先ほどまた彼から電話があった。

今度は「何処まで面倒見てくれるの」と言い出した。
「入院中の服とか面倒見てくれるの」とか、「毎日世話しに着てくれるの」とか言い出す始末。

さすがに段々腹が立って来た。

何処まで依存する気だ?

私の中では入院しなければ見捨てる事を決めている事もあり「あ~腹立って来た! 何で俺がそこまでしないかんのだ!甘えるな!、何でもかんでも人のせいにしやがって! お前が病気になったのも、ホームレスになったのも俺には何の関係ない! お前が良くなるには入院するしかないから手伝っているだけだ!」と怒鳴り飛ばすと、彼は途中で電話を切った。

依存心を強めてしまったのは、今日甘えさせた事が原因だろう。
なのでここは治療に行かなくなる可能性もあるが突き放すしかない。

これで病院に入らずに悪くなろうが私の知った事ではない。
自殺しようが野たれ死のうが知った事ではない。

とりあえずその電話から20分ほど時間を置いて電話した。
理由は二つ、明日病院へ行くのか行かないのか、病院へ行かないのなら預かっている荷物は引き取れと伝える事と、怒鳴って起った後で明日病院へ行くのかどうかの電話をする事で、完全には見捨てられていないと感じさせる為だ。

私が怒鳴った事で、恐らく見捨てられたと思いウェんウェん泣いている。
少し泣き止んだ頃合を見計らって、明日の話の電話をすればまだ見捨てられていなかったと思うだろう。


考えてみれば、これって私が親父から山で受けた教育のような気がする。

私が小学4年生の夏、父と母と私の三人で槍ヶ岳に登った。

初日は槍平の小屋で一泊、翌日に山頂まで上り、山頂の山小屋で二泊目。
その翌日、私は激しい吐き気と頭痛に見舞われた。
高山病である。
後に父に聞くと、槍平での一泊は高知に慣らす為だったらしいのだが、効果はなかったようだ。

激しい頭痛と吐き気に襲われている私に、父は自分の足で降りろと言い、さっさと下山し始めた。
私は吐きながら必死で父の後を追った。
母は「頑張りなさい」と励ますだけ。
上高地に着いた頃には日が暮れようとしていた。
父は先に進みながら私に合わせていたのだ。
上高地付近まで降りた頃には頭痛も吐き気も収まっていた。

歩きながら父は、どんな時でも自分の足で山を降りるのが男だと言ったのを覚えている。

娘にも同じ様に教えて来た。
直ぐに「おんぶして」「だっこして」車で行きたい・・・
そんな娘に「足は何の為にあるんだ」と言って歩かせた。
今では何処へ行くにも徒歩か自転車。
末梢神経障害で歩くのが辛い私に、そんな所位歩いて行けばいいじゃんと言うまでになっている。
まあ、歩ける限り自分の足で歩くのが、親から子へ子から孫へ受け継がれているみたいだ。
母も病床の時、「歩けなくなったら人間終わりだ」と言い、なるべく車椅子を使わず這ってでも歩いていた。

甘えさせずに厳しく突き放し、突き放されて追いかけて、それを繰り返しているうちに気が付けば自立しているのだと思う。



彼に電話をすると彼は泣き声で電話に出た。
そこで明日は行くのか行かないのか?と聞くと「行きます」と答えた。
すると彼は「俺だって明日の辞めに頑張ってるんだ」と電話口で泣き出す。
私は「頑張っているのは分かる」と言い、続けてこうも言った「頑張っているのは分かるが、俺に依存するな!俺はお前が治る手助けはしてやるが、俺に依存はするな! 面倒見てとか言うのは依存でしかない、依存だと思ったら容赦なく見捨てる」すると彼は「分かった」と言って電話を切った。

果たして本当に分かっているのか怪しい物だが、とりあえず明日が正念場だ。

来なければ、今度は完全に見捨てる。
恐らくそれも彼にとっては必要な経験だと思う。

本来人間関係の構築と言う物は、幼少期より相手の領分に踏み込み過ぎて怒られて、また踏み込みすぎて怒られて、そして嫌がられ、そんな事を繰り返しながら「加減」と言う物を体得して行く。
彼にはその経験がなさそうだ。

だから他者との境界が曖昧なのだろう。


電話を切って数分後にまた電話がかかって来た。
今度は「怒った私が怖い」と言い「怒らないで」と言う電話だった。
当然だ、その恐怖心を植え込む為に怒ったのだから。
近付き過ぎると相手の怒りを買うという事を経験で教えなければ自制心が働かない。



今日の私は交感神経が高ぶっている。
こういう時はアロマのバブを入れたお風呂にゆっくりと入って、副交感神経に頑張って貰うのが一番だ。
今日はラベンダーにしよう。