私が今興味を持って調べているのは、貧困と鬱病の関係である。
それを調べている時に、こんなサイト が目に止まった。
そこのページはこんな文章で始まる。
「うつ病や、不安による精神障害は、長い間西洋の悩み、裕福な人の病であると見なされてきた。しかし、新たな研究により、うつ病は貧しい国々でも同じぐらいあることであり、その割合はある年において最大20%であることが分かった。」
そして、こう続く。
「この IHT の記事はインドのゴアという地域のメンタルヘルス事情を報告しているのですが、その中で、貧困がうつ病や不安による精神障害の原因になるという公衆衛生当局の話や、途上国ではうつ病が見逃されているという London School of Hygiene and Tropical Medicine(ロンドン大学衛生学熱帯医学大学院)の Vikram Patel 博士の話が引用されています。」
また、こんな論議 もある。
これをらの記事を元に、少し思考実験をしてみよう。
まず、貧困とは何だろう?
貧困国と呼ばれる国は、本当の意味で貧困なのだろうか?
例えば、石器時代に狩をして生活していた人は貧困なのだろうか?
いや、自分の事を貧困だと思っていたのだろうか?
恐らく、貧困という概念すらなかっただろう。
昔、ブッシュマンと言う映画が有った。
その映画に出ていたニカウさんは貧困という概念を持っていただろうか?
映画を見る限りでは、皆幸せそうな優しい顔をしていた。
貧困国と呼ばれる国の人と、原始的な生活を送っている人、どちらが「貧困」なのだろう?
その疑問その物が、恐らく答えだろう。
それは「比較」である。
比較する物がなければ、貧困と言う概念は生まれない。
他者と比較するから格差の概念が生まれる。
もし、貧困国と呼ばれる国の人が、比較すべき他者の情報を全く知らずに生活していたら、貧困という概念は生まれるだろうか?
恐らく、
豊作の時、不作の時の環境の違いだけの貧困に対する概念が生まれるだろう。
逆に、毎年同じだけ収穫できるのなら、そうした貧困の概念は生まれないだろう。
「あの頃は良かった」という感情がそれに当たる。
では、喜びと言う物を考えてみよう。
原始的な生活を送っている人に、喜びはないのだろうか?
原始的な生活を送っている人にも喜びや悲しみはある。
例えば、獲物が獲れた時、食べ物を食べる時には、食べられる喜びを感じるだろう。
しかし、、食べられないひもじさを経験していなければ、喜びとして感じないだろう。
そんな原始的な生活をしている人に、鬱病は発症するのだろうか?
ここで、もう一度「貧困」という物を考えてみよう。
原始的な生活を送る人と、貧困国と呼ばれる国に住んでいる人、どちらが貧困なのだろう?
生活レベルから見ると、家も持たず狩をしながら原始的な生活をしている方が貧困と言えるのではないだろうか?
しかし彼らは貧困ではない。
以前、あるテレビ番組である村の特集番組を見た。
その村に住んでいたのは、かつて原始的な生活を送っていた人達。
その原始的な生活を送っていた人を西洋人が発見し、人間らしい生活をさせる為に西洋文明を伝えた。
村人は、西洋人が来るまでは皆幸せだったと言う。
西洋人が、服やテレビなど村人に教える。
服やテレビはお金を払って買わなければならない。
そのお金を作るには働かなければならない。
働くには町に出なければならない。
そして家族が離れ離れになってしまう。
一人が待ちに出て文明品を持ち帰ると、連鎖的に文明を求める人が出て来る。
村で便利な電気製品を使うには電気がいる。
電気もただではない。
またお金がいる。
では、文明が貧困の原因なのだろうか?
いやそうではない。
違いは「比較」でしかない。
平等を求める心理が、貧困と言う概念を生む。
その平等とは、比較する物が無ければ生まれない。
貧困と感じるかどうかは、比較の概念次第で変わる。
つまり、比較の対象を変えてしまえば貧困の概念も変わる。
この「比較の概念」は経済でも同じ様な事がある。
例えば「円高」。
円高がむと輸出産業が痛手を被る。
それは何故だろう?
それは、ドルを基準にしているからである。
1ドルを円に換算してして支払うから相場に左右される。
円高とは円が強い事であり、円高が進んでドルに信用がなくなり、円建てで取引すればドル相場に影響される事はなくなる。
つまり、比較する基準が変われば、デメリットがメリットに変わる。
それは、世界通貨のドルで支払うと言う概念を守っているからに過ぎず、その概念を守らなければ円高や円安のデメリットは無くなる。
つまり、円高で業績が悪化している会社が、海外の取引先に円建てでの取引を認めさせれば、円高による業績の悪化は消える。
この所の円高について「円が強い訳ではなく、ドルが弱い」と言うエコノミストをTVで見かける。
これが概念に縛られた考え方だと思う。
強いとか弱いとかは相対的な力関係でしかない。
ドルより円が強い事も、円よりドルが弱い事も同じ事でしかない。
どんなに円が強くても、その円よりドルの方が強ければ円は弱い事になり、どんなに円が弱くてもその円よりドルの方が弱ければ円の方が強いことになる。
海外の投資家は、その力関係を見てどちらが強いかを見て買う。
評価とは当事者ではなく第三者が決める物である。
心の問題も同じである。
自分の中のルールを取り除けば問題は消える。
そのルールとは、自分が勝手に思い込んでいたり、親などに埋め込まれている場合が多い。
そして、誰かと比較して自分の幸福度を測るのではなく、今の生活の中に幸せを見出していれば良い。
例えば、当たり前のように食べている食事。
その食事が当たり前のように食べられる事がどれほど幸せな事なのか?
雨露の凌げる所に寝泊りが出来る事がどれほど恵まれているのか?
文字が読める事が、どれほど恵まれているのか?
そうした事に気付けば、自分の周りは幸せに溢れている事に気付くだろう。
そして個人の評価も第三者が決める。
自分で「私はこうだ」と思い込む事は、自分の中の概念でしかなく、それは正当な評価ではない。
その概念に縛られて、自己嫌悪に陥るのと、円が強い訳ではなくドルが弱いだけと言っているエコノミストはなんら変わらない。
大切な事は、「円が強い訳ではなくドルが弱いだけ」と言う概念を植えつけてそれを信じ続けるよりも、「円が強いのもドルが弱いのも同じ事」と気付く事である
一つ例題を出そう。
将棋で王手をかけられて逃げ場がなくなった時、究極の逃れ方は何だろう。
その答えに、将棋盤を継ぎ足して逃げると答える人はまずいないだろう。
それはルール違反?
しかし、現実世界でこれと同じ様な事をした会社がある。
それは、ライブドアによるフジテレビの買収劇で行なわれている。
第三者割り当ての新株予約権の発行。
市場の株の割合では優勢に進めるライブドアの攻勢を、新株予約権の行使で相手の持ち株比率を下げてしまうと言う将棋盤を継ぎ足す様な方法でフジテレビは見事にかわしている。
これがデジタルとアナログの違いでもある。
デジタルとは、決められた枠内での処理にはアナログより遥かに優れているが、枠を拡大してしまうと言う発想はデジタルには出来ない。
それがデジタルの限界でもある。
しかし、デジタルとアナログが補い合えば限界は無くなる。
世の中にはデジタルもアナログも必要なのである。
このデジタルとアナログの違いを人と言うか、教育に当てはめてみる。
今の教育は決まった枠にはめようとする教育に思える。
それはデジタル人間を作っていると言う事だ。
デジタルは決まった枠の中の処理には長けているが、枠に縛られているから息苦しい。
枠に捕らわれなければ息苦しさは無くなる。
1枚の将棋盤で将棋をすると言う概念に捕らわれて、それを頑なに守っていれば、いずれ王手がかかり将棋は終わってしまう。
しかし、将棋盤を継ぎ足して行けば無限のフィールドが現れ将棋は簡単には終わらない。
集団ストーカー―盗聴発見業者が見た真実 (晋遊舎ブラック新書 1)/古牧 和都