伝えると言う事を真剣に考え始めたのは、今から22年ほど前の新婚時代の事。

文化も習慣も言葉も違う外国人と結婚すると嫌でも考えさせられる。


日本人同士のような「そんな事言わなくても分かっているだろう」と言う物が何一つ無い。


お互いに一から説明しないと理解出来ない関係。


言葉もあてにならない。


こんな事があった。

私は中学の英語の授業で、ピクチャーは絵画(絵)、フォトは写真と習っていて、それが正しいと思い込んでいた。

結婚して、家内が結婚式のピクチャーと言うので、私の頭には「結婚式の絵」がイメージされた。

しかし話が噛み合わない。


よくよく話を聞いてみると、家内は写真の事を「ピクチャー」と言っていた。

単語その物の意味が違っていたのだ。

そこで初めて写真の事をピクチャーと言う事を知った。


これも今の世代にはおかしく聞こえるかもしれないが、昭和40年代の英語教育はそんな物。

発音も文法も外人に見せると笑われる。

家内に中学校の英語の教科書を見せたら、笑い転げていた。




仕事から帰って風呂に入ろうとすると「すぐに入るのはダメでしょ」と言われる。

何故ダメなのかを聞く。

すると、汗が気体になって目に入るから目が悪くなると言う。

流石、暑い国ならではの発想だ。


そもそも、向こうの国に風呂に入ると言う習慣も無いし、日本に着たばかりの頃は「お湯のシャワー」と言う感覚も無かった。

日本人の感覚では、水は冷たい物だが、暑い国では水は「涼」であると同時に気温で湯に近い。

伝え合って理解すれば納得するが、伝え合わなければ「変な奴」と奇異な目で見てしまう。


蛇一つでも、向こうはカトリックで悪魔の化身。

日本では白蛇は神の使い。


全く認識が異なる。


宗教もカトリックは一神教、日本の神社は多神教、人間が祭られて神として崇められるなど家内には信じられない世界。


共通認識が無い関係では、「伝える」と言う事が毎日必要になる。

しかし、最初はどうしたら伝わるか?を一生懸命考えて伝えようとしていたが、それを繰り返していると、ある事に気が付く。


それは、言葉以前に相手を理解しようとしたり、相手に伝えようとする気持ちが大切と言う事。



家内との生活で色々と気付かされた。


家内にかかってくる国際電話にでると、いきなり外国語。

何を言っているのか分からないと頭は混乱し、電話から逃げたくなる。

そこには、理解しようとしたり伝えようとする気持ちが働いていない。


それは相手も同じ。


通じないと思えば、コールバックと言って終わる。


その相手が、日本に来て何度も話をして理解しあえると、その人から電話がかかって来ても、お互いに片言の単語を並べて、分からない所はお互いに「分からない」と言ってハハハと笑う。

なぜかそれだけでも気持ちが通じる。

分からない事を、分からないと言う、そんな当たり前の事も出来ていなかった事に気付かされる。


顔も知らない人から、知らない言葉で電話されても相手を理解しようという意識は生まれなかったが、顔を知り一度でも話をすれば理解しようという意識が生まれる。


最初から伝わらないと決めてかかっていたら、分からないと言うことさえ話す事はなく、分からないと言うだけでも、お互いが分からないと言う共通認識が持てて、相手も自分と同じ気持ちである事が分かる。







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