準備トレーニング(イメージ)が出来る様になったら、自然の多い公園でトレーニングをする。
と言っても、運動をする訳では無い。
ただ、ベンチに座り目を閉じて自然の中の音を聞く。
肌を撫でる風を感じ、暑さ寒さを肌で感じる。
臭いも大切だ。
最初は目を閉じて、自然の中の多くの音に耳を傾け、肌で感じ、臭いを感じる事だけに集中する。
目を閉じて、ベンチに座り肌で感じ、耳を澄ます事で世界をイメージする。
例えば、目を閉じて肌で日の光を感じていれば、太陽を雲が隠せば太陽の温もりを感じられなくなり、雲で日が翳った事を感じる事が出来る。
風が肌を撫でれば風が吹いている事を感じ、木がざわめく音を聞く。
そうして、目を使わずに肌と音で世界を感じる。
この時も、感覚による心の変化を意識する。
冬ならば陽が当たれば心地よい、夏ならば日が翳れば心地よい、そんな単純な感情の積み重ねが心を作っている。
目を閉じるには意味がある。
赤ちゃんの頃はほとんど見えていないが、耳は聞えているし肌で感じている。
目が見える前に、聴覚と触覚は機能していて、視覚以前に聴覚と触覚の経験知が作られている。
目を閉じると言うのは、その段階を踏まえると言う意味でもある。
聴覚と触覚で世界を感じられるようになったら、次の段階に入る。
硬貨のトレーニングと同じ様な事をするのだが、硬貨は使わない。
目を閉じて、風で木のざわめきが聞えたら、聞こえた所を目で当てるなど、効果のトレーニングと同じ事を自然の中の音で行ない、聴覚で感じた空間認識を視覚で確認する。
そして、視覚で確認したらその木の所まで行って触ってみる。
特にざわめいてる葉を触り、質感を確かめる。
臭いを嗅げば更に理解は深まる。
砂遊びや土いじり、園芸や菜園でも良い、肌で感じ、臭いを感じ、音を聞き、空間を感じる。
そして何より、そこから生まれる感情を知る。
音を聞き、目で見て、触る事で、「この質感の物が風で揺らされ擦れる事でこの音が聞える」と言う事を、理屈ではなく本当の意味で理解する事になる。
これを「当たり前」の事と馬鹿にしてたら意味が無い。
一番大切な事は「当たり前の事など無い」事を、本当の意味で知る事。
その延長線に「幸福感」がある。
人は幸せを求める。
幸せは求めていては見つからない。
幸せとは、「当たり前の事が当たり前でない事を知る事」。
その経験知の積み重ねが無ければ幸福感は生まれず、満たされない気持ちに支配されてしまう。
その満たされない気持ちが病気の原因となる。
コンビニやスーパーに行けば、お金を出せば食べ物は買える。
当たり前に思っているかもしれないが、その食べ物を作っている人達がいるから食べられる。
干ばつや戦争で農作物を作れない国の人は、食べたくても食べられない。
不自由無く食べられる国に生まれた事だけでも幸福なのだが、それを当たり前だと思っていればその幸福に気付く事も無い。
そうした事を理屈だけで理解していては、理屈だけの幸福感しか生まれない。
理屈だけの幸福感は感情としての幸福感では無く、感情の幸福感を感じなければ心は満たされない。
このトレーニングは、感覚を処理する神経の強化と、そこから生まれる些細な感情を知る事と、些細な感情で得られる経験知を蓄積する事を目的にしている。
実際の指導では、公園ではなく朝の散歩でさせていた。