先集録画しておいた、「オトナへのトビラTV DAY3 “こころ”編」と青春リアルの再放送「結婚して出産する女性は、“仕事への理想”を捨てなくては…」 を見た。
やはり、「病んでいる」子供は家庭環境が大きく影響している事を再認識すると同時に、青春リアルの再放送は、こう言う親が、病んだ子供を作ると思いながら見ていた。
なんだかな~!
あの青春リアルの親は、自分たちの事ばかりで、子供を見ていない。
子供を見ていたら、あんな論争は起きないだろう。
少なくとも、私は子供を見て来たつもりだ。
実は、私の娘は家内ではなく、私が育て上げたと言っても過言ではない。
フィリピン人の家内は、働こうと思ってもろくな働き口が無く、スナックのホステスしか働き口が無かった。
おまけに、いや今でこそ分かる事で、今でこそ言える事なのだが、家内は境界性人格障害を持っていたと思われる。
子供の時に父親を無くし、17歳で家族の為に日本に出稼ぎ・・・要因はしっかり持っている。
なので、新婚当初はハッキリ言って参った。
リストカットはしようとするし、金使いは荒いし、意味不明の行動はするし、合法ドラッグ(麻薬成分の入った風邪薬の大量摂取やトランクパルと呼ばれる精神病役の大量摂取)に手を出そうとするし、一週間で離婚を考えたほどだ。
家内が変わり始めたのは、妊娠と同時に肺結核が判明してから。
出産してからは、境界性の症状は消えた。
出産してから色々と検診や予防接種があるのだが、外国人の家内には分からないので、全て私が会社を休んで連れて行った。
自分の子供の為なので、会社には「家内が外人なので手続きやら分からないので」と予め話し、検診等の案内が来ると、休みを取って連れて行ったものだ。
そして、2年(だったかな?)が過ぎた頃、家内の姉が日本で働きたいとやって来た。
当初は、姉が働けばフィリピンへの送金をしなくていいので、子育てが出来るという話だったので、承諾した。
しかし、日本へ来て見ると、働き口が無い。
働き口がない理由は、脇にある火傷。
その為に、手が上げられなかった。
すると家内は、姉の代わりに働くと言い出した。
当然、スナックのホステス。
なので、夕方からお仕事に出かけ、朝は寝ている。
その為、娘の食事は全て私が作り、洗濯も私がやったし、寝かしつけるのも、全て私がやった。
娘が、幼稚園を卒業する頃になると、会社から「出張」の話が多くなってきた。
それまでは、子育てを理由に、出張を避けていたのだが、もう大きくなったのだからと言う事で、出張に行かされ始めた。
あの当時の仕事で、まともに出張に行けば、半年は出張になる。
半年も出張したら、子供と遊べなくなるので、転職した。
あの当時は、子供中心と言うか、子供を育てる為に働いていると言う感覚だったので、子供を育てられない出張ばかりの仕事から、子供と一緒にいられる仕事に変わるのは当然と思っていた。
娘が小学校へ行くと、登下校の同行やら、保護者会やら、町内パトロールやら、やる事になるのだが、それらも全てこなし、授業参観や運動会もなるべく出るようにした。
朝は寝ている家内と、どっちが行くかで言い争った事もあるが、お前が行けと押し付けあうのではなく、俺が行く、いや私がと、奪い合いの言い争いだった。
で、結局二人で行ったりした。
中学に入ると、お弁当も毎日私が作り、仕事が終わると急いで帰って夕食・・・
だから、子供が生まれてからは、飲みに行く事はなくなった。
それでも、飲みに行くより、子供と遊んでいた方が楽しかったし、お弁当を作るのも楽しかった。
子供の為に仕事を休むのは、私の中では当たり前だったし、会社で文句を言われる事も無かった。
と言うか、文句を言われる様な仕事をしていなければ、気にする事も無い。
子育てと、仕事を両立させていた時期の収入は、平均月収80万~100万を稼いでいた。
子供との時間を作りたいから、集中した仕事と効率的な仕事をする事に専念し、時々遅くなるだけで19時には家にいた。
その集中した仕事と効率的な仕事に専念する事で、自分流の技とか技術を言った物を編み出し、それが自分の財産にもなった。
その原動力となったのは、子供との時間を作りたいという気持ちだった。
当時の仕事はサイディング職人。
従来の方法では、材料を1日平均3~4束貼れればかなり効率が良いと言われていたのを、1日7束平均で狂いも無く貼り上げる技術だった。
理屈は簡単、従来の工法は、寸法を取って加工し、それを貼る。
その寸法を取って加工して貼る移動時間を短縮する。
つまり、まとめて寸法を取ってしまえば、往復の時間は短縮される。
しかし課題もある。
障害物があるとき、障害物の手前までしか、まとめて寸法を取れない。
その問題を、ゲージを作り、何処に頭が来るかを全てマーキングする事で解決し、予め頭を出しておけば狂いも生じなくなり、後から手直しする必要も無くなる。
切り方にも工夫した。
通常、表から材料に鉛筆等で線を引いて形通りに切る。
しかし、表から切ると切粉が表面に付着し、その粉を払わなくてはならず、鉛筆の線も消さなくてはならない。
それを、裏から切る。
すると、表面に粉は付かず、鉛筆の線を消す必要も無くなる。
さらに、ノコによる傷も付かず、ノコの刃は表面から内側に回るため、バリも出ない。
バリがなければ、防水の為に打つシリコンも打ちやすく、量も少なくて済む。
なので、時間の短縮だけではなく、出来上がりの綺麗さが表から切るのとではまるで違う仕上がりになる。
これは結構難しい技術だ。
寸法を写す時に、左右上下を反対に写す必要が有り、切る時もノコの刃の丸みや、材料の厚みを計算して刃を入れないと、正確には切れない。
なので、この切り方をする人は皆無だった。
この技術をマスターする事で、更に作業効率を上げた。
その他にも、作業場の配置を工夫したり、足場の上に材料を上げる方法を工夫したりして時間を短縮して行った。
そして、通常平均15日掛かる仕事を10日で仕上げていた。
その日数の差5日を子供に使うか仕事に使うかは自由。
仕事に使えばそれだけ収入が増えるだけだし、子供に3日使っても2日余る計算になる。
おっと、話が技術にそれてしまった。
その職人の朝は早い。
当時(小学2年以降)は、5時には起きて娘の弁当と朝食を作って6時には家を出ていた。
そして、家内は寝ている。
娘には、自分で起きて自分で学校へ行く様に仕込んでおいた。
まあ、これには一つきっかけがあった。
学校へ行ったり、勉強する事を「親の為」と思っている節があったので「親の為にする勉強等するな」ということから始まり「勉強は自分の為にする物」、そして「学校も自分の為に行く物」、「自分の為に行くのに、何故起こされないと行けないのか」と言う話しから「自分で起きて学校へ行け」になった。
これは必要に迫られて始めた事なのだが、結果的に娘の為にはとても良かった。
「自分で起きて学校に行く」という事をさせると、朝起きる為に、夜更かしする事無く、時間になったら自分で布団に入るようになった。
それは「自律」である。
今の人達の子育てを見ていると、色々と疑問が出て来る。
子供に向き合う事と、過保護を取り違えていたり、面倒と感じる事を「仕事」を理由に逃げているだけだったり、自律させずに依存させていたり、何か違うような気がする。
それら全て、親が「信じる」と言う、社会性の基礎を身に付けていないと言う事ではないかと思う?
過保護は、子供を信じていないから過保護になる。
過保護に育てれば親への依存が強くなり、自律が難くなる。
子供が自律しなければ、親への負担は増すばかり。
そして、子供の自立を促すのも、子供を信じる事から始まる。
会社を休むと、他の人に迷惑が掛かると言う理由すらも、社会性としての視点からすると、疑問がある。
迷惑を掛けるのは良くない事と教えられてはいるが、迷惑を掛け合えない社会は息が詰まる。
お互いが迷惑を掛けあい、お互いに許し合えば、お互いにとって利益になる。
迷惑を掛けあい許し合う事も「協力と分け合い」である。
そして、会社を休む事に不安を感じるのであれば、それは会社に対する依存症なのかもしれない。
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