妄想を伴う心の病を抱える人を見て来て色々と思う事がある。
まずは、彼等に欠けている物は、社会性やストレス耐性。
何度も書くようだが、社会性の基礎は人を「信じる事」である。
人を信じられなくなった時、人を疑い、怪しい物を探そうとする。
その怪しい物とは「知らない事」である。
その「知らない事」に不安を感じ、恐れ、それがストレスとなって行く。
つまり、「知らない」と言う事がストレスとなる訳だ。
問題は「知らない」と言う事の意味合いだ。
知識として知っているのと、経験として知っているのでは、同じ「知っている」でも、意味が違う。
経験の伴わない知識は無いに等しい。
例えば友人関係。
友達が出来て、仲良くなって、喧嘩して、仲が悪くなって、反省して、そして仲直りできて、喧嘩する前より相手の事が分かるようになって。
そうした経験を積んだ人と、それを理屈だけで知っている人では、ストレスが違う。
経験を積んでいる人は「何時か分かってくれる」とか「何時か仲直りできる」事を経験しているので、仲直りできる事を信じられる。
しかし、理屈だけで経験を持たない人は、仲直りできる事を信じられず、不安を感じる。
それが経験による受けるストレスの違いとなり、それがストレス耐性の違いとなる。
今友達の例も、幼年期や少年期であれば、しがらみも少なく、仲直りしやすいが、年齢を重ねる毎に、しがらみやら自尊心と言った物が邪魔をして困難になってくる。
友達の例は、一つの事例に過ぎない。
これも、氷山と同じ様に、「仲直りできる」と言う事は、水面上に見えている氷山でしかなく、それが出来るまでには水面下の氷山のような様々な経験の積み重ねがいる。
例は、友人関係だが、それを支える物の経験は「危険」であり、危険と自信の関係である。
例えば木登り。
木登りをしようとして、落ちて怪我をして、何度も繰り返して、木に登れるようになり、木に登れた事が自信になる。
一時に登れたら、また木から落ちても、一度登れた自信があるので、登れないとは思わなくなる。
しかし、危ないからと、木登りをさせてもらえなかった子はどうなるだろう?
木に登った事もないのに、他の子供が登るのを見て、あれくらいなら自分も出来ると思ったりしないだろうか?
一度木から落ちて、危ないからと木登りを禁止された子供は、自信を持つことが出来るだろうか?
木登りを成功させていない子供が、木登りで自信を持つには空想の世界しかない。
この木登りも一つの例でしかない。
小さな危険に挑戦して、何度も失敗を重ねながら、やがて成功させる事の積み重ねが、自信と言う物になり、そうした経験の積み重ねが、水面下の氷山となる。
この危険と自信の関係も、体の小さい頃は危険も小さく、大人には何危険も無い物でも、子供には結構冒険だったりするので、危険と自信の経験を積み重ねやすいのだが、成長と共にその機会は失われて行く。
幼稚園程度の子供に「初めてのお使い」をさせれば冒険になるが、中学生になって「初めてのお使い」をさせても、冒険にならない。
危険に挑戦して、失敗と成功を経験すると言う事は「先を知る」と言う事でもある。
失敗しても、何とかなる経験、成功した時の誇らしげな経験、それらを経験していれば、失敗は然程ストレスにはならないが、それらの経験が無ければ「もし」という事を考えるだけでストレスになる。
それも「知らない」と言う事である。
私が見て来た、妄想を伴う心の病の人で、子供の頃の話を聞けた人には、こうした水面下の氷山の経験の蓄積が少ないように思われる。
女性の鬱病は男性の2倍と言うのも、女の子はあまり危ない遊びをしないからとも思える。
また、こうした例え話をしても、他の事に当てはめて考える事が苦手な人も多い。
例えるなら、縦割り行政的思考形態とでも言うか、知識同士の連携が困難な人が多かった。
縦割り行政と形容したのは、一定の知識群の中での知識の連携は出来ても、異なる知識群との連携は出来ないとでも言うか・・・
その表れの一つとして、自分の症状が自律神経失調症の症状と合致していても、自分が自律神経失調症とは思わず、電波攻撃ばかりに目が向いてしまったりするのもその一つで、知識同士が村社会化しているようにも思われる。
3.11の震災で、東北地方と関東での人々の行動の違いに、その村社会化や縦割り行政の弊害の原理が存在すると思う。
それは長くなるので次回。