるほんのわずかな水滴にすぎないと表現していました。

彼女はそれらの水滴を、神のご意志に関する限りなく広大な真理の海になぞらえたのです。

 

「神のご意志」において成長していくためには、この「賜物」について学び続けることが必要です。

しかし同時になにが起ころうとも、自分の「行ない」や「巡回」を絶えず実践していくことも不可欠です。

「行ない」や「巡回」こそが「神のご意志」に生きる者の務めだからです。

こうした務めを行わなければ、「神のご意志」に生きることはできません。

さもなければ、せいぜい「神のご意志」という大海に、つま先だけを浸している程度にとどまってしまうでしょう。

もしあなたがその務めに忠実であるなら、神は約束されたことを実行してくださいます。

つまり、あなたを「神のご意志」のより深いところへと導きながら、あなたを清めてくださるのです

 

ですから、「神のご意志のうちでの行い」と「巡回(ラウンド)」を続けてください。
たとえ迫害を受けていても、ただその行ないと巡回を続けてください。

ひどい病気のときも、ただその行ないと巡回を続けてください。

家族に問題があるときも、ただその行ないと巡回を続けてください。

疑念に苛まれるときも、ただその行ないと巡回を続けてください。

世界がひっくり返るような事態に直面しても、ただその行ないと巡回を続けてください……。
何が起ころうとも、ただその行いと巡回を続けてください。

そして、実際にさまざまなことが起こるでしょう!

 神が約束された「浄化」――あなたの中から「世」と「悪魔」と「肉」を取り除くための浄化――は、時に痛みを伴うものです。

しかし神に信頼し、ただひたすら、その行ないと巡回を続けてください!!!

 

「行ない」と「巡回(ラウンド)」のちがいはなんでしょうか?
ラウンドは、あなたの「行ない」の一部を成すものです。

具体的には、「神のご意志への祈り(Invocation to the Divine Will)」において、自分の祈りの中にイエスを招き入れ、イエスに祈っていただく部分を指します。

これらの祈りは特別なものです。

なぜなら、それはもはやイエスご自身の祈りであり、かつて二千年前に地上でイエスが捧げられた祈りの続きとなっているからです。

 

あなたがたが行なう行ないは、イエスが地上で生きておられた間に行われた行ないの続きです。

「神のご意志」という賜物の本質は、あらゆる瞬間にあなた自身の人間的な意志を神のご意志と一致させることにあります。

そうすることで、あなたはイエスがこの地上で再び生き、御父の栄光のために、人々の魂における贖いと聖化のみ業を継続されることを可能にするのです。

 

信じがたいことでしょうか?

私たちがどこから来たのか、そして神が私たちをどこへ連れ戻そうとしておられるのか――つまり、私たちが本来創造された秩序、場所、そして目的へと――その点に目を向ければ、決してそんなことはありません。

 

堕落前の「アダムとエバ」は、神が人類を創造された際の秩序、居場所、そして目的にかなったあり方をしていました。

この秩序・居場所・目的を理解しはじめることは、あなたがその賜物において成長する助けとなります。

なぜなら、最終的にどこへ向かうのかという見通しがあれば、神が今あなたの中でどのような働きをしておられるのかを、より容易に捉えることができるからです。

 

この秩序、位置づけ、そして目的を完全に理解するには、ある程度時間がかかるかもしれません。

なぜなら、現代の一般的な人々は、こうした理解とは程遠いところにいるからです。多くの人は神を、私たちが日々の営みを続ける様子を遠くから眺めている存在だと考えています。

彼らにとって神とは、時折天使や恵みを遣わしたり、あるいは祈りに応えてくれたりするような存在にすぎません。

それは世界が自分たちを中心に回っている物の見方です。

しかし実際には、すべてのものは神を中心に、神を軸として成り立っているのです。

 

神はただ単に私たちを見下ろしておられるのではありません。

神は実際に私たちの内におられ、同時に私たちは神の内にいるのです!

アダムとエバが罪を犯す前、神は彼らが行なうことを共に楽しんでおられました。

彼らが散歩をするとき、神は彼らの内でその散歩を楽しんでおられました。

彼らが動物と遊んだり、川に飛び込んだり、花を摘んだりするとき、神は彼らと共にそれを行なっておられたのです。

神は、アダムとエバがなにかをするのを、ただ傍観していることだけを望んではおられませんでした。

神は彼らとあらゆることを共に行ないたいと望んでおられたのです。

これが可能であったのは、アダムとエバが「神のご意志」という賜物と共に生きていたからです。

「神のご意志」とは神の本質であり、彼らはあらゆる行ないにおいて神のご意志を用いていました。

彼らが初めて自分自身の「人間の意志」を用いたとき、彼らはその賜物を失い、神はもはや彼らの内で楽園の喜びを味わうことはできなくなってしまいました。

それどころか、神は彼らの魂という園の中で、苦悶を味わうことになったのです。

 

神は6千年もの間、私たちの魂の中でこの苦しみを味わってこられました。

しかし今、神が「神のご意志のうちに生きる」という賜物を私たちに再び与えてくださったことで、その賜物を喜んで受け入れ、その中で成長しようとする魂の中に、神は再び楽園を見出されることが可能になったのです。

 

天国の聖人たちは皆、「神のご意志」のうちに生きています。

神は彼らひとりひとりの中に、それぞれ異なる楽園を見出し、それを楽しんでおられます。

神は聖フランシスコや聖パウロにあっては馬に乗り、アブラハムやパードレ・ピオにあっては散歩をし、聖アグネスやエディット・シュタインにあっては歌い、ヨハネ・パウロ2世やシスター・ファウスティナにあってはピエロギを味わい、アインシュタインやエリヤにあっては星の爆発を見つめ、聖母マリアやマザー・テレサにあってはチョコレートを味わう……といった具合です。

しかし神とのこうした一致は、それだけにとどまりません。

聖フランシスコや聖パウロ、アブラハム、そして他のすべての聖人たちは、ある神秘的な方法で、神のうちにあってさまざまな働きを担っています。

例えば太陽を輝かせたり、惑星をその軌道に留めたりすることなどです。

彼らは神の神性にあずかっているのです。

そして神のうちにあることによって彼らは互いの内なる営みをもわかち合い、楽しんでいます――これこそが「聖徒の交わり」なのです。

 

これこそが、神が私たちを創造された秩序であり、場所であり、目的です。

私たちは神の喜びのために創造されたのであり、やがてその喜びをわかち合うことになります。

私たちは、御父と御子の間に生じる愛のあふれから生まれた神の愛の一部であり、その愛から聖霊が発出しているのです。

私たちは比喩としてではなく、文字通りキリストの体です。

これは単に教会が用いる表現にとどまるものではなく、私たちは神の人間性そのものなのです。

 

神は今、地上において私たちとのこのような一致を望んでおられます。

それゆえに神は、ルイサ・ピッカレータに「神のご意志」という賜物を託されたのです。

私たちがすべきことは、その賜物を受け入れ、それについて学び、そして自らの「行ない」や「巡回(ラウンド)」を続けていくことだけです。

本当に単純なことです。

そうすれば神は少しずつ、あなたを本来の秩序、あるべき場所、そして創造された目的へと立ち返らせるためのみ業を行なってくださるでしょう。

しかもそれは天国に行ってからではなく、この地上で行われるのです。

「神のご意志」に生きる魂としての務めを果たすと決意し、神がルイサに約束されたことを、あなたの魂の中で実現していただくようにしましょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

《神のご意志の広大な海に落ちる一滴》

(終)

 

 

 

 

「ドロップ」ブックシリーズ
ルイサ・ピッカレッタの著作に基づく

 

 

 

 

§ § §

 

 

 

《ラウンドに関する教え》

 

万物はすべて創造の一部ですから、「巡回の祈り(ラウンド)」として行えることは無限にあります。
非常に一般的な内容にすることもできます……


「御父よ、すべての人々のあらゆる行ないを私は自分のものとして受け止め、あなたの栄光のために、そして過去・現在・未来のすべての魂に代わって、私の愛を込めてあなたに捧げます
あなたのみ国が来ますように!」


あるいは、非常に具体的な内容にすることもできます……

 

「私はすべての雨粒に声を込め、あなたの栄光のために、そして過去、現在、未来のすべての魂のために、『愛しています』と叫びます。
あなたのみ国が来ますように!」

言葉遣いについて気にしないでください。

聖霊があなたを導いてくださいます。

大切なのは人間が堕落していた過去6000年間、父なる神が人間から受け取るべきだったすべてを、今、捧げはじめることです。
 

ラウンドを行なうのが複雑だと感じるなら、それを段階的に分解してみると良いでしょう。

ラウンドは以下の手順で行ないます。


1. 創造物の一部(例えば、鳥、花、神が星を創造された瞬間、イエスのすべての奇跡、聖人たちの行ない、すべての子どもたちの声など)に思いを馳せ、そこにあなたの声を込めます。

2. そこに「愛しています」という気持ちを込めます。

3. それを父なる神に捧げ、神の栄光を現わします。

4. 過去、現在、未来のすべての魂のために捧げます。

5. 神のみが来るように祈ります。 

(これが私たちが神のご意志の中で生きる理由です。

私たちは6000年間もの回り道を抜け出し、神が私たちに計画された本来の道に戻る必要があります。

私たちが皆が神にふさわしい栄光を捧げるならば、神はみ国を到来させてくださるでしょう。)

ー祈りを「真の」ラウンドにするためには、これらの言葉をすべて使わなければならないのでしょうか?

もちろん答えは「いいえ」です。

最初は、自分が行なっている力強い働きを理解するために、これらの言葉の一部を使うと良いでしょう。

しかし、しばらくするとあなた自身のラウンドが生まれるでしょう。

 

 

§ § §

 

 

シーズン最終戦の真っ最中、一塁手として簡単なラウンドをいくつかやってみましょう。

これをやってみてください。

あなたは最初の打者が打席に立つのを待っています。

イエスとあなたが、巨大な野球選手の山を神の玉座に向かって押しているところを想像してみてください。
あなたは、その想像上の山に、ホッケー、アメリカンフットボール、サッカー、バスケットボールの選手もすべて投げ入れることにしました。
これで、打者が最初のスイングをする前に、あなたはラウンドを終えました。

 

(1)スポーツをする子どもたちのすべての行ないを自分のものとして受け止めましょう。

(2)そこに「愛しています」と書き添えましょう。

(イエスは父なる神への愛のためにすべてをなさったので、あなたがイエスと共に何かをするとき、それは父なる神への愛のためになされるのです。)
 

(3)父なる神の栄光のために捧げましょう。(あなたとイエスは、その山を神の玉座へと押し進めているのです。)
 

(4)過去、現在、未来のすべての魂のために捧げましょう。(イエスはご自身のことなど考えず、私たちすべてのためにすべてをなさったのです。)
 

(5)神の国が来るように祈りましょう。(あなたが球技の試合中にイエスと共にこれらの山を押し進めているのは、ただ楽しむためではないことを知っています。

あなたは神のご意志に従って、イエスと共に神の国を到来させるために働いているのです。)


一塁で更なるラウンドをやり続ける時間は十分にあります。

打者が入れ替わる合間や、新しい投手が準備運動をしている間に、あなたとイエスは木の山を「み座(みざ)」の方へと押し進めます。

近所の犬の姿を見て、あなたは動物の山を押そうと思いつきます。

まとわりつくハエに触発され、あなたは「御父」のために昆虫の大きな山を作ることを思いつきます。

打者が投球を受けて死球となります。

あなたは彼の苦しみと、数え切れないほどのケガや病気の山を「御父」に捧げます。友人が一塁に出塁し、ふたりは言葉を交わします。

イエスと共に、あなたは「御父」に捧げるために温かい言葉の大きな山を作ります。スリーアウトとなってダグアウトへ戻る途中、あなたはイエスが子どものころ、どんな遊びをしていたのだろうかと思いを巡らせます。

あなたは少年時代のイエスが行なったあらゆることの大きな山を作り、イエスと共にそれを「御父」の「み座」の方へと押し進めていくのです。

 

これで一塁ベースでラウンド(の祈り)ができました。

野球の試合中にラウンド(の祈り)ができるなら、どこでもできます。

イエスと共に、なんでもしましょう。

神のご意志の中で成長していくにつれ、聖霊があなたを導き、あなた自身のラウンドの祈りを、神のご意志に沿った行ないで満たされた日々に取り入れていくことができるようになります。

ラウンドがあなたにとって第2の天性となり、暗い部屋に入った時に電気をつけるように自然にできるようになったら、あなたは神のご意志に沿った生き方へと着実に歩んでいると言えるでしょう。

 

「神のご意志」について、できる限り多くを読み、学んでください。

神のご意志について学ぶことは、神の本質そのものについて学ぶことでもあります。神のご意志とは、父と子と聖霊が共にわかち合っておられる唯一のご意志であり、3つの位格の「一致」そのものです。

神のご意志について学べば学ぶほど、私たちは神の神性をより深くわかち合うようになります。

それは、神が私たちに与えてくださった最高の贈り物なのです。

 

カトリック教会には、数多くの運動、信心会、修道会、そしてさまざまなグループが存在しています。

「司祭のマリア運動」は、神の御母を通して私たちを神へと近づけてくれます。

「カリスマ運動」は、神のご臨在や天国の雰囲気を体験させてくれます。

これらはすべて神に近づくための梯子(はしご)の段のようなものです。

しかし「神のご意志」という賜物は、その梯子の頂上にある「屋根裏部屋」のようなものです。

それはあなたの人間的な意志と引き換えに与えられる、神ご自身の意志なのです。

それ以上高い場所は存在しません。

あとは、その屋根裏部屋の中を探索するだけです。

今のところ、周囲を見渡すための小さな明かりしか持っていないかもしれません。

屋根裏部屋の隅々までは見えないでしょう。

しかし「神のご意志」について学べば学ぶほど、神はより大きく明るい光をあなたに与えてくださるはずです。

神を喜ばせるために必要なものはすべて、その屋根裏部屋にあります。

そしてあなたがその屋根裏部屋にいるなら、あなた自身も幸せになれるのです。

書物を読み「多くの巡回(ラウンド)」を行なうことによって明るい光を求め、励んでください。

そうすれば神はルイサに明かされたように、あなたにも「神のご意志」の奥義をわかち合ってくださるでしょう。

 

ルイサの著作が世に出る以前は、だれもが「神のご意志のうちに生きる」という新しい生活について知るためには、煉獄や天国へ行くまで待たなければなりませんでした。

しかし今、私たちは地上にいながらにして、この「神のご意志」について学ぶ機会を与えられているのです。


イエスはルイサに、地上で「神のご意志のうちに生きる」人々こそが、天国において最も偉大な聖人となるのだと語られました。

 

アダムとエバがエデンの園でどのような生活を送っていたか、思いを巡らせてみてください。

彼らは神の創造物である美しいものや驚くべきものに囲まれていました。

彼らは神がすべてを自分たちの喜びのために造られたことを知っていただけでなく、動物や植物、あらゆる生き物を通して、自分たちに向けられた神の愛を感じ取ることができたのです

神がご自身の創造物をもって彼らを包み込まれる中、アダムとエバは、神の聖なるご意志を用いて、神の愛に応えていたのです。

 

今の世界に目を向けてみましょう。

窓の外で鳥がさえずり、柔らかなそよ風が髪をなで、太陽が顔を温かく照らすとき、神のことを思い浮かべる人がどれほどいるでしょうか。

そうした人はごくわずかです。

人の意志と罪が、人間を神から遠ざけてしまいました。

人間は神からあまりにも遠く離れてしまったため、神の愛を感じることができず、それゆえに神へ愛を返すこともないのです。
神は6千年もの間、こうした愛のやり取りをすることなく過ごしてこられました

私たちはエデンの園から、あまりにも遠く離れてしまっているのです。
 

真理を知り、神のご意志を受け入れた人々は、自らの「行ない」や「巡回(ラウンド)」を通じて、過去・現在・未来のすべての人々のために、この愛のやり取りを捧げることができます。

これこそが、まさに「行ない」や「巡回」の本質です。

すなわち、日々の生活の中で神の愛を意識し、かつて「エデンの園」でそうであったように、神に愛をお返しすることなのです。

 

「神のご意志」のうちに生きるなら、あなたは深い平安に包まれるでしょう。

それは単なる地上の平安ではなく、天から直接もたらされる平安です。

周囲でどんなに混乱や狂気が渦巻いていようとも、その平安が揺るがされることはありません。

たとえ神の正義を満たすための、痛みを伴う浄化の時を世界が迎えたとしても、あなたは「神のご意志」の平安で満たされていることでしょう。

あなたは神のいのちを生きているのですから、サタンやその卑劣な策略があなたに近づくことはできません。

周囲で素晴らしい出来事が起こりはじめ、あなたは驚くかもしれません。

「神のご意志」のうちに生きることは、地上に天国をもたらすことだからです。

あなたはマリアや天国の聖人たちとおなじいのちを生きていますが、彼らでさえもできないことを行なうことができます。

それは神の国を到来させるために「行ない」や「巡回(ラウンド)」を捧げることなのです。

 

あなたは決してもうひとりではありません。

なぜならイエスがあなたの中に「二重に現存」し、あなたの手や足、そして声を用いられるからです。

あなたはイエスとおなじ意志――すなわち主のご意志――に従って行動するため、その身体において、あらゆることをイエスと共に成し遂げるのです。

今のあなたは、聖櫃に安置されたご聖体とおなじく、生ける聖体となっています。

ただし、イエスが用いることのできる手や足、腕、そして声――つまり「あなた自身」を備えた、生ける聖体なのです。

 

この本の終わりに「私たちのあらゆる行ないにおいて『神のご意志』が働かれるよう求める祈り」が載っています。

「神のご意志」に沿って生きると決意した以上、自分は今や「生ける聖体」なのだと心に留めるために、この祈りを毎日唱えるのは素晴らしいことです。

イエスがなさろうとすることすべてに対して、ただ「はい」、あるいは「フィアット」と応えてください。

「フィアット」とは、「ご意志が行われますように」という意味です。
 

マリアが、神がお望みになったすべてのことに対して「フィアット」、つまり「はい」と答えられたことを思い出してください。

神はあなたの「フィアット」を試されることでしょう。

ですから、どんな時も神に対して「はい」と答えるようにしてください。

 

罪に満ちたこの世において、「神のご意志のうちに生きる」ことは、必ずしも容易なことではありません。
特に歩みはじめたばかりのころはなおさらです。

神はあなたの中から罪と世の要素を取り除き、神のいのちをあなたの中に注ぎ込まなければならないからです。

その過程は、時に痛みを伴うこともあるでしょう。

それでも、ただイエスを信頼し続けてください。

主があなたの中で具体的になにをしておられるのか、完全にはわからないかもしれません。

しかし、しっかりと主にすがりつき、その導きに身を委ねて進んでいくのです。

やがて「神ご意志のうちに生きる」ことが完全に身につき、その恵みを自分のものとして生きられるようになったとき、あなたは最後まであきらめずに歩み続けたことを、心から喜び感謝することでしょう。

「神のご意志のうちに生きる」人は皆、この上ない喜びの中にいるのですから

 

「神のご意志」のうちに生きるには、大きな信仰が必要です。

自分の行ないや「巡回(ラウンド)」がどのような善をもたらしているのか、目に見えるような成果をあなたは目にすることはないでしょう。

「神のご意志」にかなった行ないをした後、恵みの波が世界を覆うのをその目で見られたら、どんなに素晴らしいことでしょうか。

しかし、おそらくそのようなことは起こらないでしょう。

イエスが言われたことを思い出してください。
「見ないで信じる人は幸いです。」

「神のご意志」を生きる使命を果たすには、忍耐力が必要です。

イエスは絶えずルイサに「心を配りなさい」と諭されました。
あなたが行なうすべての行ないや「巡回」は重要なものです。

そして、さらに学び続けることも必要です。

それを考えるだけで、疲れを感じるかもしれません。

ルイサも当初、数々の行ないや「巡礼」を行なうことで、ひどく疲れ果ててしまうことがよくありました。

そんな時、イエスは解決策を示されました。

被造物の中を巡る「飛翔」で疲れたなら、「わたしの心の中で休み、憩いなさい」と。イエスが語りかけてくださる静かな場所へ行きましょう。

そうすれば、主があなたを新たにしてくださるでしょう。

主がルイサに言われたように、主はあなたをふたたび務めへと向かわせられ、「神のご意志」の中へと「より速く、より広範囲にわたる飛翔」ができるようにしてくださるのです。

御国が来ますように!

 

 

 

§ § §

 

 

 

私たちのあらゆる行ないにおいて

「神のご意志」が働くよう求める祈り

 

私たちは無であり、神こそがすべてです。
御父よ、私たちはあなたを愛します。
ああ、神のご意志よ、どうか働き続けてください。
 

+ 私たちの心の中で思考し、
+ 私たちの血の中を流れ、
+ 私たちの目を通して見、
+ 私たちの耳を通して聞き、
+ 私たちの声を通して語り、
+ 私たちの呼吸の中で息づき、
+ 私たちの心臓の中で鼓動し、
+ 私たちの動きの中で動き、
+ 私たちの苦しみの中で共に苦しんでください。
 

そして、私たちの魂はあなたと結ばれているのですから、
私たちを、御父の栄光のために捧げられる
生ける十字架としてください。
 

+ 私たちの内で祈り、そしてこの祈りを
私たち自身のものとしてあなたに捧げることで、
あたかもすべての人が祈ったかのようにし、
私たちが皆で捧げるべき栄光を
御父に与えるものとしてください。
 

+ アーメン

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

《神のご意志の広大な海に落ちる一滴③》

 

 

 

 

「ドロップ」ブックシリーズ
ルイサ・ピッカレッタの著作に基づく

 

 

 

§ § §

 

 

 

神み業は無限のものです。

地上で神のみ業が行われるとき、それは無限に広がる光のようなものです。

あらゆる被造物がその光を感じ取り、神はそれを大いに喜ばれます。

こうした無限の神のみ業は地上のすべての人々に広がり、父なる神は私たちの世界をより好意的にご覧になるのです。

 

神が御子をメシアとして遣わすのにふさわしい時が来たと確信されたのは、マリアが「神のご意志」のうちに行われた数々の行ないによるものでした。
おなじように、私たちが「神のご意志」のうちに行なう数々の行ないこそが、神を動かし、地上に神の国が到来することを許し、「主の祈り」を成就させることになるのです。

 

ルイサを通して「神のご意志のうちに生きる」という賜物が私たちに与えられる以前は、聖人たちが神に対して行ない得たのは、善良で聖なる人間的な愛の行ないだけでした。

それらの行ないは無限ではなく、堕落した世界を覆うために全被造物へと広がり及ぶものではありませんでした

 

ですから、「神のご意志」にとどまり、人間の意志によって時間や行ないを無駄にしないことが、いかに重要であるかがおわかりいただけるでしょう。

メシアの到来の時とおなじように、御父は、ご自身のみ国を到来させる前にどれだけの行ないが必要であるかを、正確にご存じなのです。

 

「神のご意志」において行ないを行なうとき、天使たちはその行ないを御父のみ座へと運びます。

御父はその行ないを限りなく喜ばれ、全被造物に向けてひとつの波を送り出されます。

天の聖人たちと天使たちはより大きな栄光を受け、煉獄の霊魂は安らぎの波を受け、そして全被造物は祝福を受けるのです。

 

「神のご意志」においてなされるすべての行ないは神聖なものであるため、ある行ないが他の行ないよりもいっそう神聖であるということはありません。
しかし神は「神のご意志」においてなされた行ないに対して、それぞれ異なる形で応えられます。
「神のご意志」のうちに部屋を掃除するという行ないは、父なる神が栄光と恵みの波を放たれるきっかけとなります。
一方、「神のご意志」のうちにご聖体拝領を行なうことは、すべての魂の上に秘跡の恵みを注ぎ込むのです。

 

「神のご意志」のうちにあって、今日ご聖体を拝領するならば、おどろくべきことに、たとえ極悪人であっても、自ら求めもせず、また受けていることさえ気づかないような秘跡の恵みが与えられるのです。

彼らはふと目覚めたときに、以前より少しだけ心が軽くなっているのを感じるかもしれませんが、その理由まではわからないかもしれません。

とはいえ、自分に注がれたその恵みにどう応えるかは、あくまでひとりひとりに委ねられています。

多くの人は、罪深い生活に囚われているため、すぐには応えないでしょう。

しかし、「神のご意志」に生きる人々が行なう数多くの行ないによって生み出される、この「功徳によらない恵み」の波を絶えず浴び続けるならば、やがてその恵みに応える者も現れるはずです。

 

「神のご意志」において行われた行ないによって生じるこの恵みの波が、いかにして世界を変えうるか、おわかりいただけるでしょう。

聖書の預言者たちは、世界が1000年にわたって経験することになる「平和の偉大な時代」を預言してきました。

「神のご意志」という賜物は、その時代を到来させるための神の計画なのです。

「神のご意志」は私たちを清めるだけでなく、同時に世界をも清め、地上における神の国の完成をもたらすものです。

 

「神のご意志」において行われる行ないに加え、「神のご意志」における祈りもまた、神の国を到来させる助けとなります。

他のすべての行ないと同様に、これらの祈りは、あたかもイエスご自身が祈られたかのように、神聖なものとなります。


「巡回(ラウンド)」とは、「神のご意志」における祈りのことです。

「巡回」の目的は、神にふさわしい栄光を神に捧げることにあります。

「巡回」を理解するためには、次のことを知る必要があります。

すなわち、神がひとりひとりの人間を創造された際、その人が「神のご意志」において行なうべき数多くの行ないをも創造された、ということです。

たとえその人がそれらの行ないを行なわないことを選んだとしても、それらの行ないは永遠の中に存在し続けています。

つまり人は皆、肉体と魂だけでなく、自らが所有すべき行ないをも持っているのです。


「神のご意志」という賜物が失われたとき、人は人間の意志によってのみ、これらの創造された行ないを自分のものにすることしかできなくなりました。

これは神のご計画ではありませんでしたし、神に栄光を帰するものでもありませんでした。

ですから私たちは、「神のご意志」を用いて「巡回」を行ない、過去6000年にわたって他の人々によってなされたすべての行ないを自らのものとし、それらを神が本来受けられるべき神聖な贈り物として、御父に捧げなければならないのです。

 

これは決して小さな務めではありません。

イエス、マリア、ルイサ、そして「神のご意志」に生きる子ら(つまり、あなた方のことです)を除き、エデンの園での堕落以来行われてきたすべての行為は、人間の意志によってなされたものでした。

たとえ聖人が行なった善い行ないであっても、それが人間の意志によるものである限り、神にふさわしい栄光を神に捧げることにはなりません。

また、本来なら行われるはずだったのに、それを行なうべき人々が悪しき行ないを選んだために、実際には行われなかった行為も存在します。

そうした「なされなかった行為」は今も存在し、時の中で宙に浮いたままになっています。

私たちはそれらすべてをも自分のものとし、「神ご意志」の中へと導き入れ、御父に捧げなければなりません。

こうした「巡回(ラウンド)」を行なうことを通して、私たちは、過去6000年にわたって神がお受けになることのなかった神聖なる贈り物をお返ししようと努めているのです。

 

これらの「巡回(ラウンド)」は、自分ひとりで行なうことができます。

ミサに参列しているなら、朗読箇所に登場する人々が行なったすべての行ないを、自分のものとして受け取ることができます。

聖人の祝日であれば、その聖人が行なったすべての行ないを自分のものとすることができます。

「神のご意志」のうちに芝刈りをするなら、自宅で働いたことのあるすべての人々の行ないを、自分のものとして受け取ることができます。

あらゆることを「神のご意志」の中へと取り入れるのです。

 

決して自分のために祈ってはなりません。

あなたは「神のご意志」の中にあり、神があなたを、あなたのあらゆる心配事から守り導いてくださるからです。

常に、過去・現在・未来のすべての魂のために祈ってください。

それこそが、他者のためにあなたができる最も偉大なことなのです。

 

歴史をたどりながら「巡回の祈り(ラウンド)」を行なうための良い方法のひとつは、ルイサが記した「創造を巡る祈り」が収められた本を活用することです。

彼女は単に天地創造の七日間をたどるだけでなく、エデンの園での出来事や旧約聖書の歴史、イエスとマリアの生涯、そして教会に関する事柄についても語っています。

こうした本を読めば、あなたもルイサと共に「巡回の祈り」を捧げていることになるのです。

 

もちろん、イエスやマリア、そしてアダムとエバ(彼らが罪を犯す前)が行なったすべての行ないは、「神のご意志」においてなされたものでした。

しかし私たちは、「神のご意志」を用いて彼らの行ないをくり返し、それを自分自身のものとし、神の栄光のためにふたたび御父にお捧げすることができるのです。

神は、こうした行ないがくり返し捧げられることを大変喜ばれ、次から次へと絶え間なく恵みをもって応えてくださるでしょう。

さらに、神ご自身の「創造のみ業(みわざ)」を自らのものとして受け止め、神のさらなる栄光のために神にお返しすることさえできるのです!

 

さらに、すべての生き物が神に栄光を捧げるのを助ける、もうひとつの種類の「賛美(ラウンド)」があります。

 

アダムとエバ、そしてその子孫がすべての被造物のための祭司として振る舞うことは、神のご計画でした。

私たちの声を通して、鳥や動物、岩や水、星々、そしてあらゆる生き物が、父なる神を賛美することになっていたのです。

しかし、「神のご意志」を失ったことで、人はもはや司祭としての務めを果たせなくなりました。

人は、神のご意志のうちに生きることのない唯一の被造物となってしまったのです。

だとしたら、どうしてすべての被造物のための祭司であり得るでしょうか。

しかし今、その賜物が取り戻されたことで、私たちは祭司としての本来の務めを果たすことができるようになったのです。

 

こうした「巡回(ラウンド)」において、私たちは鳥や水、木々に自らの声を託し、それらを通して御父に愛と賛美と栄光を捧げます。

人間以外のすべての被造物には、自らの声でこれを行なう能力が備わっていません。被造物はせいぜい、その美しさや力強さ、雄大さ、壮麗さを現わすことによって神の特質を映し出し、そうした形で神に栄光を帰しているにすぎないのです。

巨大な星から小さな種に至るまで、あらゆる被造物は6000年もの間、「神のご意志の子ら」が自分たちを助け、御父に完全な栄光を捧げられるようにしてくれる時を待ち続けてきたのです。

 

もし鳥に声があったら、どのように神を賛美するでしょうか?
確かなことは分かりませんが、想像することはできます。
 

「神さま、私の翼を支えてくれる空気をありがとうございます
あなたが作られたこの木は、巣を作るのに最高の場所です。
地面を柔らかくして、みずみずしいミミズを見つけやすくしてくれている、恵みの雨にも感謝します。
あなたの美しい世界の上を、高く飛びます。
御父よ、愛しています……」

 

今や私たちは祭司として、その鳥に私たちの声を託すことができます。

そうすれば、鳥はついに神に向かって「あなたを愛しています」と告げることができるのです。

私たちは、すべての被造物のためにこれを行なうことができるのです。

 

苦しんでいる人を見たり、その知らせを聞いたりしたときに捧げる祈りは、とても有意義なものです。

例えば、近所の人が病気であることを知ったり、テレビのニュースでアメリカ兵が戦死したことを知ったりすることもあるでしょう。

世界には数え切れないほどの苦しみがありますが、その多くはムダにされています。イエスの十字架と結び合わされた苦しみには、贖いの力があるのです。

しかし、その苦しみを父なる神に捧げるために時間を割く人は、ほとんどいません。
 

次にだれかが苦しんでいるのを見たり聞いたりしたら、それを巡回の祈りにしてください。


「私は、学校でいじめられている知り合いの苦しみを引き受けます。

それをイエスの十字架と結びつけます。

父なる神よ、あなたの栄光のため、そして過去、現在、未来のすべての魂の罪の償いのために、それをあなたに捧げます。

あなたのみ国があなたと共にありますように」

 

どのような苦しみもムダにされるべきではありません。

なぜなら、それを御父に捧げるならば、それは私たち全員が犯した罪と、煉獄にいる魂のための償いとなるからです。
 

癌に苦しむ人など、悲劇的な状況にある人のことを耳にしたとき、その人とその家族のために祈ることができます。

神がその人を天国へ迎え入れたいと望んでおられることもあるので、その人を肉体的にいやすことが常に神のご計画であるとは限りません。

しかし、その人と家族が経験している苦しみを、すべての魂の益となるよう神(御父)に用いていただくよう祈ることは、いつでもできます。

神は必ずこうした祈りに応えてくださいます。

そうすることで、あなたは大きな平安を感じるでしょう。

なぜなら、非常に悲しいかもしれない状況から、無限の善を引き出していることになるからです。

 

どのようにすれば、自分の祈りをすべての人やあらゆる被造物の中にまで広げ、増し加えることができるのでしょうか?

イエスとマリアの行ないを、どのようにして自分自身のものとすることができるのでしょうか?

被造物の中に、どのようにして自分の声を響かせることができるのでしょうか?

過去、現在、そして未来に行われた行ないを、どのようにして自分のものとすることができるのでしょうか?

そして、他者の苦しみを、どのようにして神に捧げることができるのでしょうか?

 

「神のご意志」こそが神の本質であり、今やあなたは神の神聖なるいのちにあずかっているのだとことを心に留めてください。

神は至る所におられるのですから、あなたもまた至る所にいるのです!
イエスは、「神のご意志」のうちに生きる魂を、神のご意志という広大な海に溶け込んだ一滴の水に例えられました。

たとえあなたが家や学校にいるように見えたとしても、実際には、過去・現在・未来のあらゆる被造物の中に存在しているのです。

あなたは木々や星々、他の人々、そして煉獄の魂の中にさえいるのです。

こうしてあなたは、あらゆる被造物の中に自分の声を響かせ、数々の行ないを自分のものとし、それらの行ないを無限に増やすことができるのです。
 

そんなことは不可能に思えるでしょうか?
 

神にとって不可能なことなど、なにひとつないのです!

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

《神のご意志の広大な海に落ちる一滴②》

 

 

 

 

「ドロップ」ブックシリーズ
ルイサ・ピッカレッタの著作に基づく

 

 

 

§ § §

 

 

 

神がどのように物事を行われるか、見てみましょう。

ユダヤの人々は何世紀にもわたって、メシアの到来を祈り求めていました。

やがて神は、その祈りに応えるために定められた時が満ちたので、ナザレに住む慎ましく若い乙女マリアをお選びになりました。

そして、私たち皆への贈り物として、メシアである幼子イエスを彼女に託されたのです。

 

そして100年以上前、イエスはイタリアの慎ましい少女ルイサに現われ、「神のご意志のうちに生きる」という賜物をお与えになったとき、神は「主の祈り」における願いにお応えになりました。

ルイザにこの賜物をお与えになった際、神は私たち全員にもそれを授けてくださったのです。

 

イエスはルイサに何千回とも現われ、彼女に数々の恵みを注がれました。
主は彼女をあらゆるものから空(から)にし、人間の意志がいかに大きな悪であるかを悟らせ、彼女がその人間の意志を退けたとき、「神のご意志のうちに生きる」という賜物を彼女に与えられました。

 

64年以上にわたって、イエスはルイサに現われました。
彼女はその間ずっと、病床に伏せっていました。

長年にわたり、彼女はほとんど何も口にせず、ただご聖体を受けているだけでした。
学校には最初の2年間しか通いませんでしたが、イエスは彼女に、「神のご意志」について、ひたすら書き記すようお命じになりました。

 

ルイサは80歳代まで生き、全部で36巻の著作を書き残しました。

イエスはそれらの書物に次のような名を授けられました。

「天国の書―被造物を神によって創造された本来の秩序、あるべき場所、そして目的へと呼び戻す書」。

 

神からその賜物を与えられたルイサに対し、イエスは「神のご意志」のうちに生きることの美しさ、力、そのもたらす効果や価値、そして生き方について教えられました。

イエスとの極めて個人的な対話について書き記すことは、ルイサにとって気が進まないことでしたが、イエスは私たちのために、それらの対話を書き留めるよう彼女に命じられたのです。

 

イエスはルイサに、ご自分の受難や聖母マリアに関するものなど、他にもいくつかの本を書き記させられました。
これらの本はイエスとマリアが私たちのために、その内面においてどのようなことを行われたかを教えてくれます。

厩(うまや)での誕生、エジプトへの避難、イエスの説教や奇跡、死、そして復活といった、彼らが行なった「外面的な」出来事については、誰もが知っています。

しかし、彼らがそうした外面的な行ないをしているのと同時に、その内面においても多くのことを成し遂げておられました。

なぜなら、彼らの内には「神のご意志」が働いていたからです。

もし私たちが、彼らが神のご意志の中で内面的に行われたことを学ぶなら、私たちもまたおなじようにそれを行なうことができるでしょう。

ですからそれらの本は、あの「贈り物」の重要な一部なのです。

 

イエスはルイサに、その「賜物」を知ることが大切だと語られました。

なぜなら、それがなんであるのかを知らなければ、賜物はなんの役にも立たないからです!

今や私たちには、この偉大な賜物について説いておられるイエスのみ言葉が記された数々の書物があります。

もし多くの人がこれらの本を読み、神が与えようと望んでおられる大きな恵みに対して心を開くならば、その賜物は広まり、神の国が到来することでしょう!

 

ルイサに「神のご意志」という賜物が与えられる前、人々にはふたつの選択肢がありました。

それは神のご意志を行なうか、それとも自分の意志を行なうか、ということです。

しかし今や、私たちには第3の選択肢があります。

それは、「神のご意志のうちに生きる」ことです。


これら3つの選択肢のちがいを理解することが重要です。

 

神のご意志を(自分の意志で)行なおうとする人間は、神のご意志を行おうと努力しますが、神のご意志に従って生きるという賜物を持っていません

神のご意志は至る所に存在するため、その人の中にも神の意志たしかに存在していますが、彼女の行動すべては彼自身の人間的な意志によって動かされている。

彼女の人間的な意志の働きのひとつは、神のご意志とはなにかを判断し、それを実行しようとすることです。

もちろん、彼女の人間的な意志は神のご意志とは切り離して働くように創造されていないため、彼女はこれを不完全に、そして非常に困難な方法で行っています。

彼女はさまざまな状況において、神が自分になにを望んでおられるのかを何度も疑問に思い、わかったと思っていても、それを実行に移すのに苦労することが多いのです

神は彼女の行ないからほとんど栄光を受けられることはありません

 

自分の意志に従って行動する人については、神のご意志はすべての被造物の中に存在するため、その人の中にも神のご意志は宿っていますが、彼自身は神や神のご意志についてほとんど関心がありません。

彼女は自分の思い通りにすることに心を砕いています。

たとえそれが神のご意志に反することであっても、彼女の行なうすべてのことは、彼女自身の人間的な意志によって動かされているのです。

その結果、神に栄光が帰されることはなく、むしろ神は彼女の行ないによって不快な思いをさせられるのです。

 

そして、3つ目の選択肢、すなわち神のご意志に従って生きる道が訪れます。

 

その人は贈り物を受け入れます。

今や、彼女の行動すべてを動かすのは、彼女自身の意志ではなく、神のご意志です。

彼女には依然として人間の意志がありますが、その唯一の働きは、彼女の中で働く神の意志に「はい」と答えることだけです。

神のご意志を知り、それを行なうことの困難や葛藤は消え去り、神のご意志に従って生きる平安が支配します。

すべての活動が神ご自身のご意志によって行なわれるため、神は完全で無限の栄光を受けられるのです
これこそが、神がすべての人から受けるべき栄光です。

 

もしあなたが「神のご意志のうちに生きる」というこの賜物を心から望むなら、神はそれをあなたに与えてくださるでしょう。

神は、あなた自身がそれを望む以上に、あなたにそれを受け取ってほしいと願っておられるのです。

神は、私たちがご自身のもとへ立ち返り、神のご意志のうちに生きることを何千年もの間待ち続けてこられました。

私たちが神の喜びとなり、また私たちが幸せになることを望んでおられるからです。

そしてこの賜物があれば、私たちは神にふさわしい栄光を捧げることができます。

これこそが、神が私たちを創造された本来の計画へと、私たちを立ち返らせるものとなるのです。

 

 

 

 

この素晴らしい贈り物を受け取る方法はこちらです
とても簡単です

ただそれを望むだけでいいのです
ですから、それを求めてください!

 

 

 

§ § §

 

 

 

 

「私は自分の意志を捨て
神のご意志の中で生きたいと願います。」

 

これは、あなたが人生で口にする言葉の中で、最も重要なものとなるかもしれません。

この言葉によってあなたは神に対し、もはや自分の意志ではなく、神のご意志に従いたいと告げることになるからです。

 

あなたはアダムとエバが「堕落」する前のあり方へと立ち返ろうとしているのです。

 

この宣言と共に、あなたは素晴らしい冒険の旅に出ることになります。

それは、あなたを「地上の天国」へと導く冒険です。

変化はごくゆっくりと訪れるでしょう。
しかし、もしあなたが「神のご意志のうちに生きる」というこの賜物に忠実であり続けるなら、神はあなたのうちに偉大なみ業を行ってくださるでしょう
神はあなたを、本来あるべき姿の人間へと変えてくださるのです。
また、あなたやあなたとおなじようにこの賜物を求めた人々は、「天にあるように地にも」神の国が実現するよう、その到来を助けることになります。

あなたは「主の祈り」が成就する過程において、重要な役割を担うことになるのです。

 

「神のご意志」に沿って生きはじめても、すぐに自分に完璧さを求めないでください。

「神のご意志」があなたを神のいのちで完全に満たすには、ある程度の時間がかかるからです。

なぜなら、あなたはこれまで長いあいだ、自分自身の「人間の意志」を用いて生きてきたのであり、それを指を鳴らすように一瞬でやめてしまうのは非常に困難なことだからです。

もちろん、神にはそれを一瞬で行なうことも可能ですが、神はそのようなやり方はなさいません。

神は、私たちが圧倒されてしまうことなく、また神が愛ゆえに与えてくださるこの賜物を深く味わえるようにと、私たちがこの賜物の中でゆっくりと成長していくことを望んでおられるのです。

 

神は、私たちが何度も間違いを犯すことをご存知です。
特に最初はそうです。

もしあなたが神のご意志に反することだとわかっていることをしてしまったら、例えば友達とケンカをしたり、両親に逆らったりしたとしても、落胆しないでください。神に謝罪し、もしそれが重大な罪であれば告解に行きましょう。

そして、もう一度神にその贈り物を求めてください。
神は喜んで何度も何度もあなたに与えてくださいます。
神を信じて、求め続けてください。

 

自分の人間の意志で動くことで、一瞬たりとも時間を無駄にしないでください!

 

あなたが今「神のご意志」のうちに生きているなら、神はあなたに対して働きかけをはじめられます。

それこそが、イエスがルイサに与えられた約束でした。

神はゆっくりと、しかし確実にあなたを清めていかれます。

あなたが神の聖なるご意志のうちに生きているので、神はあなたから本来ふさわしくない罪や悪習を取り除いてくださるのです。

そうしてそれらを取り除きながら、神はご自身の性質をあなたに満たし始めてくださいます。

つまり、悪いものを取り出し、良いものを満たすしてくださるのです

 

たとえば「高慢を取り除くための10段階のプログラム」を自分で作り上げる代わりに、ただ「神のご意志」にとどまりさえすれば、神がその働きを成し遂げてくださいます。

やがて、あなたは罪を犯すことが次第に少なくなっていることに気づくでしょう。

神があなたを聖さへと導いておられるからです

 

浄めのみ業が進められるのと同時に、神はあなたを天国に備えさせるために、他のことも行なわれます。

神はあなたから世俗的な態度を取り除き、今もあなたを苦しめている過去の傷をいやしてくださいます。

また、天国について教え、世やサタンがあなたに吹き込む偽りを取り除いてくださるのです。

 

こうした学びには、時に困難を伴うこともありますが、天国への備えとなるのですから、その苦労をするだけの価値はあります。

実際、天国にいるだれもが、幸せになるためには金銭や物質が重要だとは考えていないのです。

 

あなたは今、「神のご意志」のうちに生きています。

時折、人間的な意志に立ち戻ってしまうことはあるにしても、あなたはアダムとエバが神に背く前に送っていたのとおなじ生を生きているのです。

たとえ自分ではなんの変化も感じられなかったとしても、あなたは「地上の天国」への第一歩を踏み出しているのです。
 

イエスはかつてルイサにこう言われました。

「それができないかどうか心配してはいけません。

なぜなら、どうすればよいかは、わたし自身が少しずつあなたに教えるからです。」

もしあなたが心からこの賜物を望むなら、イエスを師と仰ぐ以上、失敗することなどあり得ないのです

 

時が経ち、あなたの中で「神のいのち」が成長するにつれて、あなたはますます多くのことを、あるいは奇跡のようなことさえも体験するようになるでしょう。
ルイサは生涯の終わりの頃、新しい聴罪司祭と一から関係を築き直すのは嫌だという理由で、亡くなった聴罪司祭を生き返らせたことさえありました!

もしかすると聖フランシスコの場合のように、鳥たちがあなたの肩に止まるようになるかもしれません。
しかし、奇跡を追い求めてはいけません。

「神のご意志」のうちに行なう日々の行ないこそが、より重要だからです。

なぜならそれらは今や「神のみ業」となっているからです。

あなたが神のご意志を用いることで、イエスご自身がそれらの行ないを行われたことになるからです

 

ルイサは自分のささやかな行ないが「神聖なもの」であるとは、なかなか信じられずにいました。
イエスは、神が行なうことはすべてが神聖なものであると説かれました。

たとえ小さな行ないであっても、それが「神のご意志」においてなされるならば、それは神聖なものとなるのです。

神は天を創造されましたが、同時に、あの小さな種をもお造りになったのです。

 

「神のご意志」のうちに過ごす1日は、一見ごくありふれたものに思えるかもしれませんが、実際には極めて特別なものです。

神のご意志のうちに生きはじめたばかりのころは、日々の生活の中でなにかを行なったり、これからなにかをはじめたりするたびに、その行ないを自分の中で神のご意志によって行わせていただくよう、神のご意志に呼びかけることが助けとなるでしょう。

そうすることで、自分のあらゆる活動が神のご意志によって生かされているのだと、思い起こすことができます。
顔を洗うこと、昼食をとること、祈りを捧げること、勉強に励むこと――そのすべてが、神のみ業なのです。

 

この賜物において成長するにつれて、あなたは「神のご意志」をあえて自分に言い聞かせる必要はなくなるでしょう。

なぜなら、一日中絶えずその賜物を意識するようになるからです。

神のご意志は、ご自身のいのちであなたを満たしています。

やがてあなたは、神のご意志を意識するだけでなく、それが自分の中で働いているのを感じ取れるようになるかもしれません。

ルイサはこの神的ないのちの歩みの中で、イエスが実際に自分の腕を持ち上げてくださるのを感じられるほどの境地に達しました。

 

ナザレの小さな家で、聖ヨセフとイエスのお世話をされた聖母のささやかな行ないは、すべてが神聖な行ないでした。

今、あなたも神からの贈り物である「神聖ないのち」を生きはじめ、呼吸をするたびに数え切れないほどの神聖な行ないを重ねていくことで、あなたの家庭もまたナザレの小さな家となるのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

《融合の喜び》

(終)

 

神のはしためルイサ・ピッカレータに与えられた
イエスの「天の教え」
(『天国の書』より)

 

 

 

§ § §

 

 

 

イエスは被造物の

「絶え間ない行ない」を望んでおられます
たとえそれがどんなに小さくとも

主はそれをご自身の行ないと結び合わせ
偉大なものとし

ご自身の神聖な命を形作られます
(1917年12月28日)

 

「いつもの状態のまま、少し苦しみを感じていた私は、心の中でこう考えました。

「どうして私は、昼も夜も安らぎを見出せないのだろうか。

それどころか、体が弱り、苦しみが増すほどに、意識はますます冴えわたり、休むことができない」。

すると、愛するイエスが私にこう言われました。
 

「娘よ、あなたはその理由を知りませんが、わたしは知っています。

今、それを話しましょう。

わたしの人間性には安らぎがありませんでした。

眠っている間さえ休息はなく、絶えず働いていたのです。

なぜなら、すべての人とすべてのものにいのちを与え、わたし自身の内で万物を新たに作り直さねばならなかったからです。

一瞬たりとも休まずに働くことが必要でした。

いのちを与える者は、絶え間ない働きと途切れることのない『行ない』の中にいなければならないからです。

それゆえ、わたしは自分の中から被造物のいのちを送り出し、それを受け入れるという『絶え間ない行ない』の中にいたのです。

もしわたしが休もうとしていたら、どれほどのいのちが送り出されずにいたでしょうか。

わたしの絶え間ない行ないがなければ、どれほどのいのちが成長せず、しおれたままになっていたでしょうか。

いのちを与えることのできる唯一の者の『いのちの行ない』が欠けていたら、どれほどのいのちがわたしの中に入ることができなかったでしょうか
 

さて、娘よ。

わたしはあなたに、わたしの『ご意志』の中でわたしと共にいてほしいと望んでいるからこそ、あなたの『絶え間ない行ない』を求めているのです。

したがって、目覚めているあなたの意識も『行ない』であり、祈りのつぶやきも『行ない』、手の動きも、心臓の鼓動も、まなざしの動きも、すべてが『行ない』なのです。

それらは小さなものかもしれませんが、それがなんだというのでしょうか。

そこに動きがあり、種があるかぎり、わたしはそれをわたしの行ないと結び合わせ、偉大なものとし、いのちを生み出す力を与えるのです。
 

わたしの行ないも、一見すると偉大なものばかりではありませんでした。

とりわけ幼い頃、母の胸にすがりついて乳を飲んでいたとき、わたしは母に口づけしたり、優しくなでたり、その手に小さな手を絡ませたりして楽しんでいました。

やがて少し大きくなると、花を摘んだり、水を運んだりといったことをしました。

これらはすべて些細な行ないでしたが、わたしの「意志」と「神性」においてひとつに結ばれていました――それで十分だったのです。

それらは何百万、何十億ものいのちを創造し得るほどに偉大なものでした。

ですから、私がうめき声を上げると、そのうめき声の中から被造物のいのちが生まれてくるのです。

わたしが乳を飲み、口づけし、いつくしむたびに、いのちが生まれていきました。

御母の手と絡み合うわたしの指の間を魂が流れ、わたしが花を摘み、水を汲むときには、わたしの「造られざるみ心」の鼓動から魂が生まれ出て、そのみ心の中へと入っていったのです。

わたしの動きは絶え間なく続いていました。
これこそが、あなたが「見張り(祈りの務め)」を行なう理由です。

あなたが「わたしの意志」の中で動き、行ないをするのを目にするとき――ある時はわたしの傍らに身を置き、ある時はわたしの手の中や声、あるいはわたしの理性やみ心の中を流れるようにして――わたしはそれらを「すべてのものの動き」とし、「わたしの意志」においてそれぞれにいのちを与え、わたし自身の行ないの力を授けます。そして、それらをすべての人の救いと善のために走らせるのです。

 

 

 

§ § §

 

 

 

イエスとひとつに融合すること
償いのバランスを保つ
(第12巻:1919年9月3日)

 

「私は愛するイエスに、自分の惨みじな状態について、そしてなんの役にも立たない無用な存在のままであることについて嘆いていました。

「いったい、私の人生の目的はなんなのでしょうか?」と。

すると、愛すべきイエスは私にこう言われました。

「娘よ、あなたの人生の目的はわたしが知っており、あなたはそれを探るべきではありません。

しかし、知っておきなさい。

日々、そして一日に何度もわたしとひとつに融合することは、あらゆる償いのバランスを保つ役に立つのです。

なぜなら、わたしの中に入り、自分の行なうすべてのことの『源』をわたしから受け取る者だけが、すべての人とすべてのものの償いのバランスを取ることができるからです。
その人は、被造物による御父への栄光のバランスをも取ることができます。

なぜなら、永遠の『源』と永遠の『意志』がわたしの中にあり、それゆえにわたしはすべてにおいてバランスを――すなわち、すべての者による天の御父への満足、償い、そして完全な栄光のバランスを取ることができるからです。
ですから、あなたがわたしの中に入るとき、あなたはあらゆる償いと永遠の威光への栄光のバランスを新たにするのです。

これを些細なことだと思いますか? 

あなた自身、それなしではいられないと感じてはいないのですか? 

そして、全人類家族の名において身代わりとなり、あらゆる償いのバランスをあなたから受け取るために、わたしがあなたをわたしの各肢体とひとつに融合させるのを見届けるまでは、あなたをそのままにしておくことはありません。
できる限り、すべてのことにおいてわたしへの償いを捧げるように努めなさい。

もし、個人的な利益の影もなく、ただわたしへの愛ゆえに、ある魂が天と地の間に立ち、わたしと結ばれて、すべてのものの償いのバランスを取るとき、世界がどれほどの恵みを受けるかということを、あなたが知っていたなら!」

 

 

 

§ § §

 

 

 

「神のご意志」の中に自らを融合させることは、
最も偉大な行ないであり

私たちの創造主をなによりも崇める行為です。

(第 18巻:1925年11月9日)
 

 

「私はいつものように、十字架にかかられた「善である御方」を礼拝するために、聖なる「神のご意志」の中に自らを融合させていました。

しかし「至高のご意志」の中でこうした行ないをしている最中に、以前には決してなかったことですが、何度か眠りに落ちてしまい、最初の務めを終えることも、礼拝を捧げることもできずにいました。

そこで私は心の中でこう言いました。

「まず十字架を礼拝し、それから、もし眠気に襲われなければ、『神のご意志』の中に自分を融合させて、いつもの務めを行おう」と。
しかしそう考えていると、愛しいイエスが私の内から現われ、そのみ顔を私の顔に近づけて、こう仰いました。

 

「わたしの娘よ、まずわたしの意志の中に自分を融合させなさい。

そして至高の威光のみ前に進み出て、すべての人の意志を、その創造主のご意志において秩序づけ、わたしの意志に反する被造物の意志によるあらゆる行ないを、わたし自身の意志をもって償いなさい
わたしたちの意志は、被造物を神聖なものとするためにわたしたちから出たものであり、わたしたちはその意志が(被造物から)返されることを望んでいます。

それなのに、彼らが自分自身の意志を行なうためにこの意志を拒絶するとき、

それは創造主に対する最も直接的な侮辱となります。

つまり、創造のあらゆる善を否定し、神の似姿から遠ざかることになるのです。
そしてわたしの意志の中に自分を融合させ、わたしのこの意志のすべてを、あたかも自分の膝の上に置くようにすることを、些細なことだと思うのですか?

 この意志はひとつでありながらも、それぞれの被造物に神聖化の働きをもたらすものなのです。

あなたはわたしの意志のこれらのすべての働きをひとつにまとめ、至高の威光のみ前に運び、わたしの意志と共に自分の意志と、愛をもってそれらに報います。

被造物の行ないとは反対の行ないを新たに行ない、さらにわたしのこの意志を促して、より多くの働きをもって被造物を再び驚かせようとするのです。

彼らがそれを知り、第一の働きとして内に受け入れ、愛し、あらゆることにおいてこの聖なる意志を果たすことができるようにするためです。
わたしの傷を崇敬する(魂は)少なくありません。

しかし、わたしが人間に対して行なった『第一の働き』としてのわたしの意志の権利をわたしに返すこと――これを行なう人はだれもいません。

だからこそ、わたしの意志に関する特別な使命を帯びているあなたに、それを行なう義務があるのです。
もしそれを行なっている最中に眠気に襲われたとしても、わたしたちの天の御父は愛をもってあなたを見られるでしょう。

御父の腕の中で眠るあなたを――眠っている間もなお、ご意志のすべての行ないを小さな膝の上に抱きしめ、それらを償い、愛をもって報い、わたしたちの意志のそれぞれの行ないに、それにふさわしい栄光と主権、そして権利を与える、その小さな娘の姿を見ておられるでしょう
ですから、まずあなたの務めを果たしなさい。

そうすれば、わたしの御傷を崇敬することもできるでしょう。」
 

イエスに常に感謝が捧げられますように。

昨夜、主の恵みによって、私はその両方を行なうことができました。

 

 

 

 

§ § §

 

 

 

 

御父よ

私はあなたご自身の愛の御霊をもってあなたを愛し

イエスが私たちの愛する御母、父ヨセフ

そしてルイサに語られたすべてみ言葉に

私の「あなたを愛しています」という思いを込めます

そして、そのひとつひとつのみ言葉において

「天に行なわれるように、

地にもご意志が行われますように」

と祈ります。

 

 

 

 

§ § §

 

 

 

 

「わたしの娘よ、わたしの意志の中に自らを融合させることは、あなたの生涯において最も厳粛で、最も偉大で、最も重要な行ないです。

わたしの意志の中に融合するとは、永遠の領域に入り、それを抱きしめ、口づけし、永遠のご意志が含む諸々の善(恵み)の預かり物を受け取ることを意味します。

そればかりか、魂が至高のご意志の中に溶け込むとき、あらゆる存在が彼女を迎えに来て、自分たちが持つすべてのものを彼女の中に預けようとします。

天使も、聖人たちも、そして神性そのものも皆、すべてが安全に守られているそのおなじ意志の中に納められているのだと知って、預けるのです。

さらに、これらの善を受け取りながら、魂は神のご意志における自らの行ないによってそれらを増大させ、天上全体に倍の栄光と賛美を捧げ返します。

ですから、わたしの意志の中に溶け込む(融合する)ことによって、あなたは天と地を動かすのです。

それは天上の国全体にとっての新しい祝祭となります。

そして、わたしの意志の中に融合することは、だれひとり除外することなく、すべての人と一人ひとりのために愛し、与えることですから、わたしの善意において――被造物の愛に負けることのないよう――わたしは彼女の中に、すべての人々の善と、わたし自身が内に抱くあらゆる善を置くのです。

すべての善を置くための場所が不足することもありません。

なぜならわたしの意志は広大無辺であり、すべてを受け入れることができるからです。もしあなたが、わたしの意志の中に融合するときになにを行ない、なにが起こるかを知ったなら、絶えず融合したいという望みに燃え立つことでしょう。」

 

『天国の書』

(第17巻:1925年1月4日)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

《神のご意志の広大な海に落ちる一滴①》

 

 

Drop Book Series(一滴の雫の本・シリーズ)①

 


ルイサ・ピッカレッタの著作に基づく

 

 

 

 

 

 

 

 

 

§ § §

 

 

 

 

だれもがこの場面をよく知っています。

私たちの主イエス・キリストが十字架上で私たちのために亡くなられた場面です。

しかし、イエスはこの場面について、私たちがこれまで知らなかったことをイタリアの少女ルイサ・ピッカレータに明らかにされました。

この絵に描かれているふたりは、神のご意志に従って生きておられました。

それはイエスとマリアです。

当時、全世界で神のご意志に従って生きていたのは、イエスとマリアだけでした。

イエスは神であるがゆえに、神のご意志に従って生きておられました。

神のご意志は神の本質であり、イエスは神の本質そのものです。

マリアは恵みによって、つまり贈り物として、神のご意志に従って生きておられました。

なぜ他のだれも神のご意志に従って生きていなかったのでしょうか。

それはアダムとイブに遡って、アダムとイブが最初の罪を犯した大いなる堕落で何が起こったのかを見なければなりません。

 

 

エデンの園では、あらゆるものが「神のご意志」のうちに生きていました。

動物も植物も、そしてアダムとエバを含めたすべてのものが、そうでした。
アダムとエバが呼吸するたびに、歩み、微笑み、言葉を発するたびに、彼らは自分自身の人間的な意志ではなく、神のご意志を用いていたのです。

 

彼らには依然として人間としての意志がありましたが、それを神のご意志とひとつに結びついていました。
神のご意志のうちにあらゆることを行なっていたため、彼らの行動、言葉、思考のすべてが神聖なもの――神とおなじように、あらゆる点で完全であり、無限なもの――となっていました。

 

 

「神のご意志」のうちに生きることには、多くの恩恵が伴っていました。
アダムとエバは、「注入された知識」という賜物を受けていました。
例えば、彼らは馬を見ただけで、学校に通うことなく、その体の内部の仕組みを正確に理解することができました。
また、神がなぜそれらの被造物を創られたのか、それらがどのような性質を持っているのか、そしてそれらをどのように用いるべきかを、正確に知っていたのです。

 

アダムとエバには、あらゆる苦痛や不快なものから守られるという「免除」の恵みも与えられていました。
つまり、彼らは痛みや空腹、不幸といったものを一切経験することがなかったのです。
彼らが知っていたのは、完全な幸福だけでした。
アダムとエバは不滅の存在であり、歳をとることもありませんでした。
実際、彼らが行なうことはすべて神聖な行為であったため、それによって彼らのいのちはいっそう満たされていったのです。
アダムとエバは神聖な「完全性」を保っていました。
彼らの内面においては、すべてが完璧な秩序と調和の中にあったのです。

 

 

彼らは神から与えられた善きこと以外、なにも考えず、望まず、行ないませんでした。
アダムとイブは創造物を支配していました。

すべての動物、空気、植物、大地――すべてがアダムとイブに従っていました。


アダムとイブは、動物、植物、風、水、そして園のその他のすべてのものとは、重要な点で異なっていました。

植物、動物、その他のものには、自分の意志がありませんでした。
これらのものは、神のご意志に従ってのみ行動することができました。

彼らには選択の余地がなかったのです。

 

一方で、アダムとエバには、神のご意志を宿していることに加え、人間の意志をも神によって与えられていました。
この時点では、彼らは神のご意志のみを用いていました。
しかし、その状況はやがて変わることになります。

 

 

起こったことは、人類の堕落でした。

神はアダムとイブに、神のご意志に従って生きるという賜物を与えられました。
彼らはそれに値するようなことはなにもしていませんでした。
神は最初から、彼らを試すことを意図しておらました

―それは神のご意志に従って生きることに伴う賜物と、そこから生じるあらゆる結果を、彼らに託すことができるかどうかを確かめるためでした
 

アダムとエバは試験に失敗しました。

彼らは「善悪の知識の木」の実を食べることで、神に背いたのです。

それまで彼らは、歩くこと、話すこと、食べること、眠ることなど、あらゆる行ないにおいて神のご意志を用いていました。

しかしその時、彼らは初めて「神のご意志の国」の外で、自分たち自身の人間的な意志を用いたのです。

そこで神は、神のご意志のうちに生きるという賜物を、彼らと彼らの子孫である私たちから取り上げられました。

 

 

「神のご意志」は依然として彼らの内にありました。

なぜなら「神のご意志」は至る所に存在するからです。

しかし彼らの活動を促すものとして、アダムとエバの「人間の意志」だけが残されていました。

これは大きな損失でした。

なぜなら彼らの意志は、神のご意志から切り離されて働くようには造られていなかったからです。

「神のご意志」を欠いたアダムとエバの「人間の意志」は、弱く、移ろいやすく、無秩序なものとなっていました。

まさにその「人間の意志」が、天への道を閉ざしてしまったのです。

 

 

アダムとイブは、神から授かった賜物を失ったことで、その恩恵をも失いました。
彼らはもはや神から授かった知識を享受できなくなりました。
そして、苦しみや不幸を経験するようになりました。
彼らは老いて、やがて死を迎えるようになりました。
彼らは悪い考えを抱き、悪いものを欲し、悪い行ないをするようになりました。

 

アダムとエバから「神のご意志」の光が失われると、動物たちはもはや彼らの周りに集まらなくなりました。

多くの生き物が逃げ去り、植物も彼らに協力しなくなりました。
大地やあらゆる被造物は依然として「神のご意志」に従って動いていましたが、アダムとエバはもはやそうすることができなくなっていたのです。

彼らは被造物と対立する存在となってしまいました。


これは神にとっても辛いことでした。創造の目的そのものが、宙に浮いてしまったのです。
神はもはや、ご自身が創られたものや、アダムやエバと分かち合っていた無邪気な喜びを、楽しむことができなくなってしまったのです。

 

アダムとイブは依然としてとても長寿で、非常に高い知能を持っていました。

しかし、エデンの園で暮らしていた時代から年月が経つにつれ、神のご意志に従って生きていたときの恩恵は、彼ら自身、彼らの孫たち、そして子孫から、次第に薄れていきました
これが人間の堕落ーすなわち神のご意志に従って生きることから、人間の意志に従って生きるようになったということです

人間は人間の意志への混沌へと、ますます深く沈んでいきました。
神のご意志は依然として人間の呼吸、心臓の鼓動、そして身体の働きを支配していましたた。
しかし、人間の言葉、思考、行動に関しては、完全に人間の自分の意志に委ねられていました。

せいぜい、人間の意志によって神のご意志を行なうことしかできませんでした。

神のご意志に従って生きるという賜物は、人間から失われ、6000年間は取り戻されることはありませんでした。
しかし、創造における神の目的は必ず実現しなければなりません。

そうでなければ、神は神ではあり得ないからです。

ただ、神のご計画は数千年ほど一時的に遅れただけで、そのあいだ人類は神が私たちに歩ませようとされたた道から6000年くらい迂回してしまったのです。

 

この6,000年にわたる「回り道」を詳しく見てみると、神が人間を見捨ててはおられなかったということがわかります。

神には、私たちを本来の計画へと連れ戻すための「予備の計画」があったのです。

その計画にはあらゆる形の助けが含まれていましたが、それでもなお、道のりは長く困難なものでした。

なぜなら、私たちはもはや「神のご意志」を用いることができなくなっており、サタンが私たちを道から逸らそうと、あらゆる卑劣な手口を使ってきたからです。
 

神が私たちに与えてくださった最大の助けは、御ひとり子イエスを遣わされたことでした。

イエスは私たちの罪のために苦しみ、死ぬことによって、天の門を私たちに開いてくださいました。

イエスの死は「神のご意志」という賜物を直ちに取り戻すものではありませんでしたが、私たちがその方向に向かって歩みはじめるための「恵みの通り道」を開いてくれたのです。

 

悲しいことですが、本来神が計画されていたのは、人々が皆「神のご意志」の中で幸せに暮らしている世界にイエスが来られることでした。

イエスは、私たちの栄光ある王として来られるはずだったのです。

しかし実際には、私たちを救うために、恐ろしい死を遂げられなければなりませんでした。

イエスはいつか栄光の王としてこの世に来られますが、それは神が定められた時まで延期されています。

まず、その「賜物」が私たちに与え直される必要がありました。

そして今、私たちはそれを受け入れ、それに従って生きる必要があります。

そうすることで、天におけるように地上でも神のご意志が行われるようになるのです。

 

 

イエスはこの地上に来られ、私たちがこの「回り道」となった旅路を歩むために、助けとなるような多くの賜物を残してくださいましたが、それでも世界はますます暗闇に覆われていくように見えます。
聖霊の助けやご聖体の恵み、その他の秘跡を授かってから2000年が経ちましたが、私たちは依然として、人間の意志がもたらす混沌の深みへと沈み込んでいっているようです。

今日の世界で起きていること――中絶、クローン技術、高齢者や病人の殺害、戦争、同性愛、離婚、犯罪といった事柄に目を向けてみてください。

これ以上、事態が悪化し得るのだろうかと思わずにはいられません。
 

しかし、この2000年の間に、教会は神への理解を深めてきました。

多くの善良なキリスト教徒や聖人たちが、神から与えられた恵みを用いて、神のご意志を行おうと努めてきました。

それでもなお、彼らは「神のご意志のうちに生きる」という賜物を手にすることはなかったのです。
そして2000年にわたり、地上の教会である私たちは「主の祈り」を唱え続けてきました。

「神のご意志」という賜物の神秘と神のご計画は、この祈りの中にこそあるのです。

 

すべてのキリスト教徒が「主の祈り」を知っています。

これは、イエスが弟子たちに教えられた唯一の祈りです。

この事実だけでも、私たちはその言葉を注意深く見つめるべきでしょう。

 

天におられる私たちの父よ

御名が聖とされますように
み国が来ますように

み心が天に行われるとおり、地にも行われますように

 

天において、神のみ心はどのように行われているのでしょうか?
ー天にいるすべての者は、神のご意志の中に生きているのです
 

天において行われるように、地においても神のみ心は、どのようにして行われているのでしょうか?
ー私たちは知っています。

人間の意志で懸命に神のみ心を行おうとしても、それは成し遂げることはできないということを。
神のみ心を行なうことに近づけたのは、せいぜい少数の聖人たちだけでした。
しかし、そうした聖人たちの生涯を読んでみると、彼らの人生は自らの人間の意志との絶え間ない戦いであったことがわかります。
 

天国では、神のみ心を行なうことに苦労している人はだれもおらず、だれもが神のみ心のうちに生きています。
では、イエスはただ面白半分にその言葉を口にされたのでしょうか?
教会は2000年もの間、決して実現することのない事柄のために祈り続けてきたのでしょうか?
天におけるように地においても、神のみ心が行われることは、決してないのでしょうか?

 

「神のみ心(ご意志)のうちに生きる」という賜物は、まさに神の計画の中でこのような位置を占めています。

イエスが祈りを捧げれば、父なる神がそれに応えてくださることは明らかです。

そして2000年の時を経て、今や教会はこの賜物を受け入れる準備が整い、その祈りは聞き入れられようとしています。

実のところ、この賜物はすでに私たちに与えられているのです

神はルイサ・ピッカレータを用いて私たちにこの賜物を授けてくださいました

あとは私たちがそれを受け入れ、その通りに生きるだけなのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

《融合の喜び③》

 


神のはしためルイサ・ピッカレータに与えられた
イエスの「天の教え」
(『天国の書』より)

 

 

 

§ § §

 

 

 

「神のご意志」と自らをひとつに融合させることは

すべての者の名において

創造・贖い・聖化の御業に対する

愛と栄光の報いを神に捧げることとなります」

(V 17:1925年5月17日)

 

「5月10日付で記した上記の事柄を聴罪司祭に読んでいただきましたが、彼はそれだけでは満足せず、私が「聖なる神のご意志」の中に自分自身を融合させるあり方について、さらに書き続けるよう命じられました。

ですから、ただ従うため、そして私のイエスをほんの少しでもがっかりさせてしまうことのないよう、私は再び筆を取ることにしました

 

 

ルイサが創造のあらゆるみ業に添える

「愛しています」という言葉

そして

「私の創造主に栄光がありますように」

という言葉


「今、私が「至高のご意志」とひとつに融合するとき、その広大な虚空が心に浮かび上がります。

すると、あの小さな娘は「巡礼」を続け、高く昇りながら、神が創造においてすべての被造物に注がれた愛に報いようとします。

彼女は神を万物の創造主として崇めようとし、星々の間を巡りながら、その瞬く光ひとつひとつに「愛しています」「私の創造主に栄光がありますように」と刻み込みます。

地上に降り注ぐ太陽の光の原子ひとつつひとつに「愛しています」「栄光がありますように」と。

天空の広がり全体に、一歩から次の一歩へと進むその歩みの間に、「愛しています」「栄光がありますように」と。

鳥のさえずりや羽ばたきの中に「愛しています」「私の創造主に栄光がありますように」と。

大地から芽吹く草の葉に、咲き誇る花に、立ち上る香りに「愛しています」「栄光がありますように」と。

山の高みにも、谷の深みにも「愛しています」「栄光がっりますように」と。
私はあらゆる被造物の心の中を巡り、まるでその中に自分を閉じ込めるかのように、それぞれの心の中で「愛しています」「私の創造主に栄光がありますように」と叫びます。

すべてがただひとつの叫び、ひとつのご意志、ひとつの調和となることを願うのです。すなわち、「私の創造主に栄光と愛がありますように」と。
そして、すべてをひとつに集め、神が創造においてなされたすべてのことに対して、万物が愛への報いと栄光の証しを捧げるようにして、私は神のみ前へと進み出て、こう申し上げます。」

 

ルイサは被造物の中を巡った後にこう祈ります

 

「至高の威光を放つ万物の創造主よ、この小さな娘はあなたのみ腕に身を寄せ、こう申し上げるために参りました。

すべての被造物を代表して、あらゆる被造物があなたに報いをお捧げいたします、と。

それは単なる愛の報いにとどまらず、私たちのために愛をもって創造された数々のものに対する、正当な栄光の捧げ物でもあります。

あなたのご意志のうちに、すべてがあなたを礼拝し、愛し、祝福するようにと願って、この広大な虚空をあまねく巡り歩きました。

今や私は、人間の意志によって断ち切られていた創造主と被造物の間の愛の絆を、そして、だれもがあなたに捧げるべき栄光を、あなたのために整えました。

創造主と被造物のあらゆる関係を、そのご意志によって結び合わせ、強固なものとするために、どうかあなたのご意志を地上に降ろしてください。

そうすれば、万物はあなたが定められた本来の秩序へと立ち返るでしょう。

ですから、急いでください、もうこれ以上遅らせないでください――地上が悪に満ちているのがおわかりになりませんか? 

この流れを食い止め、安全な場所へと導くことができるのは、あなたのご意志だけです――ただし、あなたの御旨が人々に知られ、支配するならば。」

 

それから、私は自分の務めがまだ完全ではないと感じ、イエスの「贖いのみ業」に報いるために、あの「虚無」の深みへと降りていきます。

そして、イエスが実際に行われたすべてのみ業を目の当たりにするかのように、私は、すべての被造物が地上でイエスをお待ちし、お迎えするにあたって本来なすべきであったあらゆる行ないをもって、彼にお返しをしたいと願うのです。

そうして、自分自身のすべてをイエスへの愛へと変えたいと望むかのように、私はいつもの祈りの言葉をくり返して、こう唱えます。

 

「天から降りてこられるそのみ業において、私はあなたを愛します。

受肉されたそのみ業に、私の「愛しています」という言葉を刻み込みます。

あなたの人間性において形成された最初の血の一滴に、そして最初の心臓の鼓動に「愛しています」を捧げ、あなたのすべての鼓動に私の「愛しています」の印をつけたいのです。

最初の息吹に、最初の苦しみに、そして御母の胎内で流された最初の涙に、「愛しています」と申し上げます。

あなたの祈り、償い、捧げものに、私の「愛しています」でお応えしたいのです。

あなたの生涯のあらゆる瞬間に、私の「愛しています」を刻印したいのです。

お生まれになったことに、耐え忍ばれた寒さに、そして御母から吸われた乳の一滴一滴に、「愛しています」を捧げます。

御母があなたを包まれた産着に、私の「愛しています」で満たしたいのです。

愛する御母があなたを飼い葉桶に優しく寝かせたその場所に、私の「愛しています」を置きます。

そこでは、あなたの柔らかな手足が干し草の硬さを感じましたが、それ以上に、人々の心の硬さを感じられたことでしょう。

あなたの泣き声のひとつひとつに、そして幼いころのあらゆる涙と苦しみに、私の「愛しています」を込めます。

御母(そして愛する父ヨセフ)とのあらゆる関わり、語らい、そして愛の交わりの中に、私の「愛しています」を流し込みたいのです。

あなたが語られた言葉のひとつひとつに、あなたが口にされた食事に、あなたが歩まれた足あとに、あなたが飲まれた水に、「愛しています」と申し上げます。

あなたの手による働きに、そして隠れた生活の間のあらゆる行ないに、「愛しています」と申し上げます。

あなたの内面的な行ないのひとつひとつに、またあなたが耐え忍ばれた苦しみに、私の「愛しています」を刻み込みます。

あなたが通られた道、あなたが吸われた空気、そして公生活の間に説かれたすべての説教の上に、私の「愛しています」を捧げます。
私の「愛しています」は、あなたがなされた奇跡の力の中に、またあなたが制定された秘跡の中に流れています。

わたしのイエスよ、あらゆるものの中に、そしてあなたのみ心の奥深くにさえも、私自身のため、そしてすべての人のために、私の「愛しています」を刻み込みます。

あなたのご意志はすべてを私の目の前に現わしてくださいます。

ですから、私の「愛しています」が刻まれていないものを、なにひとつ残したくはありません。
あなたのご意志の小さな娘である私は、たとえ他になにもできなくとも、せめてあなたが私やすべての人のためになさったことのすべてに対して、ささやかな「愛しています」をお捧げする義務を感じています!

ですから、私の「愛しています」は、受難のあらゆる苦しみの中で、また人々があなたに浴びせた唾や侮辱、嘲りの中で、あなたに寄り添います。

私の「愛しています」は、あなたが流された血の一滴一滴、受けられた一撃一撃、御体に刻まれた御傷のひとつひとつ、頭を貫いた茨の一本一本、十字架刑の激しい苦しみ、そして十字架上で語られた言葉のひとつひとつに、その印を刻みます。

最後の息を引き取られるその時まで、私は「愛しています」を刻み続けたいと願います。

あなたの生涯のすべてを、あなたの行ないのすべてを、私の「愛しています」で包み込みたいのです。

どこにおいても、私の絶え間ない「愛しています」に触れ、それをごらんになり、感じていただきたいのです。

私の「愛しています」は決してあなたを離れません――あなたのご意志こそが、私の「愛しています」のいのちなのですから。

しかし、この小さな娘がなにを望んでいるか、あなたはご存じなのでしょうか?

それは、あなたがこよなく愛し、地上での生涯を通じて行われた「神聖なるご意志」が、すべての被造物に知られ、彼らがそれを愛し、天においてなされるように地上でもあなたのご意志を行なうようになることです。

この小さな娘は、あなたがすべての被造物にそのご意志をお与えくださるように、愛をもってあなたを勝ち取りたいと願っています。

ああ、どうかこのあわれで小さな者を幸せにしてください。

彼女が望んでいるのは、あなたがお望みになっていること、すなわち、あなたのご意志が知られ、地上でそれが統治すること、ただそれだけなのですから。」

 

今、私は「従順」というものがある意味で果たされているであろうと信じています。もっとも、多くの点において、私は(詳細を省いて)一気に飛び越えるようにして進まざるを得ませんでした。

そうでなければ、いつまで経っても終わらなかったでしょうから。

至高なるご意志と自分をひとつに融合させることは、私にとって湧き出る泉のようなものです。

耳にしたり目にしたりするあらゆる些細なこと、あるいは私のイエスが受けておられる侮辱のひとつひとつが、私にとっては、新たな方法で主の至聖なるご意志に融合するための機会となるのです。

さて、私の愛するイエスが私に語られたことを、続けてお話ししましょう。

 

「わたしの娘よ、あなたが『わたしの意志の中に自らを融合させる』ことについて語ったことに、もうひとつの勧告を付け加えなければなりません。

それは、『恵みの秩序』の中に、すなわち、聖化者である聖霊が、聖化されるべき人々のために行われたこと、そしてこれから行われることのすべての中に、自らを融合させるということです。
とりわけ、三位一体の神であるわたしたちは常に一致して働いていますが、創造が御父を指し示し、贖罪が子を指し示すのに対し、『Fiat Voluntas Tua(ご意志が行われますように)』は聖霊を指し示すからです。

そして、まさにこの『Fiat Voluntas Tua』においてこそ、神聖なる霊はそのみ業を顕示されるのです。

あなたが至高なる威光のみ前に進み出て、次のように言うとき、あなたはそれを行なうのです。」

 

 

§ § §

 

 

 

恵みの秩序に融合すること

 

「『聖化される御方(聖霊)が聖化されるべき人々のために行われるすべてのことに対し、愛をもってあなたにお返しをするために、私は参りました。

私は恵みの秩序に入り、あたかもすべての人が自らを聖人としたかのようにあなたに栄光と愛の報いを捧げ、また、恵みに対するあらゆる抵抗や応えの欠如を償うために、参りました。』

そして、あなたはできる限り、「聖化の霊」による恵みのみ業を、私たちの意志のうちに探し求めなさい。
そうして、ご自身が歓迎されていないのを見て、その御方が抱かれる悲しみや、密やかな嘆き、そして心の奥底からの苦悩に満ちた溜息を、あなた自身のものとしなさい。
その方が最初に行なうみ業とは、彼らの聖化を完成させるものとしてわたしたちの意志をもたらすことですが、ご自身が拒絶されるのを見て、その方は言葉に尽くせないほどの嘆きを漏らされるのです。
そこであなたは、幼子のような素直さをもって、その御方にこう言いなさい。

 

『聖化者である聖霊よ、急いでください。

どうか、切にお願いいたします。
再び、すべての人にご意志をお示しください。
人々がそれを知り、愛し、そして彼らの完全な聖化に向けた最初のみ業――すなわち、あなたの聖なるご意志――を喜んで受け入れますように。』


わたしの娘よ、3つの神の位格であるわたしたちは、分かちがたく結ばれつつも、それぞれが区別された存在です。

そしてわたしたちは人類の諸世代に対して、わたしたちのみ業をこのように示したいと望んでいるのです。

すなわち、わたしたち自身のはひとつに結ばれながらも、わたしたちそれぞれが、被造物に対する自らの愛とみ業を、個別に現わしたいと望んでいるということです。」
 

 

 

§ § §

 

 

 

すべてを愛のうちに
自らのいのちを完全に愛へと融合させる者は、
なんと少ないことでしょう

(第 12巻:1911年10月14日)

 

 

「いついかなる時でも愛すべきイエスが、私の内で眠りにつこうとしているお姿で現われられました。

私はそのお邪魔をして、こう申し上げました。

「イエス様、なにをしてらっしゃるのですか?

今は眠る時ではありません。

世は悲しみに満ちており、絶えず目をさましていることが必要なのです。

どうされたのですか?

今日は何か重大なことをされようとしておられるのですか?」
するとイエスはこう言われました。

 

「どうか眠らせてください。

わたしにはどうしても休息が必要なのだから。

あなたも私といっしょに休みなさい。」


私は答えました。

「いいえ、主よ。

あなたは大変な苦しみを負っておられますから休息が必要ですが、私には必要ありません。」
すると主は言われました。

 

「それならわたしが眠っているあいだ、あなたが世界の重荷を背負いなさい。

あなたにそれができるか、試してみなさい。」


私は言いました。

「私ひとりでは決してできませんが、あなたとごいっしょならできるでしょう。

それに、あなたにとって休息よりも『愛』の方が大切なのではありませんか?

私はあなたを心から愛したいのです。

それも、あなたご自身の愛をもって、すべての人々の愛をあなたに捧げられるように。

愛をもってあなたのあらゆる痛みを和らげ、あらゆる悲しみを忘れさせ、被造物がなすべきことをすべて私が代わりに果たしたいのです。

イエスよ、そうではありませんか?」
すると主は言われました。

 

「あなたの言うことは本当にその通りです。

けれども、愛はまた『正義』でもあるのです。

ああ、自らいのちを完全に愛の中に融合させる者は、どんなに少ないことでしょう!娘よ、あなたに頼みたいことがあります。

あらゆるものの中に愛があること、そして愛が必要であることを、できる限り多くの人々に知らせてほしいのです。

愛に基づかないものは、たとえ聖なる事柄であっても、人を前進させるどころか、かえって後退させてしまうからです。」

 

 

ルイサの使命は「愛に満ちた真の生き方」を教えること
 

「「愛に満ちた真の生き方」を教えることを、あなたの使命としなさい。

そこには、被造物の持つあらゆる美しさと、彼らがわたしに捧げうる最も美しいもののすべてが含まれているからです」


そこでわたしは言いました。

「彼らにこれを理解してもらうのは、どれほど大変なことでしょう。

すべては愛のうちにあり、愛することによって、愛そのものであるあなたに似た者へと変えられていくということを、奇妙に思う人たちもいますから。

それでも、わたしにできる限りのことはいたします。」
すると、イエスが立ち去ろうとされるように見えましたので、わたしは言いました。「行かないでください。

愛について語り合っている今、どうして立ち去ろうとなさるのですか?

あなたは愛をあんなにも愛されておられるのに……」

しかし、しばらくすると、イエスはお姿を消されました。
付け加えておきますと、11日にわたしはイエスにこう申し上げていました。

「あなたがわたしを十字架につけたままにされるか、さもなくば、わたしがあなたを十字架につけたままにいたします。」

するとイエスは真っ黒な棺を肩に担ぎ、その重みで身をかがめておられるお姿をわたしにお見せになり、こう言われました。

 

「この棺はイタリアです。

わたしにはもう、これを担ぎ続けることはできません。

その重みで押しつぶされそうです。」

 

そして、イエスが立ち上がろうなさると棺が揺れ動き、イタリアは激しく揺さぶられたように見えました。

 

 

 

§ § §

 

 

 

真の愛の殉教
 

愛は愛する者にいのちを与え

ひとつのいのちを形作るために、
絶えず死と生をくり返させるものです。
(第14巻:1922年2月21日)

 

 

いつもの状態の中にいた私のもとへ、常に愛すべきイエスが来られて、こう言われました。

 

「わが娘よ、被造物に対するわたしの愛は、わたしを絶えず死なせるものでした。

真の愛の本質とは、愛する者のために絶えず死に、かつ生きることにあるからです。
愛する者と共にありたいと願う愛は、死の苦しみを感じさせ、殉教をもたらします。それも、おそらく最も痛ましく、かつ長く続く殉教を。
しかし、死よりもなお強い愛そのものが、まさに死ぬその瞬間にいのちを与えるのです――では、それはなんのためにでしょうか?

 

愛する者に「いのち」を与え

彼女と共に「ひとつのいのち」を形作ること。

その炎には、ひとつの命を焼き尽くし

もうひとのいのちと融合させる力があります。
これこそが、まさにわたしの愛の力です

 

すなわち、自分の身を死に至らしめ、その「成就」から多くの種を生み出し、それらをすべての被造物の心に植え付けること。

そうして、自分の身を再び蘇らせ、彼らと共に、自分の身と「ひとつの命」を形作ることなのです

 

さあ、あなたもまた死ぬことができるのです

――私の愛のために、何度死ぬことになるのかは――

それも、もしかすると、

あらゆる瞬間になるかは、誰にもわかりませんが

 

あなたがわたしを求めながら、わたしの姿を見出せないとき、あなたの意志は「わたしが不在であること」による死を味わいます。

実際、わたしが見えないために、意志は自らが求める「いのち」を見出せず、死んでしまうのです。

しかし、その「行ない」の中で意志が自らを尽くし果てた後、わたしはあなたの中に、そしてあなたはわたしの中に再び生まれます。

こうしてあなたは求めていた「いのち」を見出しますが、それは、わたしの中で生きるために、再び死へと戻るためのものでもあるのです。
おなじように、あなたがわたしを望むとき、満たされないその望みは死を味わいますが、わたしが姿を現わすと、再び「いのち」を見出します。

こうしてあなたの愛も、知性も、心も、わたしのための「死と生」を絶えずくり返す「行ない」の中にあり続けることができるのです。

わたしがあなたのためにそうしたのですから、あなたもまた、わたしのためにそうするのは当然のことでしょう。」

 

 

 

§ § §

 

 

 

「神のご意志」に自らを注ぎ込み、
イエスとひとつに融合することで、「神の太陽」となり、
すべての被造物の上に恵みの「露」を注ぎます。

(第 12巻: 1917年4月18日)
 

私は、すべての被造物の中に自らを広げ、彼ら全員をイエスとひとつに融合させるために、愛するイエスとひとつに融合しようとしていました。
ですから、私は被造物とイエスの間に身を投じ続け、愛するイエスが傷つけられるのを防ぎ、また被造物がイエスを傷つけるのを防ごうとしていました。
すると、私がそうしている最中に、イエスは私にこう言われました。

 

「わが娘よ、あなたが自分をわたしの意志に注ぎ込み、わたしとひとつに融合するとき、あなたの内にひとつの太陽が形作られます。

あなたが思いを巡らせ、愛し、償いを行なうにつれて、その光線が形成されていきます。

そして背景にあるわたしの意志が、それらの光線の冠となるのです。

こうして太陽が形作られ、それは空へと昇り、すべての被造物の上に恵みの露となって降り注ぐのです。

ですから、わたしとひとつに融合すればするほど、あなたは次々と太陽を形作っていくことになるのです。
ああ、なんと美しいことでしょう。
昇りゆくそれらの太陽が、わたしの太陽の光に包まれながら、すべての上に恵みの露を降り注いでいるのを見るのは!
被造物はどれほど多くの恵みを受けることでしょう!

 わたしはその光景に深く心を動かされ、彼らがわたしと融合するとき、より大きな太陽を形作り、すべての上に恵みの露をいっそう豊かに注げるようにするために、あらゆる種類の恵みという豊かな露を彼らに注ぐのです。」

そして、わたしが(主と)ひとつに融合していると、光と愛と恵みが頭の上に注がれるのを感じました。」

 

 

 

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神のご意志を行なう者にとって
すべては「現在」にあります
(第12巻:1917年7月7日)

 

私は愛しいイエスとひとつに融合しようとしていましたが、自分があまりにもみじめな状態にあるのを見て、イエスになにを申し上げればよいのかわかりませんでした。すると、常に愛すべきイエスは、私を慰めるためにこう言われました。
 

「娘よ、わたしの意志を行なう者にとっては、過去も未来も存在しません。

すべては『現在の行ない』の中にあります。

「わたしが行ない、また苦しんだすべてのことは、今もなお『現在の行為』の状態にあります。

ですから、もしあなたが父なる神に償いを捧げたり、被造物に善を施したりしたいと望むなら、まるでわたしが今まさに苦しみ、行なっているその瞬間にいるかのように、それを行なうことができるのです。

おなじように、被造物がわたしの意志のうちで苦しみ、行なうすべてのことも、すでにわたしの苦しみや業とひとつに結び合わされています。

ですから、魂が自らの苦しみをもってわたしに愛の証しを捧げたいと望むとき、かつて味わった苦しみ――それらは今もなお『現在の行為』の状態にあります――を改めてわたしに捧げ、愛や償いを繰り返し表すことができるのです。

被造物が、愛と償いをわたしに捧げるために、まるで商売の台の上に品物を並べるかのように自らの行ないを差し出し、それを増やして利子を得ようと熱心に努める姿を見て、わたしもまた、増し加えられたわたしの苦しみと業を彼女に与えます。

それは彼女を豊かにするためであり、また愛において負けじと、彼女を愛し、かつ彼女に愛されるためなのです。」

 

 

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太陽は

「神のご意志」においてなされた行ないの

たとえです
(第12巻:1917年12月12日)

 

「いつものように、私は自分自身のすべてを愛しいイエスの「聖なるご意志」へと溶け込ませ、祈り、愛し、償いを行なっていました。

すると、イエスは私にこう言われました。

 

「わたしの娘よ、わが意志の中でなされる『行ない』について、ひとつの例えを聞きたいですか?

 上を見上げてごらんなさい。

そこには太陽が見えるでしょう。

それは光の円であり、一定の境界と形を持っています。

そして、その円の境界の内側から発せられる光は、大地を満たし、至る所へと広がっていきます。

その広がりは円形ではなく、光を当て、熱を注ぐべき大地や山々、海がある場所ならどこへでも及ぶのです。

その光の威厳と熱の恩恵によって、すべてを包み込みながら、太陽はあらゆる惑星の王となり、すべての被造物に対して至高の地位を占めるようになります。

 

さて、わたしの意志の中でなされる『行ない』もまた、そのようなもの、いいえ、それ以上のものなのです。

被造物が行なうその行為は、最初は小さく限られたものにすぎません。

しかしそれがわたしの意志の中に入ると、それは計り知れないほど広大なものになり、すべてを包み込み、すべてに光と熱を与え、すべてを支配し、他のあらゆる被造物の行為に対して優位に立つようになります。

つまり、それは万物に対して権利を持つようになるのです。
それゆえ、その行為は統治し、支配し、征服します。

もともとは小さな行為であっても、わたしの意志の中でなされることによって、それは信じがたいほどの変容を遂げるのです。

そしてその変容は、天使たちでさえ理解することを許されないほどのものなのです。

わたしの意志においてなされたこれらの行ないの真の価値を測りうることができるのは、わたしをおいて他にはありません。
それらはわたしの栄光の勝利であり、わが愛のほとばしりであり、贖いの成就です。そしてわたしは、天地創造そのものに対する報いを受けたかのように感じます
ですから、常にわたしの意志のうちにあって、前進しなさい」

 

 

 

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