《「天国の書」第11巻》

 

 

 

1915年7月28日
「神のご意志」を行なう者は、イエスと深くひとつに結ばれ、その心はイエスのみ心と一体となります。

それゆえ、魂を救う功徳を共にわかち合うのです。


私はイエスに嘆きの言葉をくり返していました。

 

「どうして私をお見捨てになったのですか?

 毎日少なくとも一度は来てくださると約束してくださったのに、今日はもう朝が過ぎ、夕方も終わろうとしているのに、まだいらっしゃらないのですか⁉

イエスよ、あなたがおられないことの苦しみはなんと激しいものでしょう――それは絶え間ない死のようなものです! 

それでも私は、あなたのご意志にすべてを委ねています。

それどころか、あなたがおられないこの苦しみを、あなたに捧げます――あなたが教えてくださった通りに――私があなたから引き離されているその一瞬一瞬の間に、多くの魂が救われるようにと。

あなたがおられない時に私が味わう苦しみを、あなたのみ心の周りに冠のように捧げます。

それは、被造物による侮辱があなたのみ心に入り込むのを防ぎ、あなたがどの魂をも地獄に断罪されることがないようにするためです。

しかし、そうは言っても、ああ私のイエスよ、私はやはり自分の本性が激しく揺さぶられるのを感じ、絶えずあなたを呼び、あなたを求め、あなたを慕い求めているのです。」

まさにその瞬間、愛すべきイエスは私の首に腕を回わされ、私を抱きしめながらこう言われました。

 

「娘よ、言ってみなさい。

あなたは何を望んでいるのですか?

 何をしたいのですか?

 何を愛しているのですか?」

 

 私は答えました。

 

「私はあなたを望んでいます。

そして、すべての魂が救われることを望んでいます。

あなたのご意志を行ないたいのです。

そうして、あなただけを愛しています。」 

 

すると主は言われました。

 

「つまり、あなたはわたしが望むものを望んでいるということです

それによって、あなたは本当にわたしを自分のものとし、わたしもあなたを自分のものとしているのです。

あなたはわたしから離れることはできませんし、わたしもあなたから離れることはできません。

それなのに、どうしてわたしがあなたを見捨てたなどと言えるのですか?」

そして主は優しい口調でこう付け加えられました。

 

「娘よ、わたしの意志を行なう者はわたしと深く結ばれているので、その人の心とわたしの心は、ひとつの心となっているのです。

救われるすべての魂はこの「心臓」を通して救われ、その鼓動によって形作られた彼らはこの「心臓」の口から救いへと向かっていくのですから――わたしはその魂に、これらの救われた魂たちの功徳を与えましょう。

なぜなら彼女はわたしと共に彼らの救いを望み、わたしが彼女をわたし自身の「心臓」のまさに「いのち」として用いたからです。」

 

 

1915年8月12日
意志、愛、そして魂の望みがイエスのそれらとつひとつになって流れるとき、それらは両者を守り、魂を救うための「網」を形成するでしょう。

 

いつものように過ごしていたとき、常に愛すべきイエスが少しのあいだ来られて、私にこう言われました。

 

「娘よ、人々はなんと頑ななことでしょう!

 戦争という災いも、悲惨な状況も、彼らを屈服させるには不十分なのです。
彼らは自らの肉体において痛みを味わわなければなりません。

そうでなければ、彼らに生き方を改めさせることはできないからです。
実際、戦場で何が起こっているかを見てみなさい。

戦場において、いかに聖なる宗教が彼らの心の中で力を増すことでしょう。

なぜなら、彼らは自らの肉体において痛みを味わっているからです。

だからこそ、何らかの形でその網にかからない国があってはならないのです。
すべての国が、自らの肉体において痛みを味わう事態に直面しなければなりません。わたしはこんなことをしたくはありませんが、彼らの頑なさが、わたしにそうさせるのです。」


そう言われながら、イエスは泣いておられました。

私も共に泣き、人々の命を奪うことも流血の惨事もなく彼らが屈服し、すべての人が救われるよう祈りました。

するとイエスは言われました。

 

「娘よ、すべてはわたしたちの意志の結合の中に包み込まれることになるでしょう。

あなたの意志はわたしの意志と共に流れ、魂の救いのために十分な恵みを願い求めます。
あなたの愛はわたしの愛へと流れ込み、あなたの望みと鼓動はわたしのそれらとひとつになって、永遠の鼓動をもって魂を求めるようになります。

これらすべてが、あなたとわたしの周囲に網を形成し、わたしたちはその中に織り込まれたかのように留まることになります。

それは防御の砦となり、その中で、あなたはわたしを守りながら、あらゆる危険から守られるだろう……。
『魂を、魂を!』と叫ぶ被造物の鼓動を、わたしの鼓動の中で聞くことは、なんと甘美なことでしょう。
わたしはまるで鎖につながれたかのように感じ、征服されて、降参してしまうのです。」

 

 

 

1915年8月14日
イエスの生涯と受難のすべては常にイエスを支え、魂に救いをもたらす働きをしています。
しかしそれらを用い、捧げる人々が必要なのです。



いつもの状態のまま過ごしていると、イエスがおいでになりました。

イエスはひどく疲れ果てておられ、ご自身の聖なる人性の至る所から流れる御血を拭い、御傷に口づけするようにと、私を招かれました。

そこで、私がイエスの御体のあらゆる部分を巡りながら、様々な崇敬と償いの祈りを捧げ終えると、愛するイエスは安らぎをおぼえられ、私に寄りかかりながらこう言われました。

 

「娘よ、わたしの受難、御傷、御血、そしてわたしが行ない、耐え忍んだことのすべて――それらすべては、あたかも今この瞬間にわたしが働き、苦しんでいるかのように、魂の間で絶えず働いているのです。

それらはわたしが寄りかかるための支えとなり、また魂が罪に陥らず、救われるために寄りかかるための支えともなるのです。

今、この懲罰の時代にあって、わたしはまるで空中に浮かび、足もとに何もない状態で、絶え間なく打撃を受けている者のようです。

天からはわたしの正義がわたしを打ち、地からは被造物がその罪をもってわたしを打つのです。

魂がわたしのそばに留まり、御傷に接吻し、償いを捧げ、わたしの御血を捧げること――一言で言えば、わたしの生涯と受難の間にわたしが行なったことをすべてくり返すこと――が増えれば増えるほど、わたしが寄りかかって倒れないための支えが築かれます。

そして、魂が罪に陥らずに救われるための支えとなるその輪も、より大きなものとなるのです。

娘よ、わたしのそばに留まり、何度も何度もわたしの御傷を巡ることを厭わないようにしさい。

あなたがわたしのそばに留まれるよう、わたし自身が思いや情愛、言葉を与えましょう。

わたしに忠実でありなさい。

時は迫っています。

正義はその怒りを現わそうとしており、被造物はそれを煽っています。

支えをさらに増やす必要があるのです。

ですから、この務めを怠らないようにしなさい。」

 

 

 

1915年8月24日
「神のご意志」の創造の力は、ひとつの行為をすべての者のために増幅させ、神に似たものをもたらします。

 

いつもの状態の中にいたとき、愛すべきイエスが来られるとすぐに私はイエスに口づけをし、こう申し上げました。


「私のイエスよ、もし可能なら、私はすべての被造物を代表してあなたに口づけを捧げたいのです。

そうして、彼ら全員をあなたのもとへ連れて行くことで、あなたの愛を満たしたいのです。」

するとイエスは言われました。

 

「娘よ、もしあなたがすべての者の口づけをわたしに捧げたいと望むなら、わたしの意志の中でわたしに口づけしなさい。

なぜなら、創造の力を宿すわたしの意志には、ひとつの行為を、あなたが望むだけの数多くの行為へと増幅させる力があるからです。

そうすれば、あたかもすべての者がわたしに口づけしたかのような喜びをわたしに与えることになり、また、あたかもあなたが皆に口づけさせたかのような功徳を得ることになるでしょう。

一方で、すべての被造物は、それぞれの心の備えに応じてその恵みの効果を受けるのです。

わたしの意志におけるひとつの行為には、想像しうるあらゆる善が含まれています。その姿は、太陽の光の中に見出すことができます。

光はひとつですが、その光は被造物のあらゆるまなざしの中で自らを増幅させます。光は常にひとつ、単一の行為のままですが、被造物のすべてのまばざしが、おなじようにその光を享受するわけではありません。

視力の弱い者は、光で目がくらまないようにと、目の前に手をかざす必要があります。

また、盲目の者はその光を全く享受できません。

しかし、それは光の欠陥によるものではなく、むしろ被造物の視力の欠陥によるものです。

ですから、娘よ、もしあなたがすべての者のためにわたしを愛したいと望むなら、わたしの意志の中でそうすることで、あなたの愛はわたしの意志の中を流れていくでしょう。

そして、わたしの意志は天と地を満たしているのですから、わたしは天において、わたしの周囲で、わたしの内で、そして地上で、あなたの『愛しています』という言葉がくり返されるのを聞くことになります。

それはあらゆる地点から、わたしの意志が可能とする数だけの行為として増幅していくのです。

こうして、それはすべての者の愛による満足をわたしに与えることができます。なぜなら、被造物は限られた有限な存在であるのに対し、わたしの意志は広大で無限なものだからです。

人間を創造する際にわたしが発した、『わたしたちはわたしたちの似姿として人を造ろう』という言葉は、どのように説明できるでしょうか?

これほど無力な被造物が、どうしてわたしに似て、わたしの似姿となることができるのでしょうか。

それはただ、わたしの「意志」においてのみ可能なことです。

なぜなら、被造物はわたしの意志を自らのものとすることで、神的なあり方で行動するようになり、そうした神的な行ないをくり返すことによってわたしに似ていき、わたしの完全な似姿となるからです。

それは、師の振る舞いをくり返し行うことで、その師に似ていく子どものようなものです。

ですから、被造物をわたしに似たものとする唯一のものは、わたしの意志なのです。それゆえにわたしは、被造物がわたしの意志を自らのものとし、自らが創造された目的を全うすることを、何よりも強く望んでいるのです。」

 

 

 

1915年8月27日
「神のご意志」に自分を融合させることは、イエスのあらゆる特質で自らを満たすことです。


私は、祝福されたイエスの至聖なるご意志に自分を融合させていました。

その最中、私はイエスの内にいる自分に気づきました。

イエスは私にこう言われました。

 

「わたしの娘よ、魂がわたしの意志に自らを融合させるとき、それは、それぞれ異なる液体で満たされたふたつの容器の中身を互いに注ぎ合うようなことが起こるのです。

つまり、それぞれの容器が、もう一方の容器に入っていたもので満たされるということです。

それとおなじように、被造物はわたしで満たされ、わたしもまた彼女で満たされることになります。

わたしの意志には聖性、美、力、愛などが含まれていますから、魂はわたしで満たされることによって――すなわち、わたしの意志に自らを融合させ、身を委ねることによって――被造物に許される限りの最も完全な形で、わたしの聖性、愛、美などで満たされるのです。

そしてわたしもまた、彼女で満たされるのを感じるでしょう。

彼女の内にわたしの聖性、美、愛などを見出し、それらをあたかも彼女自身のものとして眺めるのです。

わたしはそれを大いに喜び、彼女を愛するようになります。

そして、わたし自身の内にある親密な場所に彼女を大切に留め置き、絶えずわたしの神聖なる特質をもって彼女を豊かにし、美しく飾るのです。

それはわたしがますます喜び、彼女に魅了されるためなのです。」

 

 

 

1915年9月20日
新たな懲罰。

あらゆる行ないは、神のご意志と人の意志の間にある「フィアット(「然り、そう成りますように」の同意)」によって結び合わされなければならなりません。


いつもの状態にあった私のところに、愛すべきイエスが現われられました。

その御手には懲罰が握られており、それをもって被造物たちに触れ、打ち据えられておられました。

懲罰はさらに広がっていくかのようでした。

多くの事柄の中でも、聖なる教会に対して陰謀が企てられており、ローマの名が取り沙汰されている様子でした。

祝福されたイエスは苦悩しておられ、黒い外套に覆われておられるように見えました。

イエスは私にこう言われました。

 

「娘よ、懲罰は人々を立ち直らせるものですが、あまりに多くの懲罰が下るため、あらゆる人々が悲しみと喪に服すことになるでしょう。

そして、被造物はわたしの体の一部なのですから、彼らのゆえに、わたしは黒い外套に覆われているのです。」

私はすっかり動揺し、どうかお心を静めてくださるように懇願しました。

するとイエスは、私を安心させるためにこう言われました。

 

「娘よ、『フィアット』こそが、あなたのすべての行ないを結び合わせる甘美な絆でなければなりません。

わたしの意志とあなたの意志が、その結び目となるのです。

知っておきなさい。

わたしの意志と結び合って成されるあらゆる思考、言葉、行ないは、わたしと被造物との間に開かれた数多くの交わりの通路のようになるでしょう。

もしあなたのすべての行ないがわたしの意志と結び合わされているなら、あなたと私との間の神的な交わりの通路は、ひとつとして閉ざされることはないでしょう。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

《「天国の書」第11巻》

 

 

 

1915年5月25日
戦争という懲罰の只中にあっても、回心して神に立ち返ろうとする者は誰もいません。


いつものように過ごしていたとき、常に愛すべきイエスがほんの少しの間、そのお姿を現わされ、私にこう言われました。

 

「わたしの娘よ、その懲罰は甚大なものです。

それなのに、人々は心を動かそうとしません。

まるで現実の出来事ではなく、悲劇的な光景をただ見物しているかのように、無関心なままでいます。

皆が心をひとつにしてわたしの足もとにひれ伏し、憐れみと赦しを請い求めるどころか、ただ何が起きているのかを知ろうとすることに気を取られているのです。

ああ、わたし娘よ、人間の不誠実さは何と大きなものでしょう!

見てみなさい、彼らが政府に対してどれほど従順であるかを。

司祭も信徒も、何ひとつ要求せず、犠牲を拒むこともなく、自らのいのちを捧げる覚悟さえしています……。

ああ、わたしに対してだけは、従順も犠牲もないのです。

たとえ何かをするにしても、それは身勝手な要求や利害関係によるものにすぎません。

政府は力を行使するからこそ、そうするのだ。

しかし、わたしが用いるのは『愛』です。

それゆえ、被造物たちはこの愛を軽んじ、まるでわたしが彼らから何を受ける資格もないかのように無関心でいるのです!」

そう言われると、イエスは激しく涙を流されました。

イエスが泣いておられるのを見るのは、何という残酷な苦しみでしょう!

そして、イエスは続けられました。

 

「血と火がすべてを浄化し、悔い改める人間を立ち直らせるでしょう。

しかし、悔い改めが遅れれば遅れるほど、より多くの血が流され、人間が想像もしなかったような大殺戮が繰り広げられることになるでしょう」。

 

そう言いながら、イエスは人間による大殺戮の光景をお見せになりました……。

このような時代に生きるというのは、何という苦しみでしょう!

しかし、神のご意志が常に成し遂げられますように。

 

 

 

1915年6月6日
「神のご意志」において、魂は自分自身のことを考えてはならず、ただ神と隣人のことだけを考えなければなりません。

 

いつものように過ごしていた時のこと、常に愛すべきイエスは、お姿を隠されながらも、私がひたすらご自身に心を向け、兄弟たちのために絶えず願い求めることを望んでおられました。

そこで、戦火にあるあわれな人々の救いを求めて祈り、泣きながら、彼らがひとりも滅びることがないようイエスにすがりつこうとしていた私は、ついには支離滅裂なことを口走るほどになっていました。

イエスは言葉を発せられませんでしたが、私の願いを喜ばれ、私が望むことを快く聞き入れてくださるようにお見受けしました。

しかし、ふとある考えが私の心に浮かびました。

それは、自分自身の救いについても考えるべきではないか、という思いでした。
するとイエスは私にこう言われました。

 

「娘よ、あなたが自分自身のことを考えたとき、あなたは人間的な思いを抱きました。

そして、完全に神聖なるわたしの意志は、それに気づいたのです。

わたしの意志においては、あらゆる人間的な行ないが、わたしと他者への愛へと変えられます。

このように生きる魂には、自分自身のものは何もありません。

なぜなら、その魂はわたしの意志だけを宿しており、その意志こそがあらゆる善を内に含んでいるからです。

それゆえ、もしその魂がそれらの善をすでに宿しているのなら、なぜわたしにそれを求める必要があるでしょうか?

むしろ、それらの善を持っていない人々のために祈ることに心を砕くほうが、道理にかなっているのではないでしょうか。

ああ、もしあなたが、あわれな人類がどのような災難に見舞われることになるかを知っていたなら、彼らのために、わたしの意志の中でいっそう熱心に働いたでしょうに!」

 

そう言われながら、イエスはフリーメイソンが画策しているあらゆる悪事を私にお見せになりました。

 

 

 

1915年6月17日
すべては「神のご意志」において完結し、その中に包み込まれなければなりません。イエスはルイサに、木製の十字架の代わりに、ご自身の「神のご意志」の光の十字架をお与えになります

 

​​いつもの状態にあった私は、イエスにこう言って嘆いていました。

 

「私の命であるイエスよ、すべては終わってしまいました。

せいぜい私に残されているのは、あなたの閃きや影のようなものだけです……」。

 

するとイエスは私の言葉を遮り、こう言われました。

 

「娘よ、すべてはわたしの意志において完結しなければなりません。

魂がそうするなら、その魂はすべてを成し遂げたことになります。

もしわたしの意志に包み込むことなく多くのことを行なったとしても、それは何も行わなかったに等しいと言えるでしょう。

わたしは、わたしの意志において完結するすべてのことを重んじます。

なぜなら、わたしのいのちそのものが、まるで結び付けられているかのようにそこにあるからです。

だからこそ、ごく些細なことや取るに足らないことであっても、それらをわたし自身のものとして重んじるのは当然のことなのです。

なぜなら、被造物がわたしの意志と結びついて行なうあらゆる小さな行ないは、まずわたしから受け取り、それから実行されるのだとわたしは感じているからです。

それゆえ、わたしの聖性、力、知恵、愛、そしてわたしという存在のすべてが、その魂の最も小さな行ないの中に含まれていることになります。

わたしの意志と共に行われたその行ないの中に、わたしは自分のいのち、業(わざ)、言葉、思考などがくり返されるのを感じるのです。

ですから、もしあなたの行ないがわたしの意志において完結するなら、他に何を望むというのでしょうか?

すべての物事には、ただひとつの終着点があります。

太陽にとってのそれは、その光で全地を満たすことです。

農夫は種をまき、鍬(くわ)を使い、土を耕し、寒さや暑さに耐えます。

しかし、それらは彼の最終的な目的ではありません。

彼の目的は、実りを収穫し、それを自らの糧とすることにあります。

他の多くの事柄についてもおなじことが言えるでしょう。

それらは数多くあるように見えても、結局はひとつの点に集約されます。

そして、その点こそが人間のいのちを形作っているのです。

魂は、すべてをわたしの意志というひとつの点において完結させなければなりません。それは魂のいのちとなり、わたしはそれを自らの糧とするでしょう。」

 

そして、主はこう付け加えられました。

 

「このような悲しみの時代にあって、あなたとわたしは極めて苦しい時期を過ごすことになるでしょう。

事態はさらに激しさを増すでしょう。

しかし、知っておきなさい。

もしわたしがあなたから木製の十字架を取り去ったとしても、その代わりにわたしはあなたに『わたしの意志の十字架』を授けます。

それには長さも幅もなく、果てしなく続くものです。

これほど気高い十字架を、他に授けることはできません。

それは木でできているのではなく、光でできているのです。

そして、どんな火よりも激しく燃えるこの光の中で、わたしたちはあらゆる被造物と共に、彼らの苦悶や責め苦をわかち合い、苦しむことになるでしょう。

わたしたちは、すべてのものの『いのち』となろうと努めるのです。」

 

 


1915年7月9日
神のご意志を真に行なう者は、神と被造物の前において、イエスの人間性とおなじ状態にあります。


いつもの状態にあった私は、ひどく苦しんでいました。

すると、私の愛すべきイエスが、そのみじめな私の姿を憐れんで、しばらくのあいだ来てくださいました

イエスは私に口づけをしながら、こう言われました。

 

「あわれな娘よ、恐れてはなりません。

わたしはあなたを見捨てませんし、見捨てることなどできはしないのです。

わたしの意志を行なう者は、わたしに対して強力に働く『磁石』のようなものです。その磁石は、わたしをあなたの方へと強烈に引き寄せるため、わたしには抗うことができないのです。

意志を行なう者から離れるというのは、あまりにも大変なことです。

そうするには、わたし自身を捨て去らねばなりませんが、それは不可能なことだからです。」

 

そして、主はこう付け加えられました。

 

「娘よ、本当にわたしの意志を行なう者は、わたしの人間性とおなじ状態に置かれるのです。

わたしは神であり、かつ人でした。

神として、わたしは自らの内に、わたしが所有するあらゆる幸福、喜び、美、そしてすべての善を宿していました。

その一方で、わたしの人間性は神性の喜びにあずかっていました。

それゆえ、わたしの魂は至福と喜びに満ち、神を直観する至福の状態から決して離れることはありませんでした。

他方では、わたしの人間性は、神の正義に対して被造物がなすべき償いを自らに負っていました。

わたしはすべての罪をはっきりと見ることによって苦しめられました。

それらの罪を償うために、それらを自ら引き受けねばならなかったので、それぞれの罪がもたらす恐ろしさを、特有の苦痛として感じていたのです。

ですから、わたしは喜びと苦しみを同時に感じていました。

神性による愛と、被造物による冷たさ。

一方には聖性があり、他方には罪がある、というようにです。

被造物の行ないは、どんなに些細なことであっても、何ひとつわたしの目から逃れることはありませんでした。

今は、わたしの人間性はもはや苦しみを受けることはありません。

しかし、わたしはわたしの意志を行なう者の内に生きています。

その人が、わたしの人間性の役割を果たすのです。

そのため、その魂は一方では愛、平和、善における堅固さ、不屈の精神などを感じ、他方では冷たさ、煩わしさ、疲れなどを感じることになります。

もしその魂が完全にわたしの意志にとどまり、それらの事柄を自分自身のものではなく、わたしが受ける苦し​​みとして受け止めるならば、決して気落ちすることはないでしょう。

彼女はわたしに寄り添い、わたしの苦しみにあずかるという名誉を受けるでしょう。

なぜなら、彼女はわたしを覆う「ヴェール」にほかならないからです。

彼女が感じるのは、刺すような痛みや冷たさによる不快感だけでしょうが、それらはわたしの内に――わたしの心の中に――激しく押し寄せてくるのです。」

 

 

 

1915年7月25日
イエスは被造物の不幸を自らの不幸として感じておられ、愛の面ではなおさらそのように感じておられます。

イエスはご自分をなぐさめてくれる魂をそばに置きたいと望んでおられます。


いつもの状態のまま、私はイエスのみ姿が見えないこと(不在)を嘆いていました。すると、いつも慈悲深いイエスは私に同情してくださり、こう言われました。

 

「娘よ、勇気を持ちなさい。

悲劇や恐ろしい殺戮、そしてわたしのみ心にとって耐え難い苦しみに満ちたこの時代にあって、わたしに対して忠実でありなさい。」

イエスは、今にも泣き出しそうな声でこう続けられました。

 

「娘よ、この時代、わたしはあわれで不幸な者のように感じています。

戦場で傷ついた者と共に不幸を感じ、誰からも見捨てられ、自らの血の中で死んでいく者のために不幸を感じ、飢えの重みを感じている貧しい人々と共に不幸を感じています。

戦地にいる息子たちのことを思い、心から血を流す多くの母親たちの不幸も感じています……ああ、あらゆる不幸がわたしのみ心に重くのしかかり、わたしは釘付けにされたような苦しみにあります!

そして、これらすべての惨状を前にして、わたしは神の正義を目にします。

神の正義は不幸にも、反抗的で恩知らずな被造物に対し、さらなる神の怒りを下そうとしているのです。

さらに、愛においてわたしがどれほど不幸であるか、誰があなたに語ることができるでしょうか?

ああ、被造物は私を愛さず、わたしの偉大な愛は、くり返される侮辱をもって報いられているのです。

娘よ、これほど多くの不幸のただ中で、わたしは他人をなぐさめる代わりになぐさめられたいと願っています。

わたしを愛し、忠実に寄り添い、自らのあらゆる苦しみを、わたしの不幸を和らげるため、そしてあわれで不幸な人々のために恵みを願うものとして捧げてくれる魂を、わたしのそばに置きたいのです。

この災いと不幸の時代に、魂がわたしに忠実であったかどうかに応じて、神の正義がなだめられる時、わたしに忠実であり続け、わたしの不幸をわかち合った魂は報いを受けることになるでしょう。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

《「天国の書」第11巻》

 

 

 

1915年3月7日
世の甚大なる罪、そしてそれ以上に教会内部にある罪が、浄化の手段としての懲罰を招いています。


懲罰のこと、そしてもし私がその状態から独力で抜け出そうとすれば、かえってその懲罰を助長してしまうかもしれないという思いが、私の心を打ちのめしていました。聴罪司祭はまだ体調がすぐれませんでした。

私は祈り、泣き、決心がつかずにいました。

そこへ祝福されたイエスが稲妻のように現われられ、私を自由な状態にしてくださいました。

やがて、憐れみに動かされた主が近づいてこられ、私に同情し、優しくいたわりながらこう言われました。

 

「わたしの娘よ、あなたのその忍耐強さが、わたしの心を動かすのです。

愛と祈りはわたしを縛り付け、いわばわたしに対して戦いを挑むようなものです。

だからこそ、わたしは少しの間あなたのそばに来たのです――もう我慢ができなかったからです

……あわれな娘よ、泣いてはなりません。

わたしはここにいます

すべてはあなたのためにあるのでし!

忍耐と勇気を持ちなさい。

気落ちしてはなりません!

 人々を罰することが、わたしにとってどれほど苦しいことか、あなたは知っているでしょうか!

しかし、被造物の忘恩がわたしにそうさせるのです――彼らの甚大な罪、不信仰、そしてわたしに挑みかかろうとする意志が……

しかも、これはほんの一部に過ぎません……もし宗教的な側面について話すとしたら……どれほどの冒涜があることでしょうか!

 どれほどの反逆があることでしょうか! 

どれほど多くの者が、わたしの子どものふりをしながら、実はわたしの最も激しい敵となっていることでしょうか!

 偽りの息子たちの多くは、権利を奪い取る者、利己的な者、そして不信仰な者たちです。

彼らの心は悪徳の汚水溜めとなっています。

こうした子どもたちこそ、真っ先に教会に対して戦いを挑む者となるでしょう。

彼らは自分たちの母を殺そうとするのです……ああ、すでにどれほど多くの者が、戦いの場に乗り出そうとしていることでしょうか!

 今は政府同士の戦争が行われていますが、やがて彼らは教会に対して戦争を仕掛けるでしょう。

そしてその最大の敵は、教会自身の子どもたちなのです……わたしの心は苦しみで切り裂かれるようです。

それでもなお、わたしはこの嵐を通り過ぎさせましょう。

そして教会を汚し、汚した者たち自身の血によって、地上の面と教会が洗い清められるようにするつもりです。

あなたもまた、わたしの苦しみに心を合わせなさい。

祈り、忍耐をもって、この嵐が過ぎ去るのを見守るのです。」

私の苦しみを誰が語ることができるでしょうか。

私は生きているというより、死んでいるような心地でした。

イエスが常に祝福され、その聖なるご意志が常に成し遂げられますように。

 

 

 

1915年4月3日
人が生きられるように天がその光を伴って地の上に存在しているのとおなじように、魂にも「神のご意志」という天が必要なのです。


私の愛すべきイエスは、時折おいでになりますが、そのお顔には依然として威嚇や懲罰の気配が漂っています。

時にはおいでになるのが遅れられることもありますが、そのお姿は見る者の憐れみを誘うほど、疲れ果て、衰弱しきっておられます……。

主は私をご自身のもとへと引き寄せられ、私をご自身へと変容させてくださいます。

そして私の内に入り、ご自身を私へと変容されるのです。

主は、私がその御傷のひとつひとつに口づけし、それを崇め、償いを捧げることを望んでおられます。

そうして私の手で主の至聖なる人間性(ご受難の御体)をなぐさめさせた後、主はこう仰るのです。

 

「わたしの娘よ、わたしの娘よ。時折あなたのところへ来て、あなたの内で休息し、なぐさめられ、わたしの心を注ぎ出すことが必要なのです。

さもなければ、わたしは世界を火で焼き尽くしていたでしょう」。

 

そして私が何か申し上げる暇も与えず、主は立ち去ってしまわれます。

さて、今朝のことです。

いつものように過ごしていた私は、主のおいでが遅れているのを感じながら、心の中でこう思いました。

 

「愛しいイエスがおいでにならないこの期間、もし『聖なる神のご意志』がなかったら、私はどうなっていたことでだろう。

誰が私にいのちと力と助けを与えてくれただろうか。

ああ、聖なる神のご意志よ、私はあなたの中に身を潜め、あなたに身を委ね、あなたの中で憩います!

ああ、誰もが私から去っていきます――苦しみも、かつては私なしではいられないかように見えられたあのイエスでさえも!

おお、神の聖なるご意志よ、ただあなただけは、私から逃げ去ることはなさいません!

どうか、お願いします。

私の弱い力がもう耐えられなくなるのをごらんにるた時、あなたが隠し持っておられ、私から見えなくしている愛しいイエスを、私に現わしてください。

おお、聖なるご意志よ、私はあなたを崇め、接吻し、感謝を捧げます――ですが、私に対して残酷にならないでください!」

このように思い、祈っていると、私は至純な光に包まれるのを感じました。

そして「聖なるご意志」はイエスを私に示されながら、こう語りかけられました。

 

「わたしの娘よ、わたしの意志を欠いた魂は、天も星も太陽も月もない大地のようなものとなるでしょう。

大地そのものは、断崖や険しい高み、水、そして闇にすぎません。

もし大地の上に天がなければ――大地に潜む様々な危険を人が見わけるための道を示す天がなければ――人は転落したり、溺れたりといったことをくり返すことになるでしょう。

しかし上には天があり、とりわけ太陽が、言葉なき言葉で人にこう語りかけています。

『見なさい、わたしには目も手も足もありませんが、それでもわたしは、あなたの目の光であり、手の働きであり、足の歩みそのものです。

そして、わたしが他の地域を照らさねばならないときには、わたしの務めを続けるために、星の輝きや月の光をあなたに残していくのです』と。

さて、わたしが人の本性の益のために天を与えたように、それ以上に気高い魂にも、わたしは『わたしの意志』という天を与えました。

なぜなら魂もまた、情念や徳、傾向といった断崖や険しい高みをその内に抱えているからです。

もし魂が『わたしの意志』という天の下から離れてしまえば、罪から罪へと転落するしかありません。

情念に溺れ、徳の高みは深淵へと変わってしまうでしょう。

ですから、天がなければ地上のすべてが無秩序で不毛なものとなってしまうのとおなじように、『わたしの意志』がなければ魂においてもおなじことが起こるのです。」

 

 

 

1915年4月24日
イエスの茨の冠ー被造物のあらゆる思考は、「神のご意志」によってイエスのみ心と結びついています


いつもの状態にあった私は、祝福されたイエスが茨の冠を被せられた際にどれほどの苦しみを受けられたかについて思いを巡らせていました。

イエスはご自身を現わされ、私にこう言われました。

 

「わたしの娘よ、わたしが受けた苦しみは、被造物の知性には到底理解し得ないものでした。

茨そのものによる痛み以上に、わたしのみ心は被造物のあらゆる邪悪な思考によって突き刺されました。

それらの思考はひとつとしてわたしから逃れることはできず、わたしはそのすべてを自分自身の内に感じたのです。

わたしはただ単に茨の刺さる痛みを感じただけでなく、それらの茨が象徴する罪への嫌悪感をも感じたのです。」

そこで私は、愛すべきイエスを見つめました。

すると、イエスの至聖なる御頭が、背後から突き出た茨の棘に囲まれているのが見えました。

被造物のあらゆる思考がイエスの内にありました。

それらはイエスから彼らへ、そして彼らからイエスへと行き来し、互いに結びついたままとなっていました――被造物の邪悪な思考と、イエスの至聖なる思考とが……ああ、イエスはどれほど苦しまれたことでしょう!
そしてイエスはこう付け加えられました。

 

「わたしの娘よ、わたしの意志の中に生きる魂だけが、わたしに真の償いを捧げ、あの鋭い茨の苦しみを和らげることができるのです。

実際、彼らはわたしの意志の中に生きており、わたしの意志は至る所に存在しているので、彼らはわたしの中にも、そしてすべての人の中にも存在していることになります。

彼らは被造物の中へと降り、わたしのもとへと昇ります。

そしてあらゆる償いをわたしにもたらし、わたしを慰めるのです。

また、病める心においては、闇を光へと変えるのです。」

 

 

 

1915年5月2日
「神のご意志」のうちに生きる者は、イエスの至聖なる人間性を自らのものとします。

そして、あたかも「もうひとりのイエス」であるかのように、神性のみ前に進み出て、兄弟姉妹のために執り成しをすることができるのです。


私の日々は、ますます苦しみに満ちたものとなっています。

今朝、私の愛するイエスは、言葉では言い表わせないほどの苦しみの状態でおいでになりました

その苦しむあまりのお姿を前に、私は何としてもイエスをなぐさめたいと願いました。

どうすればよいかわからず、私はイエスを胸に強く抱き寄せ、その御口に近づいて、イエスの内にある苦しみのいくらかでも吸い取ろうと試みました……。

しかし、何も……! 

いくら吸い取ろうとしても、何も出てきませんでした。

私は何度も試みましたが、すべては徒労に終わりました。

イエスは泣いておられました。

私もまた、イエスの苦しみを少しも和らげることができないのを悟り、涙を流しました。

なんという残酷な苦しみでしょう!

 イエスは(愛を)注ぎ出したいと望まれながらも、ご自身の「正義」がそれを妨げるために泣いておられました。

私はイエスが泣いておられるのを見て、また、イエスを助けることができない自分を嘆いて泣いていました……。

この苦しみを言い表わす言葉などありません。
イエスはすすり泣きながら、私にこう言われました。

 

「わたしの娘よ、罪はわたしの手から懲罰や戦争を引き出してしまいます。

わたしはそれを許さざるを得ません。

けれども同時に、わたしは被造物と共に泣き、苦しんでいるのです。」

 

苦しみに死ぬほどの思いをしていた私に、イエスは気を紛らわさせようとされたのか、こう付け加えられました。

 

「娘よ、気落ちしてはいけません。

これもまた、わたしの『意志』のうちにあることなのです。

なぜなら、わたしの『意志』に生きる魂だけが、わたしの『正義』に向き合うことができるからです。

わたしの『意志』に生きる者だけが、神の定めをわかち合い、兄弟たちのために執り成しを求めることができるのです。

わたしの『意志』に留まる者は、わたしの『人間性』がもたらすあらゆる実りを所有します。

わたしの『人間性』には限界がありましたが、わたしの『意志』には限界がないからです。

わたしの『人間性』は、わたしの『意志』の中に生きていました――内も外も、その中に完全に浸されていたのです。

さて、わたしの『意志』に生きる魂は、わたしの『人間性』に最も近い存在です。

彼らはわたしの『人間性』を自らのものとし――わたしがそれを彼らに与えたのです――その『人間性』を身にまとって、まるで『もうひとりのわたし』であるかのように、神性のみ前に進み出ることができます。

そうして神の『正義』を和らげ、道を踏み外した被造物たちのために赦しを請うのです。

彼らはわたしの『意志』に生きるがゆえに、わたしの中に生きています。

そして、わたしはすべての人の中に生きているのですから、彼らもまたすべての人の中に、そしてすべての人のために生きていることになるのです。

彼らは太陽のように空に浮かんで生きていますが、彼らの祈りや行ない、償い、そして成すことすべては、すべての人の益のために彼らから降り注ぐ光線のようなものなのです。」

 

 

 

1915年5月18日
神の正義は懲罰を下しますが、「神のご意志」の中に生きる魂には、それらの懲罰も敵も近づくことはありません。


私は相変わらずみじめな状態にあり、自分の弱い本性が力尽きそうになるのを感じていました。

私は絶えず「強いる」ような激しい状態に置かれています。

愛すべきイエスに(愛の力で)強いるように迫りたいと願うのですが、主はそれ以上迫られないようにと身を隠されるのです。

そして、主が隠れておられるために私が迫るのをやめていると、不意に主は姿を現わされ、みじめな人類が今こうむっている苦しみ、そしてこれからこうむるであろう苦しみのすべてを思って泣きはじめられるのです。

またある時には、心を打つような、ほとんど懇願するような口調で、主は私にこう言われます。

 

「娘よ、わたしに無理強いをしないでください

被造物が今こうむり、またこれからこうむるであろう甚大な災いのゆえに、わたしの状態はそれ自体、すでに激しい苦痛に満ちているからです。

しかし、わたしは正義にその権利を与えなければならないのです。」


そう言いながら主は泣かれ、私も主と共に泣きます。

主が完全に私と一体化し、私の目を通して泣いておられるように思えることもしばしばあります。

イエスが何年も前に私に見せてくださったあらゆる悲劇――損壊した人の体、血の奔流、破壊された町々、冒涜された教会――が、私の心に去来します。

私のあわれな心は苦痛に引き裂かれそうになり、ある時には激しい痙攣にのたうち回り、またある時は凍りつくように感じられます。

そのように苦しんでいると、イエスの声が聞こえてくるのです

 

「なんという悲しみ!

 なんという悲しみ!」

 

そして主は激しくむせび泣かれるのです。

しかし、そのすべてを誰が語り尽くすことができるでしょうか。

 

私がそのような状態にあったとき、愛するイエスは、私の恐れや不安を和らげようとして、次のように言われました。


「娘よ、勇気を持ちなさい。

確かに大惨事が起きるでしょう。

しかし、わたしの『意志』に生きている魂や、そうした魂がいる場所については、わたしが特別に目をかけて守ることを知っておきなさい。

それは地上の王たちが、危険や恐ろしい敵に囲まれても安全でいられるための宮廷や居所を持っているのとおなじことです。

王たちの力は強大であり、敵は他の場所を破壊することはあっても、王の居所に対しては、敗北を恐れてあえて目を向けることさえできないのです。

それとおなじように、天の王であるわたしもまた、地上に自分の居所と宮廷を持っています。

それは、わたしの『意志』に生き、わたしがその内に住まう魂たちのことです。

そして、天の宮廷が彼らの周りに集っています。

わつぃの『意志』の力が彼らを守り、飛んでくる弾丸の威力を無力化し、恐ろしい敵を退けるのです。

娘よ、なぜ天の聖人たちは、被造物が苦しみ、地上で炎が燃え盛るのを目にしても、安全で完全に幸福なままでいられるのでしょうか?

それはまさに、彼らが完全にわたしの『意志』の中に生きているからです。

地上で完全にわたしの『意志』に生きる魂を、わたしは天の聖人たちとおなじ状態に置くのだと知っておきなさい。

ですから、わたしの『意志』に生き、何事も恐れてはなりません。

それどころか、このような人間同士の殺戮の時代にあって、わたしはあなたに、わつしの『意志』に生きるだけでなく、兄弟たちの間――わたしと彼らとの間――にも生きることを望んでいます。

あなたはわたしをしっかりと抱きしめ、被造物がわたしに浴びせる侮辱から私をかばい守るのです。

わたしがあなたに、わたしの『人間性』とわたしが受けたすべての苦しみの恵みを与える一方で、あなたがわたしをかばい、守るなら、あなたは兄弟たちに、わたしの御血、わたしの御傷、わたしの茨の冠、そして彼らの救いのためのわたしの功徳をわけ与えることになるでしょう。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

《「天国の書」第11巻》

 

 

 

1914年12月21日
イエスの人間性が、罪を抱えた被造物と御父との間に自らを置かれたのとおなじように、イエスとひとつに結ばれたルイサもまた、そのようにするのです。


私はいつもの状態にありましたが、苦悩に満ちた姿で来られた祝福されたイエスが、私にこう言われました。

 

「わたしの娘よ、わたしはもう世に耐えられません。

皆のためにわたしをなぐさめてください。

あなたの心の中でわたしを鼓動させてください。

そうすれば、あなたの心の鼓動を通して皆の心の鼓動を聞くことになるのですから、罪は直接わたしに届くのではなく、間接的に――つまりあなたの心を通して――届くようになるでしょう。

さもなければ、わたしの正義はかつてないほどの懲罰を下すことになるのです。」

そう言われると同時に、イエスはご自身のみ心と私の心をひとつに融合させ、その鼓動を私に感じさせてくださいました。

その中で私が感じ取ったすべてのことを、誰が語り尽くせることができるでしょうか。

罪は稲妻のようにそのみ心を傷つけましたが、私がその痛みをわかち合うことによって、イエスはなぐさめをお感じになりました。

そして私がイエスと完全にひとつになったと感じたとき、私はイエスの知性、御手、御足、そしてそのすべてを自らの内に包み込んでいるかのように思えました。

また、被造物がそれぞれの感覚を用いて犯すあらゆる侮辱を、私も共に味わったのです……。

しかし、このことがどのようにして起こったのか、誰が説明できるでしょうか。

その後、イエスはこう付け加えられました。

 

「苦しみをわかち合う相手がいるということは、わたしにとって最大のなぐさめです。

だからこそ、わたしの受肉の後、神なる御父はそれほど容赦のない方ではなく、より寛大な方となられたのです。

御父はもはや直接的な侮辱を受けられるのではなく、間接的な侮辱――つまり、御父にとって絶え間ない盾となっているわたしの人間性を介しての侮辱――を受けるようになられたからです。

おなじように、わたしもまた、わたしと被造物との間に立ってくれる魂をいつも探しています。

さもなければ、わたしはこの世を瓦礫の山としてしまうでしょう。」

 

 

 

1915年2月8日
他者の救いのためだけに専念するには、自分自身を忘れることが必要です。

三位一体の神の一致と幸福は、その「ご意志」の中にあります。

イエスは、あらゆることにおいてご自身のご意志を行う者に対しても、おなじことを望んでおられます。


私は、常に愛すべきイエスが私に対してとられている態度のゆえに、ひどく苦しんでいますが、それでも神の至聖なるご意志に身を委ねています。

イエスがお姿を隠されることや沈黙されることについて私が嘆くと、イエスはこう言われます。

 

「今はそのようなことを考えている時ではありません。

それは子どもじみた騒ぎ方であり、自分自身のことばかり気にかけてわたしを顧みない、極めて弱い魂のすることです。

彼らはなすべきことよりも、自分の感じることばかりを考えています。

そのような魂からは人間の臭いが漂い、わたしは彼らを信頼することができません。あなたにはそのようなことを望んでいません。

わたしが望んでいるのは、自分自身を忘れ、ただわたしを思い、わたしと結ばれて、わたしの子どもたちの救いのために尽くす英雄的な魂の姿です。

悪魔はあらゆる策略を用いて、その子どもたちをわたしの腕から奪い去ろうとしています。

わたしはあなたに、悲しみや嘆き、そして悲劇に満ちたこの時代に適応し、被造物たちの盲目のゆえにわたしと共に祈り、泣くことを望んでいます。

あなたのいのちは消え去り、わたしの全きいのちがあなたに浸透しなければなりません。

もしそうするなら、わたしはあなたの中にわたしの神性の香りを感じるでしょうし、懲罰の前奏曲にほかならないこの悲しい時代において、あなたを信頼するでしょう……。

事態がさら​​に深刻化したらどうなることでしょう。

あわれな子どもたち、あわれな子どもたちよ……!」

イエスはあまりの苦しみに言葉を失っておられるかのようです

ご自身を完全に消し去るかのように、心の奥深くよりもさらに深いところへとお隠れになります。

私が自身の悲痛な状態ゆえにふたたび嘆いて

 

「イエスよ、今起きている悲劇をお聞きにならないのですか?

 あなたの慈悲深いみ心が、子どもたちの受けるこれほどの苦しみを耐え忍ぶことなど、どうしてあり得るのでしょうか?」

 

とくり返し呼びかけましたが、イエスは私の内奥で、まるで声を聞かれたくないかのように、かろうじて動かれるだけのように思えます。

そして私は、自分の息の中にもうひとつの荒い息遣いを感じます。

それは死の苦しみにあえぐような息の音……。

その甘美さゆえに、それがイエスの息であることを私は悟ります。

しかし、その息は私を完全に蘇らせると同時に、死に至るほどの苦痛をも感じさせます。

なぜならその息の中に、すべての人々の息、とりわけ戦争でいのちを落としつつある多くの人々の息を感じるからです。

そしてイエスご自身もまた、苦悶に満ちた荒い息遣いの中で苦しんでおられるのです。

またある時には、あまりの苦しみに、どんな頑なな心をも憐れみで動かさずにはおかないような、弱々しい呻き声を漏らされることもあります。
そうして私が嘆き続けていた今朝、主は来られてこう言われました。

 

「わたしの娘よ、わたしたちの意志の一致は、一方の意志を他方の意志と区別することができないほど完全なものです。

3つの神の位格の完全さを形作っているのは、まさにこの意志の結合なのです。

なぜなら、わたしたちは意志において等しいからであり、その一致が、聖性、知恵、美、力、愛、そしてわたしたちの存在のあらゆる面における一致をもたらすからです。

それゆえ、わたしたちは互いに互いを映し出し合っており、互いを見つめ合うことによる喜びは、わたしたちを完全に幸福にするほどに大きいのです。

こうして、それぞれの位格は他の(位格の)中に映し出され、それぞれが自らの存在のあらゆる特質を、異なる喜びを湛えた広大な海のように、他の(位格の)中へと注ぎ込んでいるのでいるのです。

もしわたしたちの間に何らかの相違があるとしたら、わたしたちの存在は完全なものにも、完全に幸福なものにもなり得なかったでしょう。

 

さて、人間を創造するにあたり、わたしたちは彼をわたしたちの幸福で満たし、彼の中にわたしたち自身を映し出して喜びを見出すために、わたしたちの似姿と形を彼に吹き込みました。

しかし、人間は創造主との最初の絆、すなわち『ご意志』を断ち切ってしまいました。

それゆえ真の幸福を失い、それどころか、あらゆる災いが彼に襲いかかったのです。こうして、わたしたちは彼の中にわたしたち自身を映し出すことも、喜びを見出すこともできなくなりました。

それができるのは、あらゆることにおいてわたしたちの意志を行なう魂においてのみです。

そのような魂の中にこそ、わたしたちは創造の完全な実りを見出すことができるのです。

たとえ徳を積み、祈り、秘跡にあずかる者であったとしても、わたしたちの意志に従わなければ、わたしたちをその身に映し出すことはできません。

なぜなら、彼らの意志はわたしたちの意志から切り離されていので、すべてが秩序を失い、あべこべになっているからです。

ああ、わたしの娘よ、受け入れられることができるのはわたしたちの意志だけです。

なぜならそれはすべてを整え、喜びをもたらし、あらゆる善を伴うものだからです。

それゆえ、常に、あらゆることにおいてわたしの意志を行ないなさい。

そして、あらゆる聖性のために、わたしの意志だけで十分であるとしなさい」。

 

そこで私は言いました。


「私の愛、私の命よ、あなたが送ろうとしている数々の懲罰について、どうすればあなたの意志に従うことができるでしょうか?

『フィアット(ご意志のままに)』と言うには、あまりにも大きな苦しみが伴います……。

それに『あなたがわたしの意志を行なうなら、わたしもあなたの意志を行ないます』と言われたことが何度あったことでしょう。

それなのに、今は変わってしまわれたのですか?」。

 

するとイエスは言われました。

 

「わたしは変わっていません。

耐え難いほどになってしまったのは被造物の方なのです。

もっと近づき、被造物がわたしに投げつける侮辱を、わたしの口から吸い取りなさい。

もしそれを飲み込むことができれば、わたしは懲罰を差し控えましょう」。

私は御口に近づき、貪るように吸い取りました。

しかし、何としてでも飲み込もうと努めたものの、どうしてもできませんでした。

息が詰まりそうになりました。

ふたたび、懸命に試みましたが、やはりできませんでした。

するとイエスはすすり泣くような優しい声で言われました。

 

「見ましたか?

 あなたにも飲み込めないでしょう。

あまりにも忌まわしく、吐き気を催すほど苦いものだからです。

それを地面に吐き出しなさい。

そうすれば、それは被造物の上に降り注ぐでしょう」。

 

そこで私はそれを吐き出し、イエスもまた御口からそれを地上に吐き出しながら言われました。

 

「これはまだ序の口です。

これはまだ何でもないことなのです!」。

 

そして、イエスは姿を消されました。

 

 

 

1915年3月6日
神の正義は、ルイサが「犠牲者」として苦しみの状態に縛り付けられたままでいることを望んでおられません。

なぜならそうした状態が続けば、懲罰が下され続け、戦争が激化してしまうからです。


いつものような状態にあったとき、愛すべきイエスが少しの間、私のところに来てくださいました。。
私の聴罪司祭の具合が悪く、そのため私の状態(普段、従順による命令によって意識を戻すあの状態)が中断されていましたので、私はイエスにこう尋ねました。

 

「私にどうしてほしいのでしょうか?

 このまま留まるべきでしょうか、それとも自由を感じたときに意識を戻すようにするべきでしょうか?」

 

するとイエスは言われました。

 

「娘よ、あなたはわたしが以前のように振る舞うことを望んでいるのですか?

 あのころ、わたしはあなたにじっとしているように命じただけではなく、従順によらなければ意識を取り戻せないほどに、あなたを縛り付けていました。

もし、今そんなことをすれば、わたしの愛は制約され、わたしの正義は被造物の上に完全に注がれることにおいて、障害に直面してしまうでしょう。

そしてあなたはわたしにこう言うかもしれません。

『あなたがご自身と被造物の愛のために、私を苦しみの犠牲者として縛り付けておられるように、私もまた、あなたの正義が被造物の上に注がれるのを止めるために、あなたを縛り付けているのです』と。

そうなれば、戦争や、他国が戦争へと向かうために進めている準備のすべてが、危うくなってしまうのではありませんか。

わたしにはできません、それはできないことなのです!

 せいぜい、もしあなたが縛られたままでいることを望むなら、あるいは聴罪司祭があなたをそうした状態に留めておきたいと望むなら――もしもそうするなら、わたしはコラートの町にいくらかの配慮をして、何かを救うことにしましょう。

けれども、その間にも事態は緊迫していきます。

そしてわたしの正義は、あなたがそのような『なだめ』の状態にあることを全く望んでいません。

なぜなら、まもなくさらなる懲罰を送り、他国を戦争に巻き込み、勝利を信じている場所で敗北を味わうことになる被造物たちの高慢を打ち砕く必要があるからでし。

ああ、わたしの愛は泣いていますが、わたしの正義は償いを求めているのです!

 娘よ、忍耐しなさい!」

そう言われると、イエスは姿を消されました。

けれども、その後の私の状態を誰が言い表せるでしょうか。

私は死ぬような思いをしました。

なぜなら、もし私が自力でその苦しみの不動の状態から抜け出してしまったら、それがさらなる懲罰や他国――とりわけイタリア――の参戦を招く原因になりかねないと考えたからです。

なんと大きな苦しみ、なんと痛ましい心境だったことでしょう! 

私は、イエスからこの「停止」の状態に置かれていることの重みを痛感していました。

「もしかするとイエスは、イタリアを参戦させるための最後の一撃を与えるために、聴罪司祭の病気を治そうとされているのではないか?」

――そんな思いがよぎりました。

どれほどの疑念と恐れに苛まれたことでしょう!

 いつもの朝の苦しみの状態から自力で抜け出した後、私は涙と激しい苦悩のうちに一日を過ごしました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

《「天国の書」第11巻》

 

 

 

1914年11月6日
受難の祈りがイエスとそれを唱える魂にもたらす善。


いつものように受難の祈りを唱えていると、愛するイエスが私にこう言われました。

 

「娘よ、世界は絶えずわたしの受難を新たにしています。

そしてわたしの広大さは被造物の内外すべてを包み込んでいるのですから、わたしは彼らとの接触することによって、釘、茨、鞭、嘲り、唾、そしてわたしが受難で受けたあらゆる苦しみと、さらにそれ以上の苦しみを受けざるを得ないのです。

けれども、今、この受難の祈りを唱える魂との接触によって、わたしは釘が抜かれ、茨が砕かれ、傷がいやされ、唾が取り除かれるのを感じています。
他人がわたしに行なう悪に対して、わたしは善によって償われていると感じています。
彼らとの接触がわたしに害を与えるのではなく、善をもたらすのを感じ、わたしはますます彼らに寄り添うようになります。」


さらに受難の時についてふたたび語られ、祝福されたイエスはこう言われました。

 

「わたしの娘よ、これらの時間を行なうことによって、魂はわたしの思いを受け継ぎ、それを自分のものとします。

わたしの償い、わたしの祈り、願い、愛情、そしてわたしの最も深い部分さえも受け継ぎ、それを自分のものとします。

こうして、天と地の間に昇り、彼女はわたしとおなじ務めを果たし、共同贖罪者としてわたしにこう言うのです。

『Ecce ego, mitte me(ここに私がおります。私をお遣わしください。)

私はすべての人々のために償いをし、すべての人々のためにあなたに応え、すべての人々のために善を祈りたいのです。』」

 

 

 

1914年11月20日
「大戦(第一次世界大戦)」は、数々の懲罰のはじまりにすぎません。

ルイザの「犠牲者」としての状態は、世界の出来事と結びついています。

イエスにおいてそうであったように、ルイサのうちにも「神のご意志」と「愛」が、主の「受難」、ひいては主の「生涯」が形作らなければならないのです。


私は、祝福されたイエスがお姿を隠されていること、そして何年も前にイエスが幾度となく語っておられた懲罰が今まさに地上に降り注いでいることのために、ひどく苦しんでいました。

主が私を長年にわたり病床に留め置かれていた間、私たちは世界の重荷をわかち合い、すべての被造物の益のために共に苦しみ、共に働いてきたように思えます。

愛すべきイエスが私を置かれた「犠牲者」という状態は、私と主との間にすべての被造物を結びつけていたように感じられます。

イエスは、私に知らせることなく何かを行なったり、懲罰を下されたたりすることはありませんでした。

そしてその間、私は主に対して、主が懲罰を半減させたり、あるいは全く下されなかったかのような態度で臨んでいました……。

ああ、イエスが私を脇に置き――まるで私が主と共に働くに値しないかのように――被造物の重荷をすべてご自身で引き受けてしまわれたかもしれないと思うと、私はどれほど悲しいことでしょう!

しかし、さらなる苦しみがあります。

主が時折、さっと訪れてくださる際にこう言われるのです。

今起きている戦争や災厄は、あまりにも甚大なものに見えるにもかかわらず、実際にはまだほんのはじまりにすぎない、と。

他の国々も戦争に巻き込まれるだけでなく、教会に対しても戦いを挑み、聖職者たちを攻撃して殺害するだろう、と……。

どれほど多くの教会が冒涜されることでしょう!

実のところ、私はここ2年ほど、イエスが頻繁に見せてくださった懲罰について書き記すことを控えてきました。

それは、内容がくり返されていたからでもありますが、何よりも、懲罰について書くことがあまりに辛く、書き続けることができなかったからです。

しかしある夜、主が「至聖なるご意志」について語られたことを書き留めていた際、懲罰について語られた部分を書き飛ばしてしまったところ、イエスは優しく私をたしなめてこう言われました。

 

「なぜすべてを書かなかったのですか?」

 

そこで私は言いました。

 

「愛する主よ、その必要はないように思えたからです。

それに私がどれほど苦しんでいるか、あなたはご存じでしょう」。

 

するとイエスは言われました。

 

「娘よ、もし必要がなければ、あなたにそれを言わなかったでしょう。

さらに、あなたの『贖罪の生贄(いけにえ)』としての状態は、わたしの摂理が被造物に対して定める出来事と結びついています。

そして、あなたとわたしと被造物との間のこうした結びつきや、懲罰を防ぐためのあなたの苦しみが、あなたの著作に記されている以上、その欠落は人々の目に留まるはずです。
それは不調和で不完全なものとして映るでしょう。

けれども、わたしは不調和で不完全なことなどは行ないません」。

 

私は肩をすくめ――不届きなことですが――こう言いました。

 

「私にはあまりに難しいことです。

それに、一体誰がすべてをおぼえていることができるというのでしょう?」

 

イエスは微笑みながら付け加えられました。

 

「もし死後、煉獄でわたしがあなたの手に『火のペン』を握らせるとしたら、あなたは何と言うでしょう?」

 

こうして、私は懲罰について記す決心をしたのです。
イエスが私の書き漏らしを赦してくださることを願いつつ、今後はより熱心に取り組むことをお約束します。


さて、話は戻りますが、私がひどく思い悩んでいたとき、イエスが来られて、私を元気づけようと、そのみ腕に抱き寄せ、こう言われました。

 

「娘よ、勇気を持ちなさい

わたしの意志を行なう者は、決してわたしから離れることはありません
むしろ、わたしの行なう業においても、わたしの望みにおいても、わたしの愛においても、彼女は私と共にあります。
あらゆることにおいて、至る所で、彼女はわたしと共にあるのです。

それどころか、こうも言えるでしょう
わたしはすべての被造物の情愛や望みなど、すべてを自分自身のために求めています。もしそれらを得られなければ、わたしは被造物を勝ち取ろうとするかのような姿勢で、彼らの周りに留まることになります。
だからこそ、わたしの意志に生きる魂の中にわたしの望みが満たされるのを見出すとき、わたしの望みはその魂の中に安らぎ、わたしの愛はその魂の愛の中に安らぐのです。

他のすべてのこともおなじです」。

 

そして、主はこう付け加えられました。

 

「わたしはふたつの偉大なものを与えました。

それこそが、いわばわたし自身の『いのち』を形作ったものです。

わたしの生とは、わたしの『意志』と『愛』です。

わたしはすべてをこのふたつの点――神聖なる意志と愛――に集約しました。

この意志と愛が、わたしの内においてわたしのいのちを全うさせ、わたしの受難を成し遂げたのです。

わたしがあなたに望むのはただひとつ、わたしの意志をあなたのいのちとし、あなたの規範とすることです。

そして、些細なことであれ、重大なことであれ、決してその意志から逸脱しないことです。

この意志と愛が、あなたの中でわたしの受難を成就させるでしょう。

わたしの受難に近づけば近づくほど、あなたはわたしをいっそう愛し、自分の中にわたしの受難を感じるようになります。

もしあなたが、わたしの意志と愛を『いのち』として自分の中に流れるに任せるなら、わたしの受難もまた、あなたの中に流れることになるでしょう。

あなたはそれが、ひとつひとつの思考や口もとに流れるのを感じるでしょう。

舌がその愛と意志に浸されるのを感じるはずです。

あなたの言葉はわたしの血で温められて発せられ、あなたはわたしの苦しみについて雄弁に語るようになります。

あなたの心はわたしの苦しみで満たされるでしょう。

あなたの存在のあらゆる表われにわたしの受難の印が刻まれ、わたしは絶えずあなたにこうくり返すことになります。

『これこそがわたしのいのち、これこそがわたしのいのちなのです』と。

わたしはまだ聞いたことも理解したこともない苦しみを次から次へと語り聞かせることによって、あなたを驚かせることを喜ぶでしょう。

あなたは幸せではありませんか?」

 

 

 

1914年12月17日
「神のご意志」のうちにある魂が、どのようにして自らの存在をもって「生ける聖体」となり得るか。


いつもの状態のまま、イエスがおられないことによる苦しみに深く沈んでいましたが、長い苦しみの末にイエスがおいでになり、私のこの貧しい存在のすべてにそのみ姿を現わされました。

まるで私自身がイエスの衣であるかのように感じられました。

そして、沈黙を破って、主は私にこう言われました。

 

「わたしの娘よ、あなたもまた聖体(ホスチア)を形作り、神秘的に聖別することができるのです。

秘跡の中でわたしを覆っている衣が見えますか? 

それは、聖体が作られるパンの『偶有性(外見上の性質)』です。

この聖体に存在する『いのち』とは、わたしの体、わたしの血、そしてわたしの神性です。

わたしの至高なる『意志』こそが、この『いのち』を内包する働きなのです。

この『意志』が、愛、償い、犠牲、そしてわたしが秘跡の中で行なうその他すべてのことを展開させるのです。

秘跡は、わたしの『意志』から一点たりとも外れることはありません。

わたしから出るもので、わたしの『意志』に導かれていないものは何ひとつないのです。

あなたも聖体を形作る方法は次の通りです。

聖体は物質的であり、完全に人間的なものです。

あなたもまた、物質的な体と人間的な意志を持っています。

あなたのその体と意志は――それらを清く、正しく、罪の影から遠ざけて保つ限り――わたしを聖別し、わたしをあなたの中に隠れたまま生きさせるための『偶有性』、すなわち『覆い』となるのです。

しかし、それだけでは不十分です。

それは聖別されていないただの聖体(ホスチア)のようなものであり、わたしの『いのち』が必要だからです。

わたしの『いのち』は聖性、愛、知恵、力などで構成されていますが、そのすべての原動力はわたしの『意志』です。

ですから、聖体(ホスチア)を準備した後、その中で自分の意志を死なせなければなりません。

二度と蘇らないように、しっかりと『焼く(練り上げる)』必要があるのです。

そして、わたしの『意志』をあなたの全存在に浸透させなければなりません。

そうすれば、わたしの『いのち』のすべてを含むわたしの『意志』が、真に完全な聖別を形作るでしょう。

その結果、人間的な思考のためのいのちはもはやなくなり、わたしの『意志』の思考のためのいのちだけが存在することになります。

わたしの『意志』はあなたの心の中に、わたしの知恵を聖別するからです。

また、弱さや気まぐれといった人間的なもののためのいのちもなくなります。

なぜなら、わたしの『意志』が、神的ないのち、不屈の力、堅固さ、そしてわたしという存在そのものの聖別を形作るからです。

ですから、あなたが自分の意志をわたしの意志へと注ぎ込むたびに、わたしはあなたの願い、そしてあなたの存在と行なうことのできるすべてのことの聖別を新たにするのです。

わたしは、わたしを欠いた聖体のような『死んだ』ものではなく、生ける聖体の中にいるかのように、あなたの中でわたしの『いのち

』を生き続けるのです。


しかし、それだけではありません。

聖別された聖体、聖体容器、聖櫃の中で、すべてが死に絶え、沈黙しています。
鼓動の微かな動きさえなく、わたしの大きな愛に応えてくれるような愛の奔流もありません。
もしわたしが、自らを捧げるべき「心」を待ち望まなかったとしたら、わたしはひどく不幸だったことでしょう。

わたしの愛は空しく奪われ、秘跡におけるわたしのいのちも目的を失っていたはずです。

聖櫃の中ではそのような状態を甘んじて受け入れていますが、「生ける聖体」においては、それをよしとはしません。

秘跡において、わたしはわたし自身の糧で養われたいと願っています。

すなわち、魂がわたしの意志、愛、祈り、償い、そして犠牲を自らのものとして受け入れ、それらをあたかも自分自身のものであるかのようにわたしに捧げ返すことによって、わたしは自らを養うのです。

魂はわたしと結ばれ、わたしが何を行っているかに耳を澄ませ、わたしと共にそれを行ないます。

そうしてわたしの行ないを繰り返し行なうことで、魂はわたしにその糧を捧げ、わたしは喜びで満たされるのです。

こうした「生ける聖体」の中にこそ、わたしは聖櫃で味わう孤独や飢え、そしてあらゆる苦しみに対する「あがない」を見出すことができるのです。」