京都の太秦でクリーニング店経営者が刺殺される事件が起きた。

犯人は10年来の恨みが有ったと言い、近所の人の証言では二人に接点は無かったと言う。

集ストを研究しているとこの構図がよく分かる。


こうした事件を起こす犯人は決まって孤独である。
この犯人も近所の人の話では近所付き合いは無く家にこもっていたと言う。

そして被害者と言うか恨みをもたれる人は、決まって面倒見がよく人付き合いの良い人であり接点の有無は関係が無い。


さて何故接点も無いのに恨まれる事になるのか?
孤独は非社会性である。
非社会性は感覚を反転させる。
見守りは監視に、親切はおせっかいに、気遣いはハラスメントと感じてしまう。

そして人付き合いの良い人が自分の噂を広めていると感じ、その人に恨みを抱くようになる。


先日行った調査もそんな人だった。
仮想犯人は饅頭屋のご主人で、人付き合いが良く、近所の人に無料で饅頭を配ったりしている人。
調査依頼者はその饅頭屋と付き合いは無い。

しかし依頼者は饅頭屋が自分を盗聴し噂を広めていると思い込んでいたが当然の事ながら盗聴器は無い。

別居の娘などに抗議に行かせたりしていたのだが、娘は困り果てていた。

話を聞くと、その饅頭屋に嫌がらせもしているようなので、娘さんに説明する振りをして、依頼者の盗聴特集のビデオを使った盗聴に関するイメージの刷新を行った。

そして出てきた言葉が「そこまで否定する事無いのに」
逆に娘は安堵の顔。

恐らく依頼者はまだ自分妄想であると言う自覚が少しはあったのだろう。
調査を始める時にはこんな事も言っていた「絶対出てくるはずは無い」



こうしたケースは記憶が塗り替えられて確信に変る前に、徹底的にイメージの刷新を行ったほうが良い。
記憶が塗り替えられ確信に変ってしまうと、自分は被害者で防衛手段と言う意識が強くなり、嫌がらせがエスカレートし事件性を帯びてくる。