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そこで、1万円札の肖像画になった『渋沢栄一』について。妻と妾を同居させた渋沢栄一は68歳にして子どもを作り総勢17人以上…今なお政財界に広がる華麗なる家系図
妻・千代、後妻・兼子の間に6男4女が生まれた
2024年7月、40年ぶりに新札が登場した。新1万円札の表面を飾るのは、渋沢栄一(1840~1931年)だ。
栄一は500社とも数えられるほど、精力的に会社を作っていたのだが、私生活では子どもをたくさん、こしらえていた。こちらの方も精力的で……。
栄一は1858年に18歳で、イトコの千代(1843~1882年)15歳と結婚。2男3女をもうけた(年齢は満年齢)。千代に先立たれると、翌1883年に15歳年下の兼子(1852~1934年)31歳と再婚、5男1女をもうけた
女好きで知られ、正妻以外にも3男4女以上、子が生まれた
栄一には公式のお子さん以外に、庶腹の子どもが数人存在した。
中でも有名であるのが、第一銀行の「プリンス」として頭取に推され、三菱銀行との合併失敗で辞任を余儀なくされた長谷川重三郎(じゅうざぶろう)である。かれは栄一の13番目の子どもだったから、「十三」をもじって重三郎と命名されたといわれている。その弟・藤四郎は「十四」をもじった名前だという。
68歳でも子どもができ「若気の至りで」と言い訳した
栄一は還暦を過ぎてから子どもができてしまい。思わず「若気(わかげ)の至りで」と語ったとか……。長谷川重三郎は栄一が68歳の時に生まれているので、彼がその子どもなのかも知れない。
「向いていない」と言いながら日銀総裁になった孫の渋沢敬三
敬三は「私は実業に志してはいなかったので、銀行は大切だと思いましたが面白いと思ったことは余りありません。しかし、真面目につとめておりました。が、人を押しのけてまで働こうという意志もありませんでした」と語っている(『瞬間の累積』)。それなのに、第一銀行副頭取から日本銀行総裁、大蔵大臣(財務大臣)まで務めたのだから、よほど優秀だったのだろう。
渋沢栄一と同時に新千円札になる北里柴三郎(1853~1931年)にも共通点がある。
意外に知られていないが、北里はその多大な功績から男爵を授与されている。しかし、かれの長男・北里俊太郎(1895~1953年)は爵位を継承しなかった。
新千円札の北里柴三郎の長男は芸者との心中事件を起こす
医者は子どもを医者にさせることが多いが、俊太郎は医学の道に進まず、三井物産に就職した。ところが、戦前の三井物産は、信賞必罰が徹底した超「肉食系」である。俊太郎は早速出世コースから脱落したらしい。安月給で生活がままならず、実家に生活費の援助を求めては、厳格な父に拒絶され、母から内緒で融通されるが、それが知れて父子間が厳しくなる。
挙げ句に、俊太郎は花柳界に安らぎを求めた――あれ? お金がないんじゃないの――そして、1915年に芸者と心中事件を起こしてしまうのである。俊太郎は一命を取り止めるが、芸者は死亡。
北里柴三郎は落胆し、公職を全て辞した。そして、柴三郎の死後、遺族は襲爵手続きを取らず、男爵の栄誉は柴三郎一代で終わってしまったのである。
渋沢栄一も、北里柴三郎も期待をかけた嫡男のスキャンダルには手を焼いた。没後100年近く経っても功績を称えられ、お札の顔になるほどの偉人でも、子育てはままならないのだという、ひとつの教訓と言えるかもしれない。