2chをはじめとする集スト系の掲示板などを見ていて思う事がある。


あえて言うならば「精神科の待合室」


集まっているのは、パーソナル障害や鬱病や統合失調などの様々な心の病を持つ人達。

その症状によって、自己の優位性を示して自己愛を満たそうとする人もいれば、被害妄想を延々と話す人もいる。


その中で行われるやり取りは、心に病を持つ人の心の状態がそのまま形になっている。



心に病を持つ人にとって、ネットは危険と言う一番の理由がそこにある。

妄想を強化す以前の問題だ。



それが「基準」とか「基点」などの軸と言うか、固定点となる物が何もない。

自分を表す名前もHNと言う変更可能で、どれだけでも作れる物を使い、HNさえ無い人もいれば、一人で複数のHNやIDを使う人、そんな何処の誰とも分からない人とやり取りとする。


HNとは「着ぐるみ」を着ている様な物で、着ぐるみを着て暴言を吐き、非難が着ぐるみに集中しても、着ぐるみを脱いでしまえば誰も自分とは気付かず、脱ぎ捨てた着ぐるみを一緒になって非難していたりもする。


やり取りする内容も、盗聴一つとっても、本物の盗聴器を買って実験する人は皆無。

参照として持ち出す物も、原理だけ。

その原理も都合の良い所だけ持ち出して、都合の悪いところは無視する。

代表的な物が、部屋に盗撮カメラと言う発想。


隣の家の室内にワイヤレスカメラを仕掛けても、現実は見ることは出来ない。

それはマンションでも同じ、どれほど隣接していても隣の家では見ることが出来ない。

電波到達距離が30mのカメラなら隣の部屋なら見れるだろうと思えても、見る事は出来ない。

それは自分で買って試してみなければ分からない事だし、試してもいない人にはどれだけ不可能と言っても「絶対とは言えないだろう」とか、家の外に設置するワイヤレス防犯カメラの映像が家の中で見れるのだから、と言うイメージもあり、どちらの意見も取り入れた折衷案が出て来る。


原理原則は多数決でもなければ折衷案など論外だ。

科学と妄想のコラボレーションは妄想でしかない。

しかし、何故それは不可能なのか?を説明する事はとても面倒な作業になる。


映像で使われる周波数は高周波か使われるのだが、なぜ高周波が使われるかと言う説明から、その周波数の特性に入り、図面を書いて説明して、さらに目の前で実物を使って実験して、初めて理解できる世界。


2chの論議にはそんな作業は一切無い。

そこに原理原則を理解している人が書き込みをしても、「特殊は方法を使えば」と言い出せば、それを否定するには更に多大な労力が必要になるので、相手をする気力すらなくなる。


結局、原理原則を知らない者だけの妄想の世界が展開されて行く。


そこは自分と言う固定座標、相手が誰かと言う固定座標、原理原則という固定座標が何一つ無い世界。

それは、自分が動いているのか相手が動いているのか、止まっているのか動いているのか、上下左右もさえも判断できない世界。


それは、心に病を持つ人の精神状態と同じ状態。


判断基準となる固定座標が無いから、固定座標を探そうとする。

固定座標の無い世界で固定座標を探そうとすればするほど固定座標は見えなくなる。



ネットの中でやり取りする人。

それは、何処の誰かも分からない、どんな人かも分からない、嘘を言っているのか、真実を語っているのかも分からない、そんな世界の人は、自分にとって存在していない人と同じ。

存在しないと同じ人に理解を求めても意味は無い。

集団ストーカーと言う物は、この原理と同じ。

自分にとって、存在しないと同じ他人の目を気にする事から始まる。



心に病を持つ人は、そうした混沌とした情報を遮断し、自分と言う固定座標を取り戻したり、作り上げなくてはならないのに、固定座標の無い世界に集まってしまう。

現実世界で固定座標を見失った人が、固定座標を探しにネットに入り、同じ様な固定座標を探す人と出会いながら固定座標を探している人達が集り、さしずめ精神科の待合室の状態になる。

そんな中での論議は、お互いに自分の症状を話し合っているに過ぎず、躁系の人と鬱系の人のバトルでしかない。



そうした固定座標を見失った人に付け込む物がある。

それが宗教。

神と言う固定座標を説き、信者を集めようとする。

それは、固定座標を持たない人には光明にもなる。

しかし、ある者は妄信し、ある者は妄信に疑問を持つ。

妄信に疑問を持った者はアンチ妄信が固定座標となり妄信を攻撃したりする。

しかし、アンチ妄信もアンチ妄信と言う妄信で妄信には変わりはない。



本来固定座標とは自分であるべき物。

他人と比較した自分ではなく、経験や努力や実績で作り上げた自分でなければ固定座標にはならない。

生まれてから死ぬまで一緒なのは自分だけ。

他人と言う座標は変化する物、変化する物で自分を測っているから自分の固定座標が分からなくなる。

他人の座標に合わせて自分の座標も変えていれば、自分の座標が動いているのか、他人の座標が動いているのか分からなくなる。

他人を気にすると言う事は、自分の座標を他人に近付ける事になり、他人の座標で起きた事象や他人に向けられた事象が、自分の座標で起きたり、自分に向けられているような錯覚を覚える。


つまり、自分と他人の境界が曖昧になってしまう。






集団ストーカー―盗聴発見業者が見た真実 (晋遊舎ブラック新書 1)/古牧 和都