今朝の「とくダネ」で「教えられない自転車の乗り方」を特集でやっていた。
その特集を見ていたら「え?」と思う事ばかり。
少し考えさせられてしまった。
最初に登場していた親子を見て「おや~?」
何で練習する所まで母親が自転車を持て行き、練習する場所で子供に乗らせている。
自分の経験では有り得なかった事だ。
そもそも自転車を練習するのに親から教わった覚えは無い。
教わったのは友達から、それもどうやったら乗れるのかを聞いた時に「ケンケンしてたら乗れる」の一言だけ。
その言葉を頼りに自分で公園まで自転車を引っ張って行き、ケンケンしてたら乗れるようになった。
娘にも同じ様に、ケンケンしてたらそのうち乗れるとは言ったが覚えはあるが、手取り足取り教えた覚えは無い。
それなのに、その親子は半年も練習しても乗れないと言う。
番組を見ていたら、自分の中では当たり前に思ってやっていた事が、当たり前ではなかった事に気付かされた。
と言うか、学習の理屈としては知っていたのだが、それも同じ事かと言う思いと言った方が正しい。
番組では時間で自転車に乗れるスクールでの練習が取り上げられていたが、その冒頭で最初は引っ張って歩く。
私の中では、自分で自転車を公園まで持っていって練習するのは当たり前の事だったので、それが一つのプロセスである事に気付かなかった。
考えて見れば、自転車を押し歩く時って、ハンドルを持って押して行くし、その時にハンドルの感覚を経験する。
恐らくその経験が、自転車に乗る為に必要な前駆の経験の一つなのだろう。
最初に出ていた親子は、親が自転車を押し運んでいた為に、前駆の経験を学べなかった訳か。
スクールの先生も、「皆さん乗ることばかりを教えようとする」と言っていた。
スクールの第二段階は、自転車に乗ってペダルを漕がずに地面を蹴って進む。
考えて見れば、これも勝手にやっていた。
公園までの道のりを、押して歩いていると疲れるので、自転車に¥のサドルにまたがり歩いたり、地面を蹴ったりして公園まで行った覚えがある。
なるほど、それも必要な前駆の段階だった訳だ。
なるほどね。
最初に出ていた親子は、練習できる場所まで親が自転車を持って行き、そこで子供を自転車に乗せて漕がせて教えていたから覚えられなかった訳か。
複数の事を同時に習得しようとしても、覚えられる物でもないからな。
それが「乗ることばかり教えようとする」と言う事なのね。
三つ目のプロセスは、スタンドを立てた自転車に乗って漕ぐ。
片側だけのスタンドでは出来ないが、スクールで使っていたのは後輪が地面から浮き上がって自立するタイプだった。
三つ目のプロセスは、自転車に乗る練習をする前から、親の自転車で遊びでやっていた。
自然に乗れるようになった自転車だが、改めて見直してみると、すべてのプロセスを意識する事無く経ている。
これに気付けただけで、私の中では大発見だ。
こうした事を当たり前に感じたままでは、それを人に伝えようとした時に上手く伝えられない。
それは経験知を形式知に変換出来ていない事でもあり、伝えられない知識では意味が無い。
半年も乗れなかった子供も、あれよあれよと言う間に2時間で乗れる様になったのだが、両親はこんな感想を言っていた。
父親は、もっと優しく言ってあげたらいいのにな。
母親は、ここ厳しいって言ってたで、他のお母さんも。
自分達の教え方の間違いに全く気付いていない。
間違いに気付き、論理的に間違いを把握して修正しなければ、何かに付け同じ間違いを繰り返す事になる。
その特集を見ていたら「え?」と思う事ばかり。
少し考えさせられてしまった。
最初に登場していた親子を見て「おや~?」
何で練習する所まで母親が自転車を持て行き、練習する場所で子供に乗らせている。
自分の経験では有り得なかった事だ。
そもそも自転車を練習するのに親から教わった覚えは無い。
教わったのは友達から、それもどうやったら乗れるのかを聞いた時に「ケンケンしてたら乗れる」の一言だけ。
その言葉を頼りに自分で公園まで自転車を引っ張って行き、ケンケンしてたら乗れるようになった。
娘にも同じ様に、ケンケンしてたらそのうち乗れるとは言ったが覚えはあるが、手取り足取り教えた覚えは無い。
それなのに、その親子は半年も練習しても乗れないと言う。
番組を見ていたら、自分の中では当たり前に思ってやっていた事が、当たり前ではなかった事に気付かされた。
と言うか、学習の理屈としては知っていたのだが、それも同じ事かと言う思いと言った方が正しい。
番組では時間で自転車に乗れるスクールでの練習が取り上げられていたが、その冒頭で最初は引っ張って歩く。
私の中では、自分で自転車を公園まで持っていって練習するのは当たり前の事だったので、それが一つのプロセスである事に気付かなかった。
考えて見れば、自転車を押し歩く時って、ハンドルを持って押して行くし、その時にハンドルの感覚を経験する。
恐らくその経験が、自転車に乗る為に必要な前駆の経験の一つなのだろう。
最初に出ていた親子は、親が自転車を押し運んでいた為に、前駆の経験を学べなかった訳か。
スクールの先生も、「皆さん乗ることばかりを教えようとする」と言っていた。
スクールの第二段階は、自転車に乗ってペダルを漕がずに地面を蹴って進む。
考えて見れば、これも勝手にやっていた。
公園までの道のりを、押して歩いていると疲れるので、自転車に¥のサドルにまたがり歩いたり、地面を蹴ったりして公園まで行った覚えがある。
なるほど、それも必要な前駆の段階だった訳だ。
なるほどね。
最初に出ていた親子は、練習できる場所まで親が自転車を持って行き、そこで子供を自転車に乗せて漕がせて教えていたから覚えられなかった訳か。
複数の事を同時に習得しようとしても、覚えられる物でもないからな。
それが「乗ることばかり教えようとする」と言う事なのね。
三つ目のプロセスは、スタンドを立てた自転車に乗って漕ぐ。
片側だけのスタンドでは出来ないが、スクールで使っていたのは後輪が地面から浮き上がって自立するタイプだった。
三つ目のプロセスは、自転車に乗る練習をする前から、親の自転車で遊びでやっていた。
自然に乗れるようになった自転車だが、改めて見直してみると、すべてのプロセスを意識する事無く経ている。
これに気付けただけで、私の中では大発見だ。
こうした事を当たり前に感じたままでは、それを人に伝えようとした時に上手く伝えられない。
それは経験知を形式知に変換出来ていない事でもあり、伝えられない知識では意味が無い。
半年も乗れなかった子供も、あれよあれよと言う間に2時間で乗れる様になったのだが、両親はこんな感想を言っていた。
父親は、もっと優しく言ってあげたらいいのにな。
母親は、ここ厳しいって言ってたで、他のお母さんも。
自分達の教え方の間違いに全く気付いていない。
間違いに気付き、論理的に間違いを把握して修正しなければ、何かに付け同じ間違いを繰り返す事になる。