今日も猫が日向ぼっこに屋上へ誘う。
いつもの様に、コロンコロンしてからスリスリしてくる。
そんな時、いつでも毛がうろこの様に割れている。
撫でたりしても割れる。
何故だろうといつも不思議に思っていたのだが、今日なんとなく分かってきた。
あれは人間の鳥肌と同じなのでは?
猫と日向ぼっこをしていると、陽の心地よさで肌がゾワゾワしてくる。
鳥肌が出る直前の感覚だ。
猫の毛割れもこれと同じなのではないだろうか?と思い始めたら、色々な事が頭に浮かび始めた。
人間の最大の感覚器官は肌。
その感覚を使って世界を認識している。
手が人間のように起用に動かせない猫は、全身を使って世界を知ろうとしているのではないのか?
そう考えて猫の気持ちをシュミレートすると、四足歩行しているのに手で確認するのは面倒で、人間も両手がふさがっている時には、頭で押さえたり、口で咥えたりする。
飼っている猫が、足元を通り過ぎる時に、軽く触れながら通り過ぎていくのは猫の愛情表現か?
日向ぼっこをしている時に、体を密着させてくつろいでいるのは守られていると言う安心感?
それは人間の赤ちゃんが最初に抱く親への信頼と同じで、その安心感が親への愛情へと変わる。
今飼っている二匹の猫の一方は抱かれる事に何の抵抗もしないが、一方は抱かれるのが嫌い。
抱かれるのが好きな猫は、肌身離さず服の中で育てた猫、抱かれるのが嫌いな猫は愛護センターに保護された猫。
抱かれる事に抵抗の無い猫は、抱くと全身から力が抜けてグニャグニャの密着状態になり、その時にとても愛しく感じられる。
抱かれるのが嫌いな猫は、私が椅子に座っていると背もたれと背中の間に入り込んで密着状態になる。
その時にも同じ様にとても愛しく思える。
そして猫同士も全身を密着させて寝ている。
人間が触れる事で相手を愛しく思える様に、猫も触れる事で愛情を感じているのかもしれない。
ちなみに、犬を抱っこしても愛しさは感じるのだが、犬は力を感じる為、脱力して抱かれる猫ほどの強い愛しさには至らない。
そのせいか、本来犬派の私が、犬を亡くした時の悲しみより、猫を亡くした時の悲しみの方が数倍勝っていた。
猫の本に書いてある「猫が体をこすり付けるのは匂いを付ける為」と言うのは、間違いじゃないのだろうか?と思えて来た。
自分の匂いを付けてテリトリーを主張するのなら、以前飼っていた猫が体をこすり付けていた所に何らかの反応示しても良いはずなのに、何の反応も示さない。
先日こんな事があった。
前の猫がシッコをかけたり、体中をこすり付けていた脚立があったのだが、今の猫は何の興味も示さなかった。
その脚立を持って仕事に行ったのだが、脚立を立てる場所に犬小屋があり、犬小屋をどかして脚立を建てた。
その脚立を持ち帰った時、猫は思いっきり反応していた。
脚立の脚の匂いを嗅ぎ、マタタビを与えた時のようなコロンコロンを始め、奥歯でシャクシャクと噛んでいた。
この反応の違いをどの様に読み解くべきだろう?
前の猫は犬と一緒に飼っていた。
犬は猫のトイレの匂いに反応し、猫のトイレの近くでマーキングをしていたが、猫は犬のマーキングの匂いを少し嗅ぐだけで普段と変わりない行動しか取らなかった。
一つ考えられるのは、前の猫の時は何も動かさずいつもと同じ状況。
脚立は一旦家から持ち出し、以前あった場所とは別の場所に置いた。
人間の赤ちゃんが、ハイハイの時の覚えた危険をつかまり歩きが出来るようになると同じ危険と認識出来ずに、再学習が必要になるのと同じ様に、全身を使って再認識していたのかも知れない。
集団ストーカー―盗聴発見業者が見た真実 (晋遊舎ブラック新書 1)/古牧 和都