昨日、NHKで「どうする未婚社会」と言う番組をやっていた。
色々な意見が出ていたが、今しか見ていない気がする。
自分の時間を大切にしたい気持も分かるし、収入面の心配も分かる。
しかし、私も20代や30代の頃は考えた事も無かった事を、40代になって初めて分かりかけてきた事がある。
それが「存在」と言う物。
「MONSTER」と言うアニメが有ったが、そこで描かれている世界観に似ている。
年を重ねると、昔からの自分を知っている人が、一人また一人と死んで行く。
近所のおじさんやおばさん達、学生時代の友人や先輩、恩師や同僚、親や親族。
同じ時間を生きた人達が、自分の周りから少しずつ消えて行く。
若い頃はそんな事考えもしないが、年を取り周りを見渡すと随分周りが寂しくなってきた事に気付き始める。
そして、ふと考える・・・自分の老後。
自分が年老いた時、どれだけ自分の事を知っている人がいるのだろうか?
私はすでに両親は居ない。
叔父が死に、叔母が死に、母方の兄弟は全て他界した。
父方には伯母が二人残っているだけ。
今の自分を知っている人はこれからも出来るだろうが、自分が何をして何をやって来たかを知る人は、自分の妻と子供だけになって行く。
それは家内も同じだろう。
共に同じ時間を過ごし、同じ苦労を味わった存在。
今は、それがとても大切に思える。
もし、そうした存在を作らずに年を取ってしまったら、恐らくとても寂しい老後になるだろうな。
子が育ち、その子が親になる。
自分の親が、自分の存在の証であったように、自分が子供の存在の証になり、それが連綿と続いていくのだろう。
それを実感するのが「葬式」で、若い頃は他人の葬式に出る機会が少ない。
しかし、年齢と共に葬式に出る機会が増えてくる。
そして色々な人の葬式を見て思う事がある。
それが親族の数と列席者の数。
親族も列席者も多ければ、質素な葬儀でも盛大になるが、いくらお金をかけても列席者が少なければ惨めな葬儀にしかならない。
そして、多くの列席者が集まる葬儀には滅多にお目にかかれない。
今までで、一番哀れだったのが同じ団地に住んでいた「放火魔の父親」だ。
その人は、父と息子の二人暮しだったが、息子が団地で連続放火をして逮捕された。
その拘留中に父親が死んだ。
しかし、他の親族は見つからず、仕方が無いので団地で葬儀を挙げたが、誰も出席する人は無く、準備や導師の相手をする町内会の人だけしか居なかった。
例え生前に仲違いしていても、多くの人が来る葬儀と、誰もいない葬儀。
その葬儀に、その人の人生が集約されていると思う。
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