大津のイジメによる自殺をはじめ、色々とイジメのニュースが報道されている。
私は、イジメを無くそうとすれば陰湿化するだけだと思う。
これは私の持論なのだが、そもそも子供を人間と思う所から間違っていると思う。
子供から大人になると言う事は、獣から人になると考えた方が良い。
脳から見ても、子供と大人は違うのだ。
子供の脳は扁桃体主体の脳、大人の脳は前頭葉主体の脳。
扁桃体主体の脳は犬や猫などの獣と変わらない。
最近、飼い犬が飼い主を咬む事故が急増していると聞く。
その一番の原因が、ペットブームで子犬が親や兄弟から引き離されるのが早すぎるのが原因と言われている。
つまり兄弟達と「じゃれ合う期間」が短すぎる為「加減」を学ばずにペットショップに並ぶのが原因と言われている。
それは猫でも同じ。
この10年で3匹の子猫を育てた。
子猫の時、手で遊んでやると、私の手を前足で抱え込み、噛み付きながら猫キックを連発する。
その為、私の手は傷だらけで血だらけになる。
最初は加減も無しに思いっきり咬んだり、爪を出した猫キックをお見舞いしてくれるのだが、徐々に咬む力は弱まり、猫キックも爪を出さなくなる。
つまり「加減」を覚えるのだ。
最初の猫は、生後1ヶ月程度の迷い込んできた三毛猫だった。
この三毛猫が加減を覚えるまで半年程度、手であまり遊ばなくなるまで1年半掛かった。
生後3年の時には気が向くと手で遊んだが、ほとんど遊ばなくなった。
次は黒猫。
黒猫は生後1週間程度の保護された子猫を貰って来た。
黒猫は、寝る時も外出する時も布団の中や服の中で、私の体温で暖めて育てた猫だ。
この黒猫は生後1ヶ月未満の時から、手で遊んでいたのだが、生後半年の頃には一切手で遊ばなくなり現在に至る。
この黒猫を肩に乗せると、私が服を着ていると、服の厚みだけ爪を出し、私の皮膚に触れると爪を引っ込め、素肌の時に肩に乗せると全く爪を出さない。
この黒猫が3ヶ月の時に、生後2ヶ月の灰猫を愛護センターから引き取ってきた。
この灰猫を家族は一切無視すると打ち合わせして飼った。
理由は、先住猫(黒猫)に不快な思いをさせない為。
元々愛護センターに保護されていた猫なので、可愛がられると言う経験は無いので、無視する事がこの猫に取っての日常なのだ。
灰猫は家につれて帰り、家に放つとベッドの下に隠れて出てこなかった。
それでも家族は無視して、先住の黒猫の動向だけを見ていた。
黒猫は灰猫を見た瞬間は、驚いた様子で逃げていったが、直ぐに灰猫の元に寄り添い始めた。
そして、灰猫に「見せる」事で灰猫に学ばせて行った。
まず、人と自分との関係。
灰猫に寄り添いつつも、私や家族の元に来て怖くない事を教え、それを見た灰猫は徐々に警戒心を解いて行った。
ご飯も、黒猫が食べる所を見せ、灰猫が興味を示したら、黒猫が灰猫に譲る。
そして、灰猫が食べ終わってから自分が食べ、トイレも全て黒猫が灰猫に見せるように教えて行った。
そう、灰猫は「見る」事によって学んだ猫である。
人間との関係も、黒猫と私や家族との関係を見る事で学んで行った。
灰猫は黒猫が私の手で遊ぶのを見て、私の手で遊ぶようになったのだが、僅かの期間だけで、後は黒猫と遊んでいた。
なので、猫同士のじゃれあいの時間は多いが、人とのじゃれあいの期間は少ない。
その灰猫と黒猫の違いなのだが、人間の肩に乗せると、灰猫は常に微妙に爪を出す。
服を着ていようが、素肌だろうが常に爪を出している。
子猫のじゃれ合いは、喧嘩にも発展する。
それは犬も同じである。
子猫や子犬の時は、じゃれ合いから本気の喧嘩に度々発展するが、大人になってから本気の喧嘩に発展する事は極めて少なくなる。
恐らく人間も同じなのだと思う。
幼稚園や症f学生の頃のイジメや喧嘩は、犬や猫の「じゃれ合い」の類である。
それを「暴力」や「イジメ」としてやらせないから「加減」を覚えずに成長してしまう。
母犬や母猫が、子供達がじゃれ合い、喧嘩に発展しても見守っているだけだ。
それが出来なくなってしまっているのが人間だ。
大人は暴力と言うけれど、それは幼い子供に取っては必要な事だと思う。
痛みを知らなければ人の痛みは分からない。
殴られる痛みは心の成長に必要な経験なのだ。
じゃれ合って、エキサイトして、喧嘩になって、関係が悪くなって、仲直りする。
子供には、そんな経験が沢山必要なのだ。
そしてそれは幼ければ幼い方が、力も弱く、しがらみや感情が単純なので学び易い。
成長するにつれ、力もしがらみも感情も複雑になって行き、学び難くなって行く。
中学生になってからではもう遅い。
小学生の頃までは、勉学よりもこうした経験を積む事の方が大切な勉強なのだ。
そして、こうした経験を積んで来なかった人が親や教師になれば、人の痛みなど理解できるはずも無い。
そうした経験を積んで来なくても、大人になれば理屈として「理解」しているだろう。
しかしそれは、肩に乗せた時に爪を出している灰猫と、爪の先にまで気を使う黒猫の違いと同じなのだ。
見ただけでは爪の先をどうしているか分からない。
同じ様に肩に乗せても、人と戯れずに育った灰猫は黒猫の真似をしているだけ、しかし経験で覚えた黒猫は爪の先まで気を使う。
いや、気を使うという表現は適切ではない。
それを「当たり前」にやっているだけで、気を使っている訳ではない。
それを、日常として染み付いていない人が真似しようとする。
そして、自然に出来ないから「気を使う」訳だ。
感情も、見て聞くだけでは2次元(平面)でしかない。
それがゲーム感覚であり、感情が伴わない感覚である。
そこに、触覚と言う体覚が加わって3次元(立体)の感覚となり、感情が生まれる。
そして2次元感覚の人は、3次元の感覚を知るまで自分が2次元感覚であると気付く事すら出来ない。
大人の感覚で言って聞かせて子供に教えようとする事は、2次元の感覚を植えつけるだけでしかない。
感情が伴っていないから、自殺の練習などと言う事を平気でさせられる訳だ。
大人の価値観を子供にまで当てはめるから世の中がおかしくなる。
ニュースでは学校がどうの、教師がどうの、親がどうのと言っているが、それすら大局を見ていないような気がする。
戦後から現在に至るまで、親が教師を訴える等の事例は数え切れないほどあり、そこには法曹界も深く関わっている。
その法曹界から学校教育に至るまで、大人の価値感で作られている。
以前、青春リアルで文科省の人が大阪のある高校の人の話を聞いて驚いていた。
私としては、その驚く文科省の人の方が驚きだった。
クラスメイトの中には気に入らない人もいる、そんな人とは距離を置いて接している。
そんな話を聞き必ずしも「仲良くする必要は無い」と言う事に、驚く文科省の役人さん。
そんなの当たり前だろうに。
そうした国を引っ張る人達の中に、幼い頃からこうした経験を積み重ね、3次元の感覚として持っている人がどれほどいるのだろう?
幼い頃から受験勉強して来た人は、そうした経験を犠牲にして来なかっただろうか?
何だか、この社会自体が二次元感覚の人の「ごもっともな理屈(綺麗事)」に縛られているような気がする。
「人に迷惑を掛けないように」
耳障りの言い言葉だ。
しかし、人間の究極の4つの喜びとは「人に愛される事」「人に必要とされる事」「人の役に立つ事」「人に褒められる事」である。
しかし「人に迷惑を掛けない社会」とは、人としての喜びが失わた世界でもあるのだ。
誰にも迷惑を掛け無いという事は、誰の助けも必要としないと言う事でもある。
それは誰も必要としない、誰にも感謝しない、誰も必要としないと言う事でもあるのだ。
子供は親を必要とする、必要とされているから愛せるのである。
「迷惑を掛けないように」と考え、迷惑をかけないように気を使っていれば、迷惑が掛かれば腹が立つ。
そんな人が親や教師になれば、子供は迷惑の元凶になり、それは多大なストレスとなるだろう。
私は気軽に迷惑を掛け合える社会こそ、理想的な社会だと思う。
「迷惑を掛ける」とは、「喜びを与える」と言う事でもあり、気軽に迷惑を掛け合える社会とは「喜びを与え合える」社会でもある。
恐らく気軽に迷惑を掛け合える社会になれば、イジメも自殺も劇的に減るだろう。
しかし、無くなりはしないとも思う。
皆が同じ気持ちになれば可能だろうが、皆が同じ考え、同じ価値感になる事はありえない。
だから、減りはしても無くなりはしない。
無くなると言う事は「学べない」と言う事でもあり、無くなってはいけない事でもあるのだ。
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