あのトラ猫が猫おばさんによって保護された。

今後、里親を探すとの事。

あの猫にとっては良かったのか?



しかし、複雑な心境だ。


私は、あの猫から人間に対する警戒心を奪ってしまった。

体に触れると猫パンチを繰り出していたトラ猫だったが、シャッターの中まで入ってくるようになり、私と黒猫の関係を見せるようにした。


これは、灰猫が我が家に来た時と同じ方法。

その結果、あのトラ猫は私に体をスリスリするようになり、それに便乗してトラ猫の体に触れて「人間は怖くない」事を教えた。


最初は私にしか触れる事を許さなかった。

猫おじさんは、私にスリスリするトラ猫を見て「またたびでも塗ってるの?」と聞くほどだった。


私にスリスリしている時に、猫おじさんや猫おばさん達にも触らせて、トラ猫の警戒心を解いて行き、人に慣れさせた。


昨日の晩、トラ猫は現れず、猫おじさんがやって来て、こう告げた。

「あの猫は、猫おばさんが保護して里親を探すそうです」



そう言えば、あの猫おばさん「人になれてるのなら里親を探せるけど、これだけ警戒してたら無理ね」と言っていた。


猫にとっては良かったのかもしれない。


しかし、とても複雑な心境だ。


今の我が家の猫達のように、家の外の世界を最初から知らない猫なら良いが、広い世界を知っている猫だ。

人に飼われ安全だが自由を奪われて生るのが幸せなのか、死と隣り合わせでも自由に生きるのが幸せなのか?


恐らくどちらも正しく、どちらも間違いで、正解は無いのだろう。


しかし、私が猫なら死と隣り合わせでも自由が良い。



猫おばさんが、猫を保護する理由は「交通量の多い場所で、車に轢かれて死んでしまうのが心配」。

それは、猫の身を案じ、猫の為を思っての事だろう。


しかし、それは自分の心の不安を解消しているだけで、それは自己満足でもある。


同じ様な事は、親子関係でもある。

「子供の事を思って子供の為に・・・」

しかしそれは、親の自己満足ではないのだろうか?


私の子供の頃の記憶は、何かと心配して過干渉されると親から信用されていない様に感じ、助言だけを貰って自由にさせて貰うと、信用されているようで嬉しかった。


大学に入った頃、親父と喧嘩して家を出て一人暮らしを始めた。

親からの援助は一切受けず、生活費も学費も自分で稼ぐ生活を始めた。


働かなければ飯は食えないし、家賃や光熱費も払えない、そして学費・・・

結構大変な生活だったが、毎日が楽しかった。

同時に、親のありがたさも実感した。


あの猫に対する私の感情は、こうした事が感情の背景にあるのだと思う。






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