STAP細胞が発表された時にはその内容に驚いた。
それを成し遂げたのは若くて可愛らしい女性なので更に驚いた。

しかもかなり好みのタイプだったのだが、同時にかなり警戒感も感じていた。

その警戒感は小保方さんの目力にあった。
可愛らしい目をしていらっしゃるのだが、あの手の目力には職業柄警戒感を感じてしまう。

誤解のないように断っておくが、小保方さんがどうこう言う訳ではない。
私の経験上、あの手の目力はパーソナル症害や双極性の人に見受けられる目力なのだ。
なのでどうしてもあの手の目力を持つ人には警戒感が出てしまう。

最近、小保方さんのコピペ論文の話題で持ちきりだが、論文はともかく研究成果は真実であって欲しいと願う。


しかしコピペ論文に関する問題は、小保方さんの論文疑惑よりかなり以前から指摘されていた。
このコピペ論文の問題は、単に無断登用した事だけが問題ではないと思う。
根はもっと深い所にある。

以前、就活を取り扱ったTV特集でもやっていたのだが、大学卒業予定の求職者が面接の質問を想定し、周到に練習を重ねて面接に挑む。
しかし想定された質問ではテキパキ答えるのだが、想定外の質問がでると言葉は全く出なくなってしまう。

就職して簡単な書類を作らせようとしても、一文字も書けない。
そんな人が増えていると言う。

大学では色々なレポートを提出したり論文を書いていたはずなのに、簡単な書類で一文字も書けないのは何故なのだろう。

それこそがコピペ論文の真の問題だと思う。

人の知識には経験知(暗黙知)と形式知(知識知)がある。
経験知は経験や感覚で得た知識、暗黙知は言葉に表せない知識であり経験知も暗黙知である。
それに対して形式知は言語化された知識である。

自分の考えや思いが言葉に出来ない時、それはその考えや思いが暗黙知の段階であって形式知に変換されていないから言葉に出来ない。
その暗黙知を自分で言葉にして形式知にする作業を積み上げていれば、考えや思いを容易に言葉に出来る。

しかし、インターネットが普及し簡単に何でも調べられるようになると、自分の考えと同じ物を探し、見つけ出してしまうが、それは誰かが書いた形式知である。
その形式知を読むと、自分の暗黙知が形式知となって自分の言葉として使い出す。

これはインターネットに限った事ではない。
例えば思いが上手く言葉に出来ないでいる時に、誰かが自分の思いと同じ事を言った時「そうそう」とか「それそれ」と言い、それ以後その言葉を使ってしまうのも同じである。

自分で暗黙知を形式知に変換する事を積み上げてきた人と、他人の形式知を自分の言葉のように使っている人は一見違いは無い。

だから本人も周囲の人も気付かず見過ごされてしまう。

しかしこの両者には決定的な違いがある。
例えば面接の時に、暗黙知を形式知に変換する事を積み重ねてきた人は、想定外の質問も言葉にしやすいのだが、他人の形式知を自分の言葉として使っていた人は、想定外の質問が出ると言葉に出来なくなってしまう。
暗黙知を形式知にしても、その形式知の近辺には形式知に変換していない暗黙知がある。
自分で暗黙知を形式知に変換できる人は、その暗黙知を形式知にする事はたやすいが、他人の形式知を使って来た人には極めて難しい。

コピペ論文も同じだ。
論文を書くのは暗黙知を形式知に変換する作業なのだが、コピペで論文を書いていれば暗黙知を形式知に変換する能力が身に付かない。
それこそが問題だと思う。

そしてコピペで論文をを作ってしまえば、例え研究成果が正しくても疑われてしまう。

言葉で人に思いや考えを伝えるのは難しいと思う。
人は会話をしている時、頭に浮かんだ単語を並べて口にして話している。

長年、被害妄想を持つ人に接して色々と説明をしてきたが、最初の頃は思い浮かべる単語を並べて話をしていたが、それでは伝わり難かった。
そして、その化一を振り返り、ここをこうすれば伝わりやすいのではないか?とか色々考えて次の客に挑み、更に話を改良して次の客に試し、それを延々と繰り返して来て今使っている話にたどり着いている。

今使っている話はかなり効率よく相手を納得させる事が出来ているのだが、それを他人が使っても同じ様に納得させる事は難しい。
理由は簡単、その話に至る過程がないから上手く行かない。

そこに至る過程があれば、相手がどの段階で納得していないのかが分かり、その段階まで引き下げて話をする事が出来るのだが、過程を経ていなければそれが出来ない。