こう言うニュースを聞くと、何だかな~と思う。
私も動物は好きだし動物愛護には賛成なのだが、なんと言うか、根本的な所が違うような気がする。
フォアグラの生産方法が残酷と言う理由で異を唱えている人は、自給自足で食料を賄った経験があるのだろうか?
豚でも牛でも鳥でも、世話をして育てた動物達を殺して肉にして食べている。
フォアグラの生産も屠殺も残酷さはで然程変らない。
スーパー等で肉として売られている肉を買ってきて食べていれば、そうした残酷さは分からない。
動物を殺す事は残酷に思った人が菜食主義になったりする。
私は昔から一つ疑問に思っている事がある。
仏教にも不殺生戒があり殺生を禁じているが、植物は生き物としてみなしていないのだろうか?
理屈はどうあれ植物も動物と同じ生命である。
野菜を食べると言う事も、命を食している事には変りはない。
ならば、実ならば植物を殺さないのから殺生には当たらないのか?と考えると、その実を構成している細胞の一つ一つも一つの生命で、その細胞の命を奪っている事になる。
突き詰めて考えると、不殺生戒など不可能な事だと私は思う。
不殺生戒とは恐らく「認識」なのだろう。
何を生命と認識しているか?と言う認識の違いではないのだろうか?
この「認識の違い」に気付くと、もう一つの認識の違いが見えてくる。
動物は他の生命を食べなければ生きて行けない。
食べると言う事は、他の命を奪う事でもあるのだが、食べた物は自分の血肉となる。
食べた物が自分の血肉になると言う事は、共に生きると言う事でもあるのだ。
今まで食してきた命と共に生きていると考えれば、自分の命は自分だけの命ではないと思える。
だからこそ、食べられる事に感謝し、命と言う物を大切に思うし、精一杯生きようと思う。
屋上で色々な品種のイチゴを栽培しているが、各品種を増やす時に自分の心の中で色々な葛藤がる。
収穫は少なかったが美味しかった品種、味はそこそこで沢山取れた品種、そうした品種を増やす時に美味しかった品種をもっと沢山食べたいと思って増やそうとするのだが、沢山採れて楽しませてくれた品種に対して申し訳なさを感じて「お前も同じだけ増やしてやるからな」と言いながら、沢山取れた品種も増やしてしまう。
イチゴの実を摘む時に、手でむしると「痛いんじゃないか?」と思ってしまう。
自分で生産すると、そうした気持ちが湧いて来る。
その場で食べる時には、その株に「美味しかったよ」と言ってみたり、「有り難う」と言ってみたり、そうした気持ちが植物を生命と認識させるのかもしれない。
スーパーで買って来たものしか食べていなければ、そうした感覚は湧いてこないだろう。
私も動物は好きだし動物愛護には賛成なのだが、なんと言うか、根本的な所が違うような気がする。
フォアグラの生産方法が残酷と言う理由で異を唱えている人は、自給自足で食料を賄った経験があるのだろうか?
豚でも牛でも鳥でも、世話をして育てた動物達を殺して肉にして食べている。
フォアグラの生産も屠殺も残酷さはで然程変らない。
スーパー等で肉として売られている肉を買ってきて食べていれば、そうした残酷さは分からない。
動物を殺す事は残酷に思った人が菜食主義になったりする。
私は昔から一つ疑問に思っている事がある。
仏教にも不殺生戒があり殺生を禁じているが、植物は生き物としてみなしていないのだろうか?
理屈はどうあれ植物も動物と同じ生命である。
野菜を食べると言う事も、命を食している事には変りはない。
ならば、実ならば植物を殺さないのから殺生には当たらないのか?と考えると、その実を構成している細胞の一つ一つも一つの生命で、その細胞の命を奪っている事になる。
突き詰めて考えると、不殺生戒など不可能な事だと私は思う。
不殺生戒とは恐らく「認識」なのだろう。
何を生命と認識しているか?と言う認識の違いではないのだろうか?
この「認識の違い」に気付くと、もう一つの認識の違いが見えてくる。
動物は他の生命を食べなければ生きて行けない。
食べると言う事は、他の命を奪う事でもあるのだが、食べた物は自分の血肉となる。
食べた物が自分の血肉になると言う事は、共に生きると言う事でもあるのだ。
今まで食してきた命と共に生きていると考えれば、自分の命は自分だけの命ではないと思える。
だからこそ、食べられる事に感謝し、命と言う物を大切に思うし、精一杯生きようと思う。
屋上で色々な品種のイチゴを栽培しているが、各品種を増やす時に自分の心の中で色々な葛藤がる。
収穫は少なかったが美味しかった品種、味はそこそこで沢山取れた品種、そうした品種を増やす時に美味しかった品種をもっと沢山食べたいと思って増やそうとするのだが、沢山採れて楽しませてくれた品種に対して申し訳なさを感じて「お前も同じだけ増やしてやるからな」と言いながら、沢山取れた品種も増やしてしまう。
イチゴの実を摘む時に、手でむしると「痛いんじゃないか?」と思ってしまう。
自分で生産すると、そうした気持ちが湧いて来る。
その場で食べる時には、その株に「美味しかったよ」と言ってみたり、「有り難う」と言ってみたり、そうした気持ちが植物を生命と認識させるのかもしれない。
スーパーで買って来たものしか食べていなければ、そうした感覚は湧いてこないだろう。