宗教の教えは「道徳」としては、ごもっともな事が多い。
道徳的観点からすれば、言っている事に間違いは無い。
しかし私は、そこに疑問を感じている。
どんな宗教でも基本的なベクトルは同じで、単純化したベクトルは主に「禁欲」である。
まず禁欲だが、動物の精神的な活力は、食欲、睡眠欲、性欲の三大欲に起因する。
金欲はその三大欲を満たす為の物である。
また宗教は、何かと善と悪に分けたがり、欲は「悪」の部類に入り、戒められる傾向にあり禁欲を強いる。
そもそも善と悪など、立場によって変わる。
人を殺せば殺人者、沢山殺せば大量殺人者。
そかし「戦争」と言う名目が付けば、大量殺人者は「英雄」になる。
「汝の敵を愛せ」と言いながら十字軍を送り、ジハードと言ってテロを行なう。
どちらの宗教も、人を殺す事は悪い事に変りは無い。
「神の教えに背く者」・・・それが大きな間違い。
神の教えではなく、宗教家の言葉である。
宗教と言う物は、神の名を語った宗教家によって作られている。
特に、カルトと呼ばれる宗教の教祖の多くが現実的には異常者である。
善とか悪とかを区別するのではなく、恐らく「陰と陽」なのだろう。
磁石にS極とN極があり、棒磁石を二つに折っても必ずS局の反対はN極になる。
電気も同じで、+と-があり、-極から+極へ電子が流れて電気が生まれる。
+だけ、-だけでは電気は生まれない。
SとNが揃って磁石、+と-があって電気、光があるから影がある、両極が揃って一つの物となる。
心も同じ。
生命活動の源となるのは「欲」であり、欲のエネルギーで人は行動的になる。
その欲を禁じてしまえば、エネルギーは生まれない。
食欲が無ければやせ衰えて死んでしまう。
性欲が無ければ種は絶滅してしまう。
「悪を陰」、「善を陽」に置き換えれば、陰から陽に欲が働いて生きるエネルギーが生まれる。
欲が強ければ強欲(貪欲)になるが、強欲(貪欲)にならなければ何事も大成しない。
電池は使わなければ安定し、電池を使えば明かりを点けたり、モーターを動かしたりして、役に立つ働きをして、エネルギーを消費して寿命を終える。
しかし明かりに使えば熱を持ち、モーターとして使えば熱だけではなく、音もでる。
その熱や音はトラブルとなったりする。
しかし使わなくても、自然放電をしながら寿命が無くなる。
心も電気と同じである。
欲を捨てれば心に変動は無くトラブルの無い安定を望めるが、何の働きもせずに一生を終える。
宗教的な教えは、このエネルギーを奪う。
人間としての活動期を終え、余生を送る上ではそうした心の安定は必要かもしれないが、人間として覇気のある活動期には心のバランスを失いかねない。
昔から、信心と言えば年配者の十八番だった。
それを信者獲得で若年者を入信させようとするから無理が出る。